64.最後に抱きしめて
「謝らないでください」
謝られると余計悲しくなってしまうじゃない。
「でも、わたしはアリスを傷つけてしまっただろう?」
心配そうな顔で私を見つめるウィルの方こそ、傷ついたような悲しい顔をしている。
「私は大丈夫ですよ。キャロライン様はとても良くしてくださってますし、アナベルもいるので耐えられます」
ガッツポーズをしてにっこり笑う私を見てウィルも笑った。
「よかった。じゃあ明日には王宮に帰って来てくれるかい?」
「えっ? 帰ってもいいんですか?」
「もちろんだよ。アリスが帰って来てくれなければ困ってしまうよ」
そんなこと言って、グレースさえいればいいんじゃないの?
我ながら可愛くないとは思うけど、ウィルの言葉を素直に受け取れない。
グレース様は公爵家の令嬢だ。ウィルに相応しい身分でありながら、書庫の蔵書の選定を任されるほどの学もある。誰が見ても私よりグレースの方がウィルには相応しい。だからロバート様だってウィルの次のパートナーに私ではなくグレースを選んだのだろう。ウィルだって……
暗い気持ちが胸の奥からどんどん噴き出してくる。分かってる、分かってるのに……なのにどうしてだろう。苦しくて苦しくてたまらない。
「アリス……」
ウィルの手が私の顎に触れ、クイッと顔を持ち上げた。ウィルの澄んだ青い瞳が真正面から私を見つめている。
「もうそろそろ行かないといけないんだけど……やっぱりわたしに抱きしめられるのは嫌かな?」
ウィルの瞳に不安げな色が見える。
きっと私自身の中にも最後にウィルに抱きしめて欲しい気持ちもあったのだろう。真面目な顔をして見つめられたらもう嫌とは言えなかった。
「アリス?」
私を呼ぶ声に顔をあげると、黙ってしまった私を心配そうに見つめるウィルの顔があった。
「ウィル……あの……抱きしめてください……」
消え入りそうな私の言葉を聞き終わるやいなや、ウィルの腕が背中に回り思い切り抱きしめられた。
「アリス……」
ウィルが優しく私の髪を撫でた。
「これからもわたしの側にいておくれ」
なんでそんな事言うのよ!!
嬉しくも憎たらしくもあるウィルの言葉が私を傷つける。
あったかい……
ウィルの腕の中にいるとドキドキしてたまらないのに、これ以上ないほどの幸せを感じる。キャロラインにもグレースにも……他の誰にだってこの場所を譲りたくなんてない。
私……ウィルの事大好きなんだ……
あー、もう……こんなはずじゃなかったのに。
別れる今になって自分の気持ちに気づくなんて。
ううん、本当はもっと前から分かってたんだと思う。でもどうしても認めたくなかったから気付かないふりをしていただけ。もしウィルのことを大好きだと認めてしまったら、私はどうしていいのか分からなくなってしまうから。
ウィルバートがキャロラインと結婚しなければ、私は元の世界に帰れない。でもウィルとキャロラインが結婚するなんて嫌だ。キャロラインじゃなくても私以外の誰かがウィルと結婚するなんて、考えるだけで耐えられない。
でも……私がウィルと結婚して一生この世界にいる覚悟もない。でもでもばかりで自分がどうすべきかなんて分からず流れに身を任せてきた。
ウィルの背中に腕を回して思い切り抱きしめ、広い胸に顔をうずめた。ウィル、大好き…… 声に出せない言葉を心の中で呟いた。
「アリス」
ウィルバートが耳元で囁くように私の名前を呼び、「ごめんね」っと囁いた。
ウィル、大好きだよ。
溢れ出しそうな想いを全部ぶつけるかのようにウィルを抱きしめ、私は自分の想いに蓋をした。
☆ ☆ ☆
「これはもう浮気ですよ、浮気。アリス様は悔しくないんですか?」
「いや、別に浮気ってわけじゃなくてね……」
「いいえ、浮気に決まっています。そうじゃなければグレース様と二人きりなんて考えられません」
ウィルがグレースの父親が催す晩餐会に出席するため、デンバー邸を出発したのは、ほんの少し前の事だ。
ウィルがその晩餐会にグレースだけを連れて行ったことがアナベルは気に入らないらしく、さっきからずっとこんな調子だ。
「アリス様をお連れしない事がウィルバート様の優しさかもしれませんよ。カサラング家での晩餐会なんてつまらなそうですもの」
