モーテル
43作目です。私は何とか元気です。
1
夜の一本道は曲がり道よりも不安になる。そんな気がする。
街灯は一定間隔でぼんやりと無気力に灯っていて、それが一本道の不安さを助長しているようだ。ただでさえ樹海が近くにあり寂れているのだから、灯りくらいは溌剌としていて欲しいものだ。
畷佐理は数年前に中古で購入した乗用車を走らせていた。中古で安く手に入れたので文句は言えないが、スピーカーが寡黙を貫いているので、こういった寂寞に満ちた夜道を走るのには向いていない。畷はあるリゾート開発会社に勤めていて、今はその出張の帰りだ。何でも、湖の畔に新たにホテルを造るとのことらしいが、視察に行った感想としては、湖こそ美しいが、その周辺一帯が鬱蒼とした樹海に囲まれており、人を集めるのには向かなそうな場所だった。しかし、リゾート開発というのは元の景観を過去のものにするのが得意なので、あの鬱蒼としてはいるが神秘的な空間は破壊されてしまうのだろう。
その湖は物布湖といい、今はそこから市街地へと続く道の上なのだが、疑問を抱くくらいに対向車と会わない。それが余計に寂しく思えるのだが、普通に考えて、あんな湖を夜に訪ねる輩がいるとも思えなかった。
変化の乏しい一本道を無心で運転していると、不意に光が見えた。それは対向車や街灯の光ではなく、何かの建物の光だった。来る時にこんな建物あっただろうか、と思いながら、畷は砂利の上に駐車した。
車から降りて、光源を見上げた。それは随所に錆びや凹みが見られる看板で、そこには「モーテル・湖﨑」とあった。古めかしいネオンライトは「モ」と「湖」でしか輝いていなかった。畷は建物の方を向いた。建物は二階建てで、細長い。一階にはガラス戸の部屋がひとつ、緑っぽい扉が三つ、二階には扉が五つあった。畷が現在いる、この駐車場だと思しき場所には彼の中古車を除いて三台の車が無秩序に停まっていた。というのも、砂利の駐車場には線らしきものが引かれていないからだ。畷はオーナーが大雑把な人間なのだろうかと思ったが、取り敢えず、他の車のように無秩序に停めたままにして、荷物を降ろした。大した荷物はないが、やけに重くて運ぶのに苦労した。
モーテルというのは道路沿いにある簡素な宿泊施設のことだと畷は知っていた。単語だけ聞けば、アメリカの漠然とした乾燥地帯の真ん中にぽつんとある建物が浮かぶ。いつぞやの洋画で見たような気がする。
畷はガラス戸を押して建物に入った。そこは明るいラウンジで、すぐにタキシードを着た初老の男が出てきた。
「ご予約はなされていますか?」
「いえ」
していなかったが、泊まれる自信はあった。モーテルは基本的に自動車で移動する人々のための宿泊施設であると知っていたからである。これもいつぞやの洋画で仕入れたものだが、肝心の映画が思い出せなかった。そんなどうでもいいようなことを考えながら、カウンターで用紙に名前や連絡先を書き込んだ。ラウンジを見回すと、大きなテレビと、その前には白いソファ、そして、ソファにはワイングラスを片手に持った女と携帯ゲームを弄っている金髪の若者がいた。
「お部屋は006号室でございます」
タキシードの男からルームキーを受け取って、荷物を置くために部屋へ向かった。その途中、ワイングラスの女の後ろを通ったのだが、何だか知っている雰囲気を感じた。
ラウンジを出て、一階の廊下を通り、奥にある階段で二階へ、そして、二階の廊下を少しだけ進んだところにある006号室の鍵を開けた。部屋の中はよくあるビジネスホテルと変わらないように見えた。別に部屋の設備の良し悪しなど気にしてはいないので構わなかったが、大きな窓ガラスからあまりにも黒過ぎる樹海が見えるのは我慢ならなかった。畷は幽霊などの類いに弱かったので、すぐにカーテンを閉めきった。
一息吐いて、荷物をベッドに置いた。中には簡単な書類や雑多なものが入っているだけだが、やけに重かったのは何故だろうか。
