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53.行進2

 ソフィア・メーベルトにとっても、『神の奇跡』は理屈の分からない力だった。


 エルウィン・シュティーフェルと初めて会ったあの日、彼女の体の中に言いようのない熱が宿った。それは、恋心だったのかもしれないし、『番い持ち』としての覚醒だったのかもしれない。

 誰にも分からないその熱は、彼女の体と心を蝕み、あの日、外に溢れ出た。エルウィンに助けられ、初めて『神の奇跡』を起こしたあの日に……。


 ソフィアには、その力をコントロールすることはできなかった。

 誰も彼女にコントロール方法を教えなかったし、コントロールする必要があるとも言わなかった。その力が何のために生まれたのか、誰の手によって生まれたのか、一度も気にならなかったと言えば嘘になる。コントロールできなくて責められたらどうしようと、不安にならなかったと言えば嘘になる。


 けれど、そんな些細な不安はすぐになくなった。

 彼らはどこまでもソフィアに甘くなった。かつて、市井で自分をゴミのような目で見ていた貴族たちが媚びへつらってくる。頭を下げておべっかを使ってくる。何をしても怒られない。自分のわがままを聞き入れない者こそが責められる。


 もう、我慢しなくていいんだ。もう、貴族の顔色を窺ったりなんかしない。欲しいものを欲しいと言っても良いのだと、ソフィアは気づいた。


 コントロールできない力で人助けなんてする気はなかった。世界の均衡なんてどうでもいい。そんな難しい話、学のない自分にされたって分からない。でも分からなくたっていい。だって自分にはそれが許されている。


 そう、思っていたのに――



「……え?」


 ソフィアは驚愕に目を見開く。焦点の合わない目で周囲を見まわすが、彼女は何かを見ようとしていたわけではない。

 あの日、エルウィンと初めて出会ったあの日に生まれた熱が――神の奇跡を生み出す力が、消える。今まさに、消えようとしているのが、ソフィアには分かった。


「いや……だめ、消えないで……消えないで……!」


 体から逃げだそうとする力をつなぎ止めるように、己で己を抱きしめるが、力は逃げる。消える。


 もう、ソフィアの元には戻らない。


 なぜこうなった、誰のせいだ、誰が悪い? ソフィアは周囲を見回して、責任転嫁の対象を探した。迷うまでもない。ソフィアが全責任を向け、責め立てたい相手なんて一人しかいない。


 ソフィアは憎しみに満ちた目でルイーゼを見る。あまりにも強い殺意に危機感を抱いた衛兵たちが、ソフィアを取り囲む。この場から少なくない平民を避難させることはできたが、一人残らず避難させることはできない。

 衛兵が激昂する聖女を危険視して取り囲むその様を、少なくない観衆が見ている。


「聖女様、お気を確かになさいますよう……」


 衛兵が混乱しているのは誰の目にも明らかだ。彼らの目的は聖女・ソフィアを沈静化させること。衛兵を始め、観客も誰も彼もが異様なものを見るような目で自分を見ている。


 色々見て最後、ソフィアの目に映ったのは、衛兵に庇われ、エルウィンの腕の中にいるルイーゼの姿。


「いやあああっ!!! 嘘よ嘘っ! わたしは選ばれたの! 選ばれたのよぉ!!!」





 最終的にソフィアは、騒ぎが起きた為に急遽派遣された枢機卿に鎮静剤を打たれ、彼が連れてきた教会騎士に大聖堂へと連行された。この場に残った市民には、僅かばかりの金銭と引き換えに箝口令が敷かれた。しかし、既に多くの市民が避難していた上に、人の口に完全に戸を立てることは不可能で、今代・聖女に関する醜聞が市井に広まるのも時間の問題だろう。




 ◇◆◇



 教会の聖職者が事態の収拾に当たっている間、ルイーゼとエルウィンは例の別邸へ戻ってきた。ソフィアを放っていていいのかと戸惑うルイーゼを、エルウィンが引っ張ってきた形で。


 ――これは、どういう状況??? なんで……エルウィンの記憶が戻ってるの? ソフィアは一体どうなったの? 聖女の意向を無視したような衛兵たちの動き……何事???