ご機嫌ななめのアナベルとは反対に、キャロラインは上機嫌だ。今夜はもうウィルに邪魔されることがないと喜んでいる。
いや、だからね、二人とも私に話をさせてよ!! 興奮したアナベルと、浮かれたキャロラインと一緒では、なかなか口を挟むことができやしない。
ウィルがグレースを晩餐会に伴って行ったのは浮気じゃなくて本気であること。私とウィルはお別れなのだということを、変なタイミングで伝えることになってしまった。
「えぇぇぇ!? それは一体どういうことですか?」
アナベルが素っ頓狂な声をあげた。
「ウィルバート様がいらっしゃって、てっきりラブラブゥのイチャイチャァの甘ーい時を過ごしてらっしゃるとばかり思ってましたのに。それがどうして別れ話なんかになってるんですか!!」
一段と興奮したアナベルの唾が飛んでくる。
「アリス様、本当に別れ話をしたんですか?」
ううっ。私はまだ別れの辛さから抜け出せてないのに。どういう流れで、どうしてそんな事になったのかなんて聞かないで欲しい。今は何一つ思い出したくない。
キャロラインも驚いた様子だったが、アナベルのように声をあげたりはしなかった。ただ、「お話をお聞きする前に、まずはお着替えしましょうか」っとにっこりと笑っただけだ。
お着替え? なんでこのタイミングで? とは思ったものの、今回もお揃いを用意したというキャロラインからナイトドレスを受け取った。
あら、今回のは前のよりもいいかも。
花柄のレースがふんだんに使われた真っ白なナイトドレスはふんわりとしてとても緩やかだ。これなら体型を気にすることなく着ることができる。ちょっとスケスケすぎやしないかと思うほどに肌は透けて見えてはいるけれど、首までしっかり布があるので安心感はある気がする。
前回のお揃いナイトドレスは小さい胸をこんなにもアピールする必要ある? ってほどに胸周りの布が少なかったから着るのに抵抗があったのだが、今回は大丈夫そうだ。
とは言っても、やはりキャロラインと比べると同じもの着てるのに見栄えの面では全く違う。そりゃ顔もスタイルもパーフェクトなキャロラインと比べたら私が見劣りするのは当然か。
前回と同様、私が着替えをする間にテーブルの上はおいしそうなスイーツやパンなどでいっぱいになっていた。
こんなに美味しそうなものがたくさん並んでいるのに、今日はなぜだが手が出ない。いつもならどれから食べようかって悩むくらいなのに。
ふぅっとため息をつき、ぼんやりと窓から外を眺める。外はすでに暗くなり、美しい庭も夜の闇に包まれていた。その暗闇に激しく雨が降り注ぐ。まるで私の心の中を表しているかのような悪天候に、より一層鬱々とした気分に襲われる。
そんないつもとは違うわたしの状態を察したアナベルが、しきりと甘いものを勧めてくれるが、やはり胸がつかえて食欲がわかない。
「アリス様、よろしければこちらをお飲みください」
キャロラインの侍女が用意してくれたのは、セントジョーンズワートというハーブティーだった。落ち込んだ時におすすめだというそのお茶は、結構苦味があるがまぁ不味くはなかった。
「アリス様、色々あってお疲れでしょう。今夜はゆっくり眠ってくださいね」
私がお茶を飲むのを眺めながらキャロラインが言った。
「えっ? お話するんじゃなかったんですか?」
お揃いのナイトドレスに着替えたのは、てっきりパジャマパーティーで、夜通し喋るためかと思っていた。
「そうですね。でも今夜はお一人で過ごしたいでしょうし、お話はまたアリス様のよろしい時にいたしましょう」
私が落ち込んでいるのを察して一人にしてくれようとしているのだろう。キャロラインが自室へ帰る準備を始めた。いくら自分の家だからといっても、これだけ大きな屋敷だ。ナイトドレスのような無防備な格好では歩けない。キャロラインはナイトドレスの上に、体がしっかりと隠れるコートを羽織った。
侍女を引き連れて部屋を出ようとしているキャロラインを見ていると、急に心細さを感じ、気づけばキャロラインのコートの袖を掴んでいた。
「どうされましたか?」
キャロラインは一瞬驚いた様な顔をしたが、すぐに優しい微笑みを浮かべた。
「あの……もしよければもう少しだけ一緒にいてくれませんか? なんだか寂しくて……」