畷は酒が飲みたくなったので、ラウンジへ向かった。扉から出て右を向くと、誰かが煙草を吸っていた。可哀想に、煙草の灰が誰かの車の上にぽつぽつと落ちているようだった。
「あー死にたい。死にたい。死にたい」
煙草を吸っている誰かがそう呟いた。畷は聞かなかった振りをして階段を下った。一階の廊下を通る時、口論する声が聞こえた。それは103号室で、お互いに罵り合っているらしく、ちぐはぐな言葉が扉を透過している。耳を澄ませれば、何かがあるのかないのかと議論しているらしいが、畷はぞっとした。何故なら、議論に参加している声がひとつだけしか聞こえないからだ。恐らく、一人二役をしており、それは脳内会議が表に出てきたみたいに不気味だった。
自殺志願者、狂人、樹海近辺というのはこういう連中が集まるようにできているのだろうか。不安ではあるが、人間がいるということは最低限ありがたかった。畷はワイシャツの胸ポケットを叩いた。
ラウンジに入ると、さっきのようにワイングラスを持った女と携帯ゲームの金髪がテレビの前のソファに腰掛けていた。畷はまた後ろを通って、隅にあった自動販売機でビールを購入し、テレビから近めの椅子に座った。普段はアルコールなんて摂取しないが、今日は特別だ。あとで煙草も吸おうと思った。売っていればの話だが。
テレビではニュース番組がやっていた。何処かの一家が皆殺しにされたらしい。地名を確認したが、ここから百キロは離れた場所での出来事らしい。日々、色々な理由で人間は死ぬが、できるなら殺されたくはない。どうせなら、殺す側に回りたいものだ。一家殺害の話が終わり、日本と中国の関係悪化みたいな話が始まった。政治というフィルターを通すだけで世界というのは何倍も汚くなるが、それは政治だけでなく、リゾート開発というフィルターでもそうで、エメラルドグリーンの魅惑の海岸だって、背の低い草が生い茂る夏色の高原だって、畷からしたらモノクロにしか見えない。もう景色を「美しさ」という尺度で計測することはできないのかもしれないと思った。
金髪がソファから立ち上がり、ラウンジから出て行った。背の低い十代後半くらいの人物で、何処か物憂げな表情をしていた。畷が金髪の方を見ていると、「ねぇ」と声がした。畷が声の方を見ると、ワイングラスの女がこちらを見ていた。
「久しぶりね、佐理」
「君こそ、佐理」
彼女、海砂佐理は立ち上がって、畷の正面の椅子に腰掛けた。彼女は夜に反発するような真っ白のTシャツを着ていた。
「まだ小説家を目指しているの?」
「いいや、就職したよ。君が去ってからね」
「へぇ、どんな仕事?」
「リゾートの開発とかがメインの会社。今日は物布湖に視察」
「リゾートね。でも、物布湖なんて物好きぐらいしか来ないと思うけどね。あ、その物好きに入るのか、私」
「物布湖に行ったの?」
「そう。ボートに乗りに。さっきの金髪の子と一緒にね。あの子、無口だけど優しいのよ」
「あの子が新しい彼氏?」
「違うよ。それに、あの子は私と同い年の女の子よ。桜って名前なの」
畷は思わず、誰もいない一階廊下の方を見た。海砂と同い年には見えなかった。畷が海砂の方を振り向くと、彼女はケラケラと笑っていた。付き合っていた頃と変わらないようで安心した。海砂とは数年前に大学のサークルで出会って、意気投合した。ふたりとも読み方は違うけれど同じ漢字の名前だったのも大きかったし、名前の由来が同じだったのも大きかった。ふたりとも、藤原佐理という平安時代の人物に由来していた。当時、小説家志望だった畷と将来は未定の海砂は五年ほど付き合っていたが、なかなか芽が出ず、就職もしない畷に海砂が痺れを切らして出て行った。それからずっと連絡すら取っていなかったが、まさかこんなところで会えるとは夢にも思ってもいなかった。
「佐理は何してるんだ?」
「私? 私はね、ニート」
彼女は笑いながら言った。
「それ、笑い事じゃないと思うんだけど……。そんなワイン飲んでる余裕なんかないだろ?」