 ルイーゼにも、あの正体不明の風が起こってから、ソフィアに何かあったらしいことは分かる。最初は、風で目にゴミが入ったぐらいの認識だったけれど、衛兵の態度を見て分からなくなった。

 あの瞬間まで、世界はソフィアのために回っていたはずだ。少なくともルイーゼにはそうとしか見えなかった。それが、なぜ、こんなことに……???


 落ち着いたら一体何がどうなっているのか、エルウィンに確認しようと思っていたルイーゼだったが、玄関のドアを押すと同時に、背後から抱きしめられた。


 長く感じることのなかった力強い腕や厚い胸板の感触にほんの少し、緊張が走る。相手が彼だと分かっているのに、少しの恐怖を覚えてしまうのは顔が見えないからか、この感覚を忘れかけていたからか……。


「……よかった」


 彼の口から、熱い吐息と共に漏れ出た言葉。心の底からの安堵だと分かる。回された腕が微かに震えている。もしかして泣いていたらどうしよう? 表情を確認したくても、背後から抱きしめられている状態ではその顔を見ることはできない。

 ルイーゼは目の前の腕に自分の手を重ねて、彼が心の底から安堵できるように祈りを込める。


 エルウィンの手が、ルイーゼの顎をかすめる。どうしたんだろう? と思う間もなく、ほおをかすめ、顎を滑る。これほど近くに彼の熱い吐息を感じるのは久し振りだ。服の上からでも分かる厚い胸板、その奥で息づく鼓動を感じるのも久しい。消して華奢な見た目ではないが、鍛え抜かれているようには到底見えない腕から感じる力強さも。

 いつもエルウィンを抱きしめてきたルイーゼは、彼はいつも体温が高いなと思っていた。それが鍛え抜かれた筋肉から来ているものだというのは、抱きしめられている方がより感じる。

 腕の力が緩み、ルイーゼはエルウィンと向かい合う。

「……ここ玄関なんだけど?」

「……うん、ごめん」


 ――もう、しょうがないなぁ。

 ルイーゼは半分諦めたような、期待しているような心境で、エルウィンの唇が降りてくるのを待った。

 ・

 ・

 ・

「ここは玄関だって言ってるでしょッ!!!」


 本当はもっとエルウィンの好きにさせてやりたい気持ちもあったが、ルイーゼにも都合というものがある。このままでは、玄関で服を脱がされかねない勢いになってきて、慌ててエルウィンから距離をとった。


 ――別に、嫌なわけじゃないのよ! ただ、今は、状況が状況だし……これから、どんなお客様が来るかも分からないし……!


「もう! 早く中に入って!!!」

 ルイーゼはエルウィンの背中を押して、ダイニングへ向かおうとしたのだが、なぜか力が入らない。エルウィンのせいだ、と熱く潤んだ瞳でルイーゼが彼を睨みつける。

「ごめんって。そんなに怒らないでくれ」

「……別に、怒っては、いません」


 今度は、怒るルイーゼをエルウィンが宥めながら、ダイニングへと足を進める。別邸内にはもちろん誰もいない。あの一騒動の後で、これから夕食の準備をしなければならないのだ。

 暴動に巻き込まれかけた時、エルウィンがかばってくれたので大きな怪我を負ったりはしなかったものの、体に痛みや疲れが残っていないわけではない。ソファーにくつろいでまったりしていると、このまま睡魔に負けてしまいそうな倦怠感もある。

「夕食は俺が作るよ」

 眠たそうにしているルイーゼを気遣ったのか、見かねたのか、エルウィンがそう申し出た。彼の顔に疲れの色はない。

「……」

 さわやかな笑顔とともにそういうエルウィンを見つめていると、彼の記憶がなかった頃に散々、家事についてダメ出しをされていたことを思いだす。


「……やっぱり社交辞令だったんだ」

「え?」

「ううん、なんでもない」


 別荘で駆け落ちもどきをしていたあの時、エルウィンは「問題ない。よくできている」とルイーゼの家事を褒めてくれていた。生粋の貴族令嬢であるルイーゼが、一朝一夕で家事スキルを身につけることなど、できるはずもない。


 ――分かってはいたことだけど……もう少し、練習した方がいいかしら?


