そして一人だけが残った
地球の外径は六百三十五万六千七百五十二キロメートルで太陽系の端から端までが二万八千光年だと言われている。人間の手は確かにそこまでは届いていた。しかし、成長は止まってしまう。どんなに才能にあふれた若者も時間とともにしわくちゃになって最後は老人になる。人間も同じだ。
かつては手が届いた場所に手が届かなくなり、世界はどんどんと小さくなる。私にいたってはベットの上から見える十平方メートルの空間がすべてだ。だから、地球の裏側で島が消えていようと生まれていてもそれは私の世界の話ではない。異世界のお話だ。昔は世界は一つだなんて世迷い言をいっていたらしいが、そんなことはないのだ。世界はいくつもある。私の見る世界とほかの誰かの見る世界は全くの別物だ。そんなことも分からないから人類は大きな失敗をしたのだ。
反物質の流失とその後の大災害。人類は外宇宙へ希望を見出そうとした者と空間転移という未知の技術に命運を託した者。そして、それらに賭けることもできずに滅びを受け入れて地球に残った者に分かれた。彼らはそれぞれの世界を信じて競い、ときに争い。そして誰もいなくなった。
いま地球に残っている人間は二人しかいない。
少し前までは五人だったのに滅びというのは容赦がない。死んでいった者には彼らの世界があった。ミリアリアと呼ばれた女は反物質炉の解体に生涯をかけた。大統領と呼ばれた男は人類に残されていた宿題を片付けた。冒険者なんてキザったらしいあだ名の男はどこまでも自由に生きて私との約束も守らぬまま消えていった。
あとに残された私は彼のとの約束からすでに八回のボディーチェンジを行っている。私が生きるために造られるクローンたちに意識がないとはいえ、生贄を糧に生きている化け物が自分ではないかと思うことがある。だとすれば、私の生というもの自体が悪なのかもしれない。
ポンと軽い電子音が響く。
「コーンウォール卿からの通信です。応対なさいますか?」
柔らかい女性の声する。彼女の名はデボラ。私の使う疑似人格インターフェイスだ。彼女を中心として複数のロボットがこの屋敷やクローンの培養を行っている。しかし、このベットから離れられない私にはロボットたちがどのように働いているかは分からない。
「どうぞ」
「繋ぎます」
短い回答のあとベットのすぐ前の空間に顎髭の長い老人が映し出される。
「クィーン。お久しぶりだね。息災のようだ」
「コーンウォール卿こそお声に張りがあります。なにか良いことでも?」
「良いことか。なるほどなるほど。まぁ、良いことじゃな」
老人は目を細めてほほ笑む。その姿は実に自然に見える。しかし、彼の姿はすでに失われている。大災害後の戦争によって彼は頭部以外のすべてを失った。残った脳は機械に接続され彼は生きながら電子の世界の住人となった。目の前に映っているのは投影された彼の影法師に過ぎない。
「それは一体どのようなことですか?」
「ダリウスの死後、空席にしていた大統領の地位を君に受け渡す手続きが完了した。明日から君が人類最後の大統領となる」
不思議な話だった。前任の大統領であるダリウスが亡くなってからすでに三年が経過している。人類が残してきた数々の宿題も解決されており、いまさら大統領がやることがあるようには思えない。それどころか大統領の役職はコーンウォール卿が承認を行わなかったせいで継承ができなかっただけだ。それをいまさらというのはどうにも不思議な感じがした。
「別に私は大統領じゃなくても構いませんよ。大災害の時代から人類を見守り続けてきた長老であるあなたのほうが役職にふさわしいのですから」
彼がこれまで承認を行わなかったのは私のような小娘が高い役職につくのが許せなかったのではないか。私の言葉が面白かったのか老人は声だけで笑うとゆっくりとした調子で口を開いた。
「わしは臆病者だった。外宇宙へ繰り出して新たな開拓地を切り開くような勇気もなく、空間転移という未完成の技術に身を預けるような冒険心もなかった。その結果、現状維持というままに戦争に参加して身体を失った。あのときに死んでおけばと何度も思ったよ」
「あなたは脳と意識だけになっても生きてきた。人類が残り二人になっても。それはなぜですか?」
「簡単なことじゃよ。死ぬのが怖かった。だが、同じくらいに興味があった」
「興味ですか?」
私が首をかしげるとコーンウォール卿は老人特有の何を考えているか分からない表情でこちらを見た。だが、実際に私を見ているのはカメラであり彼ではない。それでも彼に見られていると感じるのは不思議な感覚である。
「そう。興味だ。世界が終わるというのがどういうものなのか。終末のラッパが奏でられ大いなる災いと選別が行われるのか。死に去りし懐かしき人々が甦ったうえで裁判が行われるのか。それともただ単に人間という種が消え去り次の万物の霊長が現れるまでの歴史年表上の空白が続くだけなのか。不謹慎なことだろうが、わしはそれが知りたかった」
「本当に悪趣味ですね。では、あなたは私が死ぬまでを監視されると?」
