38.無価値な奇跡3
◇◆◇
ジェヒュー・メーベルト邸に混乱がもたらされていた頃、ルイーゼは――馬二頭で四人乗りの荷車を引く馬車の中で眠りこけていた。この馬車はジェヒュー邸で昔、使用されていた荷車だった。今は一線を退いて倉庫に眠っていたものを、静かに引っ張り出して夜通し調整を行っていた。
ルイーゼがこの計画を聞いたのは昨夜遅く。眠りに就こうとしていた彼女の元を、ヘルタが訪ねて計画が話し合われた。
計画とは――メーベルト伯夫人とソフィア・メーベルトの頭が冷えるまでの間、ジェヒュー・メーベルトが所有する別荘への一時避難。
この別荘でひと月ほど自給自足の生活をして、耐えられそうなら市井へ行け、駄目なら駆け落ちは諦めて屋敷へ戻れ、と。駆け落ちの前科があるし、最悪、エルウィンの愛人に収まることができるかもしれないと言うのだ。実際は市井の生活はもう少し便利なのだが……。
ルイーゼがエルウィンと合流したのは、夜も明け切らぬ頃。
いつもルイーゼを起こしに来ていたメイドの代わりに彼が現れた時、夢心地になってしまったことはルイーゼだけの秘密だ。上流階級のお嬢様ではなく、少し裕福な中流階級の娘くらいに見えるような控えめのドレスを着て、ルイーゼは屋敷を後にした。
本人は隠しているつもりだが、朝一でエルウィンの顔を拝めて、ルイーゼは朝から上機嫌だった。……今は夢の中だが。
「ルイーゼ、到着したよ。起きられるか?」
「うん……」眠い目をこすりながら、ルイーゼは目を開く。荷台で眠り呆けていたルイーゼと違い、ここまで手綱を引いてきたエルウィンの顔に疲れの色は見えない。
馬車に揺られること数日の距離に、目的の別荘はあった。
ここはすでにメーベルト領ではない。ジェヒューの妻、ヘルタ夫人の遠い親戚の友人が統治している領地だ。馬車で数日かけた道のりを行くのは初めてのことではない。毎年、社交シーズンになると赴いていた王都――そこへの所用日数は一週間以上はかかったはずだ。
しかし、今回は事情が異なる。道中は過酷な野宿になるだろうとルイーゼは覚悟していた。実際は、街中のそれなりに立派な宿に泊まりながらの移動で、ルイーゼには苦ではなかった。到着したのは昼すぎ。別荘エントランスの直ぐ横にある荷台置き場に荷台を置き、先にある馬小屋に馬を繋ぎ直していく。随分となれた手つきだ。エルウィンは騎士としての教育を受けていると聞いた。だからだろうか?
付近を木々に囲まれてはいるが、馬車で十分も走った所には大きな商業都市がある。その街で五指に入る豪商の一人が、この別荘の管理人だ。実はこの別荘、結婚前のジェヒューがヘルタ夫人に取り入るために購入したもので、メーベルト伯夫人はその存在を知らないと、ジェヒューから聞いた。
加えて、ジェヒューは口には出さなかったが、祝福と呪いの関係が解明されていれば、ルイーゼとエルウィンを死んだことにして、このまま駆け落ちをさせてやるのも一つの手だと考えていた。
様々な人々の思惑を知りもしないルイーゼが、暢気に別荘の扉を開けると。
「騙された!!! 体の良い掃除要員として使われた!!!」
「ジェヒュー様はしっかりした方だから」
埃まみれの別荘内に、ルイーゼの叫びが響き渡る。
使用する前に、それなりに掃除が必要とは聞いていたが、まさかここまで埃だらけとは思ってもいなかった! まるで何年も使われていないような埃の溜まりようだが、この別荘は建ってからまだ数年しか経っていないと、ジェヒューから聞いていたのに、とルイーゼは頭を捻る。
別荘に着くなりメイド服に着替える羽目になった。ルイーゼが持ってきた豪華なドレスは、ここへ来る時に着ていた『裕福な商家の娘』風味のドレス一枚きりだ。いざという時はお金に変えるために持ってきたドレスだ。
市井に上手に溶け込むため、平民用の服も用意してはいるが……埃だらけのメイド服で街中を歩いていても、変な目で見られたりはしないだろうか? ルイーゼは少し心配になった。
メイド服は作業服でもあるが、布地は普通の服と大差ない。洗濯や乾燥に適しているわけでも、通常の服より頑丈にできているわけでもない。
それにしても――。