「余裕はあるにはあるんだ。あるからこんなとこまで来て、無駄に金を取るボートに乗って、モーテルに泊まって、そこそこのワインを今こうして飲んでるんだよ。今、お財布の紐はゆるゆる」
「何かデカダンスって感じだね」
畷はビールをぐびっと飲んで言った。安っぽい味が口の中に広がったが、これで満足だ。
「デカダンスね。そうだね、退廃的かも」
彼女はテレビの方を向いた。速報で、有名なタレントが死んだというニュースが流れてきた。畷はそのタレントをよく知らなかったので、その死の価値がわからなかった。海砂も首を傾げている。
「あの死って重要?」
「いいや。凡人の死と何も変わらないね」
「だよね。速報って基本的に後でもいいことばかりだよね」
「そういうものなんだよ、きっと」
「ねぇ、そういえば、私が出てってから、恋人とかいたの?」
「いないよ」
「本当に?」
「うん。就職でそんな余裕なかったし、就職してからもそんな余裕はないから、今のところいない。佐理も?」
「いないいない。いたら、こんなとこ来てないかも」
彼女は照れながら手を挙げ、タキシードの男が滑らかな歩調でやって来ると、「白ワイン。オススメのでお願い」と注文した。タキシードの男、ネームプレートによれば野川というらしいが、来た時と同様の滑らかさで戻っていった。あれは仕事をしていて身に付いた動きなのか、元からなのか、畷は少し気になった。
「一緒に飲もうね」
「いいけど、あの子は? あの、金髪のさ」
「桜ちゃんなら大丈夫だよ。先に寝てるって言ってたし」
「ならいいけど、折角、友達と来てるならそっちといた方がいいんじゃないかと思ってさ」
「大丈夫大丈夫。桜ちゃんとは昨日知り合ったばかりだし」
「え、そうなのか?」
彼女は頷いた。アルコールのために頬がほんのりと赤い。数年前はよく見た姿だったが、今となっては懐かしい姿だ。運命というのはあるのかもしれないな、と付き合っていた頃と同じことを考える。
畷は立ち上がって、自動販売機で軽いツマミを買った。その時に、自動販売機の横に飾られた青い空と海の絵が眼に入って、死んだ後が平穏ならこんな感じだろうか、と想像した。
いや、いけない。今日は死に近付き過ぎている。
樹海の不思議な効果だろうか。畷は死とは常にそれなりの距離を置いておきたいと考えているので、ツマミを手にして、なるべくどうでもいいことを思い浮かべながらテーブルに戻った。畷が腰を下ろしてからすぐに白ワインが運ばれてきた。
「私の奢りだから飲んでね」
「何か裏があるのか?」
「ないない。心配しないでよ。それにさ、私が君にそんなことをしたことがあったかな?」
「ないと思うよ。じゃ、折角だし、ありがたく」
畷はまず海砂のグラスに注ぎ、次に自分のグラスに注いだ。どのくらいのものか知らないが、普段では縁のない芳醇な香りが鼻腔に漂った。しっかりとステムの部分だけを持って口に運んだ。
「美味いな」
「でしょ、でしょ?」
彼女は大分アルコールが入っているようで、普段よりもずっとテンションが高く饒舌だ。ツマミのカルパスもパクパクと消えていく。
「ああ、何か幸せだなぁ」
「それは良かった」
「うーん。今までも楽しかったけど、何気に今が一番かなぁ。ね、佐理もそう思うでしょう? やっぱね、好きな人と会えるのは一番なんだよ」
彼女は眼を細めて言った。頬がさっきよりも赤いのは、きっと、アルコールが追加されたからだと思う。
「今でも、好き?」
彼女は言った。
「勿論」
畷は答えた。恥ずかしさは感じなかった。
「いいねいいね。まだ小説とか趣味でもいいから書いてるならさ、今夜のことを文字に起こしてみてよ」
「君はそれを読むの?」
「うーん。読まないかな。私は、今、文字じゃなくて、現実として味わってるから……読まなくたって平気なんだよ」
彼女がテーブルに突っ伏したタイミングで、ラウンジから廊下に続くドアが開き、痩せぎすの老人が入ってきた。見事な白い髭を蓄えていて、その姿はRPGの賢者か、或いは魔法学校の長をしてそうな感じだ。老人は畷と海砂を眺めた後、入口のガラス戸から出て行った。時刻は十一時を過ぎていて、畷だったら絶対に外には出ないだろうという自信があった。老人が出てすぐにタキシードの、さっきとは違う背の低い禿頭の男が出て来て、慌ててこちらへ向かって来た。
