屏風の虎は、いつ帰ってくるのか
「これが、噂の『虎屏風』ですか?」
「ええ、その通りです」
虎の屏風とは名ばかりで、そこにはただ、何の変哲もない竹藪が描かれているだけでした。よくよく観察してみると、絵の中の地面には大きな動物が抵抗しながら無理やり引き摺られたかのような足跡が残されていました。私はそこまで本格的に絵画鑑賞を嗜んではいませんが、後から適当に付け足して描かれたものでないのは確かです。
「元々は行商人から疫病退散のご利益があると勧められて購入したものなんです。ただ、妻があまりにも本物そっくりに描かれている虎を怖がり嫌いましてね。それで、冗談交じりで法事にやってきた和尚様に虎退治をお願いしてみたんです」
有名な頓智話に掛けて和尚をからかったつもりが、その頼み引き受けようと返されて仰天したそうです。危険だからしばらく部屋の外へ出ていなさいと言われて、妻と一緒にかれこれ数十分ほど待っていた村長。
疲れはてた声で呼ばれて室内に入ると、汗だくになり乱れた法衣姿の和尚と、すっかり殺風景になってしまった屏風が立っていました。さらに床にはいくつも真新しく、鋭い引っ掻き傷が残されており、和尚の衣も所々破けていたそうです。
「すまない……どうやら、わしも年には勝てんかったようだ。屏風から追い出すところまでは成功したが、奴を取り逃がしてしまった。村の者たち、特に小さな子供にはくれぐれも、外を出歩く際に気を付けるよう、促してくれないか?」
慌てて和尚に言われるがままお触れを出した村長。最初は彼と和尚の正気を疑った村人達も、ひとたびこの屏風や部屋の惨状を目にすると顔を真っ青にして必要時以外は家に引き籠るようになったのだとか。夜になると唸り声を聞いたという噂もあちこちから聞こえ始めているそうです。
「それで、今日は高名な祈祷師様に、あとどれくらいで屏風の虎が去ってくれるのか、あるいは捕まるのかを占っていただきたくてお呼びしたのです」
「……なるほど……」
そこまで聞いて、やっと私が呼ばれた本当の理由が分かりました。
そもそも私は霊能力なんて持ち合わせていないのですが、人よりほんの少しだけ物事を観察するのが得意らしく、悩み事や隠し事を勿体ぶって当てて見せていたらいつの間にか有名な占い師、祈祷師と祭り上げられてしまったのです。
今回の騒動、もぬけの殻になってしまった屏風の謎を論理的に説明できる、もっとも簡単な筋書きがただ一つ存在します。それは「最初から虎なんて描かれていなかった」というものです。つまり村長夫婦も和尚も、それから勿論この屏風の作者である絵師もグルになって村人を騙したという訳です。
では、どうしてそんなバカバカしく手間のかかる芝居を打ったのかといえば、巷を騒がせている流行り病のためでしょう。どうやらこの病気は特に子供が罹りやすく、厄介な「ういるす」というもののせいで、すぐに人から人へと感染してしまうようなのです。既に他の地域でも多数の死者が出ています。
ただ、馬鹿正直に外出を控えろと言われたところで、目に見えないものの存在を信じさせるのは簡単ではありません。そこで同じ見えないものならば、より分かりやすく恐ろしいもの、即ち屏風から抜け出した虎を利用することにしたのでしょう。
当然、村人の中には村長達の嘘を見破っているものもいたでしょうが、その真意に気付いていたからこそ何も口にしなかったのだと思われます。
ただし、我慢にもいつか限界が訪れます。このままではいつ終わるのか分からない見えない虎への恐怖で、精神が先に参ってしまうものが現れるかもしれません。そこで私が呼ばれたのでしょう。この生活の終着点を明らかにするために。各地を放浪している私のような人間なら、大体この病が収束する時期についても予想がつくと考えていたのかもしれません。
「そうですね……占いの結果によると、あと数か月もすれば外の世界にも飽きて、自ずから屏風に戻ってくるでしょう」
「ほう! そうですか! それは何より……まあ、妻にはまたうんざりされてしまうかもしれませんが……」
村長は私の返答に満足気に頷きました。
すっかり病が収まった半年後、村長の屋敷の屏風には、強い権力を持つ何者かの意志が色濃く反映されたようで、どことなく愛嬌のある可愛らしい、丸くなって眠る虎が帰って来たそうです。