「朝から調子がいいわ! ……あの子の祝福は距離があると届かないのかしら?」
ジェヒュー邸にいた頃から、少しずつ体調は戻っていたが完治まではいかなかった。それが、今はとても体が軽い。
「本当にそうなら……それなら俺も直に解放されるな」
エルウィンはルイーゼの顔色を確かめるように、両手で頬を抱き込みながら顔を覗き込む。素でそんなことをするものだから、ルイーゼの頬に熱が籠もるのは当然のことで……。
「……熱? 疲れた?」
素で朴念仁ぶりを発揮するエルウィンの手の甲を軽くつねり、ルイーゼは不満の意を表明した。
三角巾で頭と口を覆い、なんちゃって眼鏡をかけて掃除に取りかかった。全ての窓を開け放し空気の入れ換えを行いながら、埃を箒で払い壁や床を水拭きする。
「本当に、あんまり無理はしなくていいんだからな……」
「大丈夫だってば!」
脚立の上に登り高所にある窓拭きをしながら、何度もルイーゼを心配そうに振り返るエルウィンの過保護っぷりに困惑しながら、掃除を進めていった。取り急ぎ取りかかったのは玄関、ダイニング、キッチン、寝室、風呂場の五箇所。客間、大広間、談話室やその他、急を要することのない部屋は後回しだ。
溜まっていたのは埃だけだったようで、空気の入れ換えや軽く埃を払う程度で大体は綺麗になった。
「そろそろ休憩にしよう」
「え? でも、全然終わってない……」
「一度に全部終わらせるようなものじゃない」
「そうなの??」
「二人しかいないんだしね。必要最低限な場所はもう終わった。後は明日にしよう」
「ええ、分かったわ……もう暗くなりそう」
そう返事をしてエルウィンの背にある窓から、外が暗くなり始めていることに気付いた。時間の経過を目の当たりにしたせいか、お腹が空いてきたような気がする。
「ディナーをご所望ですか? お嬢様」
「お嬢様はもういいのよ! ……キッチンの使い方を教えてほしいんだけど」
ルイーゼの申し出に、エルウィンはしばし腕を組んで考え込んでいる様子を見せる。一度や二度、断られても諦めるつもりはない。二人の未来を掴むためならどんな生活でも送れるのだと、エルウィンに分かってもらうまで、何度でも頼む覚悟だ。ちょっとの失敗は大目に見てもらおう。
「ああ、分かったよ。本当に、無理はしなくて大丈夫だからな?」
◇
エルウィンに指南を受けながら何とかルイーゼが作り上げた夕食は、野菜くずに干し肉を入れたスープと、硬いパンを薄切りにしてチーズを添えたものだった。
干し肉は携帯食ではあったが良い素材を使っていたおかげか、スープにしてしまえば味は悪くない。中に入っている野菜くずも、質の悪いものを使っているわけではない。
それでも……今までルイーゼが普段目にしてきた晩餐とは明らかに違う。
ルイーゼにとってそれは、新鮮なうちはエルウィンとの『物語のような駆け落ち』が楽しいだろうし、慣れた頃には本当に二人だけの幸せを手に入れているはずだから、何の不安材料にもならなかった。
気にしているのはエルウィンの方だ。時折心配そうに、不安そうに、申し訳なさそうに自分を見る目にルイーゼは気づいている。言葉で心配いらないと言うのは簡単だ。けれど、そんな言葉ではエルウィンの不安を払拭することはできないだろう。
「本当にこれだけで大丈夫なのか?」
「人を食いしん坊みたいに言わないでちょうだい」
ルイーゼは野菜スープを口にして。
「エルウィンは何か勘違いしてるみたいだけど、メーベルトの屋敷でだって、毎晩豪華な夕食が出てるわけじゃないんだからね!」
「そう……なのか?」
「エルウィンたちが来た時みたいな晩餐は、お客様仕様の見栄と欲望の結果よ! ……私だってそんなにお腹に入らないんだから」
質より量の心配をされると、そんなに大食漢に見えるのかと情けなくなる。
「明日は近くの街に行ってみたいの。……いい?」
「そうだな……じゃあ、一緒に行こうか」
「ええ」
エルウィンから色よい返事をもらうことができて安心した。明日は街に上手に溶け込んで、町人Aになってみせる。
だからずっと……私を貴方の隣に置くと誓って。
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