「今の方はどちらへ?」
「さぁ? 出てった後はわかりません」
畷がそう答えると、男は息を吐いた。
「どうしたんです? 何か問題が、あ、宿泊料とかですか?」
「いえ、まぁ、それもあるにはあるんですが、恐らく、あの人は樹海に入っていったんですよ」
「ええ、そうですね。何処を見回しても樹海ですからね」
「目的は言わずともわかるでしょう?」
「自殺ですか?」
「ええ。十中八九、そうでしょう。ああ、勘弁して欲しいんですけどね。どうせ死ぬなら、部屋の中で死んでもらいたいものですよ」
死ぬのはいいのか、畷はそう思ったが口にはしなかった。
「部屋の中だったら死体がありますから、警察にも文句を言われないで済むんですがね……ああ、樹海ですか、厄介な……」
「探さなきゃいいんじゃないですか?」
「それもそうなんですが、それはそれで言われますから。死ぬのにも最低限のマナーってのがありますし、迷惑は最小限に留めるってのはその中でも鉄則なんですけどね」
「なるほど、だから、部屋で死ねと」
「どんな死に方であれ、迷惑は掛かりますからね。部屋の掃除で住むくらいなら容易いんですよ。腐る前には発見できますし」
禿頭の男はカウンターに戻り、懐中電灯を手にすると、もうひとり、さっきの野川と外に出て行った。
「ねぇ、佐理、起きなよ」
「んん」
彼女はさも眠たげに身体を起こして、徐にカルパスに手を伸ばした。その顔はとても幸せそうだったので、畷は微笑んだ。
ニュース番組は明日の天気予報を伝えている。今日は曇りだったが、どうやら明日はよく晴れるらしい。晴れていたら、あの湖の蓊鬱として陰気臭いのも印象が違ったのだろうか。明日は休みを取って、海砂とその友人の子を連れてドライブにでも行こうかと思ったが、それは自分が決めることではないとも思った。
「そろそろ部屋に戻ろう」
「うん」
「送っていくから、部屋は何処?」
「008」
「わかった」
畷は海砂を背負ってラウンジから出た。彼女は付き合っていた頃よりもずっと軽かった。一階の廊下を通る時、もうあのひとり議論は聞こえなかった。もしかして、さっきの老人が議論していたのだろうか。階段を上り二階へ、008号室は一番奥だ。廊下を進むと吸い殻がいくつも落ちていた。「死にたい」と言いながら煙草を吸っていた人物のものに間違いないだろう。ざっと数えても三十はある。死ぬ前に残った分の箱を消費しようという魂胆だろうか。
「着いたよ」
「開けて、ベッドの上に……」
彼女がそう言うので、畷は008号室に入った。中の構造は基本的には006号室と変わらないようで、窓側のベッドに金髪の桜という人物が眠っていた。ヘッドフォンをつけたままのようだ。
畷が海砂をそっとベッドに横たえると、彼女は「またあとで」と言った。畷は声を出さずに頷いてから006号室に戻った。
2
そうは言っても落ち着かないものだ。さっきまでひとりではなかったので、このひとりの空間が耐え難かった。窓を閉めているため部屋の中は熱が籠っている。そんなものはクーラーでどうにかなる、と思っていたが、ちっとも部屋は涼しくならない。どうやら、クーラーが壊れているらしい。こんな部屋では腐敗が進むぞ、と畷は思った。
畷は海砂のことを考えた。彼女が散財しているのはどうしてか、単純に考えるなら答えはひとつしかなく、それは人生に幕を引こうと考えているためだろう。昨日、いや、一昨日知り合ったという桜も自殺募集のサイトか何かで連絡を取り合ったのだろう。
ここは自殺志願者のためのモーテル、死の待合所なのだ。タキシードの男たちが言うように、ここでは自殺は許されるのだ。死んでも構わないが迷惑は最小限に、というスタンスで。
なるほど、死か。今の時代、死に方を選べるというのは贅沢なことなのかもしれない。死というのは予期せぬ時に押し掛けてくるもので、なかなかに迷惑なものだ。