彼の考えは本当にひどい。かつて存在した動物園でさえここまで俗悪ではなかったに違いない。檻の中で飼われる生き物も檻の外でそれを観覧する生き物も同じだなんてまっとうなものではない。
「安心したまえ、君を見世物小屋のサルだと考えているわけではない。だからこそ、今日という日が選ばれたのだ」
人類が一万人をきったあたりから暦や祝日、記念日というものは何の意味も持っていなかったはずである。かつて人は様々な記念日をつくった。それらの中には突拍子もないものもあったはずだが、人類最後の大統領を渡すにふさわしい日などありはしない。
沈黙を続ける私に老人は笑う。
「別の話をしようか。君はテセウスの船というパラドクスを知っているかな?」
「……いえ、あまり知りません」
「そうかね。最近の若者はこれだから……。いや、最近もないな。人類はわしとクィーンしかおらぬのだった。テセウスの船とは簡単にいえば同一性の問題だ。例えばここに一艘の船があるとしよう」
コーンウォール卿が胸の前に手をかざすと帆のついた木造船の映像が浮かび上がる。
「ある日、大きな嵐があって船のマストが折れた。君ならどうするかね?」
言葉と一緒に大きな嵐に船は包まれて根元からばっきりとマストが折れた。
「修理します。折れたマストの代わりに新しいマストをつけます」
老人はうなずくとどこからともなく新しいマストが現れて古いマストと置き換わった。
「そうこうしていると船体の板が古くなって水漏れをするようになった。これも新しい板で修理しよう」
船体の板が一瞬ではがされると竜骨がむき出しの状態になる。そして、また先ほどと同じように新しい板が現れて船体を覆っていった。私はようやく彼が何を言おうとしているか分かった気がした。
「分かったかね。このまま、舵輪や舵、甲板と変えていくとどうなる。すべての部材は新しいものに置き換わり、建造されたときの材料は何一つなくなる。それでもこの船は最初と同じ船と言えるかね?」
機能的にこの船は同じ船である。だが、物質的には全くの別物である。
「それは……」
私は答えをすぐには出せなかった。
「難しいかね。だが、わしはこのことに答えを出した。それが人工臓器に関する措置法だ。これはわしが最後に議会に通した法律だ。この法律に該当する者はこれまで出なかったがようやく一人の人間が該当することになった」
それはクローンの身体を移植し続けている私のことだろう。
「私の……」
「違う。わしじゃよ。この会話終了後にわしの最後までの残っていた脳幹の一部が人工臓器に置き換わる。これでわしの肉体から肉と言える基幹はなくなる。さて、君はどう思う。すべての臓器が機械となった人間は人間かね? それともロボットかね?」
「肉体がいくら置き換わっても精神がおなじならそれは人間です」
「それが君の答えならわしとは相容れない。精神という目に見えぬものでどう連続性を見る。どう機能を数値化する。できぬだろう。じゃからわしは決めたのだ。すべての臓器が人工臓器に置換された場合、人間としての人権は停止される、とな」
「つまり、コーンウォール卿は今日、死ぬと?」
「死ぬとは違う。権利を失うのだ」
老人はひどく楽しそうに笑った。私には何が楽しいのか分からなかった。人としての権利を失うということはやはり死ぬということではないだろうか? それとも人としての範囲から出られるという解放をさすのか。ならば解放された先は何があるというのだろう。
いまよりもいいことがあるのか。
「……私には分かりません」
「じゃろうな。だが、わしは楽しみでならん。人としての世界を楽しみ。次はロボットとしての世界が待っておる。これはほかの誰もが体験したことがないことだ。わしだけがなせることだ。外宇宙にも空間転移にも踏み出せなかったわしがここだけでは先駆者となる。これほどの喜びはない」
この老人は狂っているのだろうか?
それとも脳以外を失った時点で人間でなくなっていたのか。いまも人間で私のほうが狂っているのか。
分からない。
「さて、長話をした。わしは次の世界に行く」
小さなノイズと同時に老人は消えた。
それと同時に人類が持つすべての権利を有する大統領の地位が私に与えられるという無味無感動な通達が届いていた。コーンウォール卿が望んだものが正しいのか。私には分からない。人類の新しい進化のカタチとして認めるべきかもしれない。
だが、私はそれを肯定できず。そしてなによりも嫌悪感が強かった。少しの逡巡のあと私はインターフェイスを呼び出した。
「デボラ」
ポンと電子音が響く。
「大統領権を行使します。コーンウォール卿の有していた電子空間を凍結。以降、ロボットとしての彼あるいは人工知能としての彼の活動は停止とします」
小さな無音を挟んだあとポンという気の抜けた音がしてあの風変わりな老人が停止させられたことを私は確認した。アベルとカインが人類初の殺人だとすればこれは人類最後の殺人なのかもしれない。だけど、私はただロボットを止めただけだ。
それだけの話だ。
私は少しだけ疲れを感じて倒れ込むように横になる。あっという間に睡魔が私を覆う。目が覚めたらどうしよう。十平方メートルだけの人類圏が歪み闇に染まる。