 今回の騒動で、ソフィアは聖女の任から解かれることになるだろう。彼女の手による洗脳……のような状態はなくなった。エルウィンがソフィアの側から離れたからと言って、無関係となった教会に捕らえられることはないだろう。今さら彼を再処分したところで、教会が得をすることはない。教会関係者から個人的な恨みでも買っていない限り、問題はないと思いたい。

 何かあったら、やはりまた、この場から逃げ出さなければならない。ルイーゼに迷いはなかった。


「できたよ」

「ありがとう」

 料理の盛り付けやその他の手伝いならば、ルイーゼにもできた。

 ダイニングへ戻ってきた当初、思うように力が入らなかったのはエルウィンのせいだということに気づくには、ルイーゼがもう少し経験値を積んでからのことになる。




 その後数日、エルウィンは教会や裁判所へ出頭し事後処理に追われる羽目になった。危惧していた再処分の心配はなさそうで一安心だ。呼び出しがあった初日は、ルイーゼはエルウィンを連れて逃走する気満々で教会に楯突くものだから、エルウィンは一苦労した。


 『聖人・聖女』という存在は、国にとっては、教会とのパワーバランスを保つための駒。教会にとっては、自分達の支配下にない奇跡を支配下に置き、自分たちの権力を保つための駒、という役割しかない。彼女にしか倒せない敵が存在するわけでも、世界が滅んでしまうわけでもない。

 けれど、現れてしまえば『聖人・聖女』は、死ぬまで誰も逆らえない存在だと思われていた。そんな『聖女』が、生きながらにして資格を失った。彼女に愛されていながら、終始、その影響を受けなかったエルウィンに事情聴取をしたがる輩は多かった。


「じゃあ、もう処分の心配はいらないのね?!」

 エルウィンがある日持ち帰った答えに、玄関だというのに、ルイーゼは歓喜して飛びついた。よかったと泣きそうな顔で喜ぶ彼女の指に、また新しい切り傷を見つけてエルウィンは顔をしかめる。

「そういうわけだから、君はキッチン立ち入り禁止」

 言われて慌てて指を隠そうとするが、先に手を取られる。

「どうして治癒師に治してもらわないんだ?」

「……思いつかなかった、かな?」

「本当に?」

 教会を避けているわけではない。エルウィンはルイーゼの胸中を探ろうとしている目を向けてくるが、そんな目を向けられても、ルイーゼの方も困ってしまう。


「えっと、それでソフィアはどうなったの?」

 玄関からダイニングへ移動して、ルイーゼは、かねてから気になっていたソフィアの件を尋ねた。ルイーゼは外から帰ったばかりで、若干冷えているエルウィンの上着をハンガーに掛けながら、彼をソファへ誘導する。冷えた彼の手を自分の手で温めるのが最近の日課であり、ルイーゼにとっては至福の時だ。


「ああ、彼女は……表向きには亡くなったことになるようだ」

「えっ?! な、なんで……」

「彼女の身を守るためでもある。『聖女』というのは、政治的に非常に便利な駒だからね」

 エルウィンの言葉に、ルイーゼは今ひとつピンと来ないような顔をする。彼女のそんな顔を見て、彼は苦笑を浮かべつつ――。

「もう、片付いたってことだよ」

 そう締めくくり、この話を終えた。


「大聖堂でジェヒュー様とメーベルト伯にも会ったよ」

「あっ……」

 ――忘れてた!




 ◇◆◇



 ソフィアから『龍神の権能』が消えたことは直ぐに分かった。特にソフィアに近い存在であればあるほど。それはソフィア・メーベルトの家、メーベルト邸ではちょっとした騒ぎにもなっていた。

 最終的にシュティーフェル家と再度の話し合いが設けられ、当人達の希望を考慮して収まるべき所に収まった。


 ルイーゼ・メーベルトは、エルウィン・シュティーフェルの婚約者の座を取り戻した!



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