畷は考える。今、自分が死んで迷惑を被るやつがいるだろうか。いるにはいるのかもしれない。会社の奴とか、その程度だが。やっぱり、小説家を志望していた頃に死ねば良かったのか。でも、あの頃は海砂がいたから、まだ生きていようと思った。
やけに重い荷物を背負った。ああ、重い原因なら知っている。
畷は部屋から出て、一階へ下り、ラウンジへ向かった。そこでは禿げた方のタキシードが清掃をしていた。
「あ、お客様」
「どうも。さっきの老人は見つかりました?」
「いいえ。そんな簡単には見つかりません。樹海の中って、あちらこちらに洞窟みたいなのがありまして、そこに行かれると我々にはどうやっても追えませんから」
「へぇ、洞窟ね」
「どうせなら、風穴に入ってもらえば、明日にでも観光客らに見つけてもらえるでしょうに」
「ああ、そんなのもありましたね。物布風穴でしたっけ」
「そうですそうです。かつては蚕種の貯蔵がされていたので、今はそれの記念館みたいになっているところですよ。そこだったら、大して手が掛からないのに」
「でも、そこだとどうやって死ぬんでしょう」
「さぁ? そこは死ぬ本人次第ですからね。人間は基本的にあらゆるものを使って死ねますから、あとはセンスの問題ですよね」
「センスですか……」
畷は苦笑した。
「重要ですよ。私ならどうしましょうね、そうですね、ボートの上で青酸なんかを口にして、セルフ水葬でもやってみせましょうかね。いや、まぁ、死ぬ気なんて私にはないんですけれどね」
禿頭の男はニコリと笑った。確かに死ぬ気はなさそうな顔をしていたし、寧ろ、逆の立場にいそうな顔をしている。
畷は自動販売機でビールを二缶買っただけで、ツマミは買わなかった。何かを噛もうという気力はあまりなかった。
「じゃあ、おやすみ」
畷は禿頭の男に言った。
「はい。おやすみなさいませ」
その言葉は久し振りに聞いたし、何より重く感じた。
また廊下を通って、二階へ。006号室を通過して、008号室へ。鍵は開いていたので、静かに入った。
「佐理、起きてる?」
畷はベッドの上で体育座りをしている海砂を見つけた。奥のベッドの桜は死んだかのように眠っている。もしかしたら、既に死んでいるのかもしれないが、それはそれで願ったり叶ったりと言うやつだろうか。
「大丈夫?」
畷は海砂の肩を揺さぶった。彼女は虚ろな眼をしていて、下睫毛は涙の粒が付着していた。
やはり、死ぬんだな。
畷はそう確信して、海砂のベッドに腰を下ろした。
「……佐理?」
「ああ、そうだよ。ビール、飲む?」
「うん」
畷がビールを渡すと、彼女はその銀色の缶を受け取った。小刻みに手が震えているようだった。彼女は受け取ったビールを飲むと、急に畷に抱きついて泣き始めた。
「えっと、大丈夫?」
子供のように泣く海砂の背中をあやすように摩った。次第に彼女は落ち着きを取り戻して、畷から剥がれた。そして、ゆっくりと缶を口に近付けて、コクコクと飲んだ。
「君は、死ぬためにここに来たのか?」
畷が訊ねると、彼女は頷いた。
「どうして死にたいんだ?」
「……立派な理由はないよ。ただ、もうそろそろ私たちって三十になるでしょう? それを考えた時、どうやっても未来が想像できなかったの。何だか、ぼんやりとしてて、そう、水面に映った月みたいに不安定なんだ。私ね、怖いの。今まで気にもならなかったけど、未来へ進むってことは、誰も知らない不確かな領域へ進むことなんだってわかったの。私は、岐路だらけの暗闇を歩くなら、一本道の暗闇を歩くことを選ぶよ。だから、だからね、私は今日、死ぬために来たんだ」
「佐理……」
「でもさ、佐理だって、ずっと死にたかったんでしょう?」
「え?」
「知ってるよ。君が小説家志望の頃に書いた文でさ。佐理だって、ぼんやりとした未来が不安だったんでしょう? だから、一度は、少しでも安定したくて夢を諦めた。それでね、まだ知ってることがあるんだ」
「何?」
「ワイシャツの胸ポケットにさ、遺書、入れてるんでしょ?」
海砂が指差したので、畷はそれを取り出した。
「惜しいけど、遺書じゃないよ。これは辞職願。でも、間違ってもない。辞職願兼遺書って言ってもさ」
畷はビールを喉に流した。
「僕も、確かに死にたいとは思ってたよ。変化のなさを寂しいと思う一方で、変化を怖れているような自分が嫌いでさ、それに加えて未来は朧月みたいにぼんやりしてるんだから、生きる理由なんてないと思ったよ」
「どうして、今まで生きてきたの?」
「……さぁね? あの頃はさ、君がいたから死なないでいようと思ったんだけど、君がいなくなってからも生きてたのは何だろうね……君にまた会えると信じてたからかな?」
「何それ、変なの」
海砂は笑って、噎せた。
「ところで、君たちはどうやって死ぬつもりだったの?」
「どうやって? えっとね、練炭を焚いてね、自分たちは睡眠薬で眠るの。それで、いつの間にか死んでるって感じ」
「ああ、なるほどね」
「うん。だから、桜はもう寝てるでしょう? 早く死にたいらしいんだ。何も未練とかないみたいだし」
「未練がないのか……いいね」
「君はあるの?」
「ああ、そうだな、ないよ」
「そっか……同じだね」
「うん。生きているのは狭っ苦しいし、小説を書くにも死ねば永遠の時間があるから、好きなだけ推敲が可能だ」
「じゃあ、今日のことはあっちで書くんだ?」
「……そうだな。今日か。それも、悪くないね」
畷は荷物のジッパーを開けて、中から黒い寸胴のものをいくつか取り出した。それは練炭だった。
「わぁ、素敵……」
「準備がいいだろう? 君と付き合ってた頃からだよ」
「こうなる運命だったのかな?」
海砂が潤んだ眼で言った。それは喜びに見えた。
「こうなる運命だったのさ」
畷は乾いた眼で言った。それも喜びに見えた。
「ちょっと、友達に悪いかな?」
「全然。旅は道連れって言うでしょう? どんなことも、人数が多ければ楽しいし、不安なんて掻き消せるしさ」
畷は荷物からガムテープをふたつ取り出して、「準備しようか」と言った。片方は海砂に渡して、畷は窓の隙間を塞ぐ役目を担った。ふと、天上を見てみると、太く丈夫そうな金属の棒があった。つまり、首吊り歓迎ということだろう。そう考えれば、床がカーペットではなく、大理石のようなつるつるした石であることも納得がいく。
死を前にして無駄に冷静だな、と畷は心の中で苦笑した。いや、死を前にしているからこそか。いつやって来るかわからない普通の死に怯えることがないのに、確定した死に怯える理由なんかないのだ。
ガムテープはしっかりと隙間を塞いでくれた。ひとつ丸ごと使ったのだから密閉してくれないと困るのだが。振り返ると、海砂もドアをしっかりと塞いでくれたようで、窓に比べて張る必要が少ない分、ガムテープが過剰に貼られていた。
「さ、隙間は塞いだし、あとは眠るだけだね」
「あんまり飲み過ぎると吐くらしいよ」
畷は荷物から自分の分の睡眠薬を取り出して、何粒か口に放り込んだ。睡眠薬だけは定期的に購入していたので効果はある筈だ。
「吐くのかぁ……。でも、要するにさ、眠れればいいんだもんね?」
海砂も畷と同じように数粒を放り込んだ。そして、ベッドに仰向けになった。練炭は畷が焚いて、既に部屋の酸素が圧迫されているような重苦しさがあった。畷も役目を終えると、海砂と同じベッドに倒れ込んだ。
「おやすみ、桜」
彼女は自殺仲間の友達に手を振った。彼女はどんな人間で、どうして死のうと思ったのか、もうわかることはないだろう。
段々と眠くなっているのがわかる。瞼が溶接されたみたいに開かなくなって、次第に周りの音が消えて、自分の心臓の音ばかりが聞こえてくるようになった。それはやけにゆっくりで、諦めた時の安定さだった。
「ねぇ、見てよ、星が綺麗だよ」
「そうだね。明日も明後日も見える筈だよ」
「素敵だね」
「ああ、素敵だよ」
「そろそろ眠るね」
「僕もそうするよ」
「じゃあ、またあとでね……」
「うん、またあとで……」