サーカムステラ
「十年か……」
まさに壮年真っ只中と言った風貌の男がつぶやく。
艶のある黒い短髪と、程よくしまった体躯がその若さを引き立てている。
男が立つそこは、翡翠を積み上げ作られた土台の縁であり、背後には朱色の瓦をかぶる赤褐色の宮殿がそびえている。この国の長い歴史の中で幾度か作り直されたとはいえ、それでもなお数百年の月日を越えてきた国のシンボルは、今でも朽ちることなく悠然とした佇まいを見せている。
脇に立つ女性がこれに答える。
「ええ。安武さんがここに現れてから、今日でちょうど十年目ね」
女性は二十代後半といった容姿で、襖裙を身にまとい、長い黒髪を頭の後ろで結い上げている。顔つきはどことなく幼気ではあるが、瞳の奥に垣間見える知性がその美貌を引き立たせている。背丈は安武より頭一つ分程小さいが、女性らしい体の流線が柔らかな襖裙の上からも感じられ、年相応の威厳を漂わせていた。
二人が眺める視線の先には、壮麗な町並みが広がる。
建物の丈は高くても三階建てと言ったところであるが、どれも赤を基調とした絢爛な装飾に彩られており、都市の中心に位置する宮殿と調和した雰囲気を持っている。
石畳の通りの上を多くの馬車が行き来しているようであるが、その間にチラホラと無骨な見た目の機械が走っているのを見ることができた。
二年前に製品化された自動車がようやく普及しだしているのであろう。
更に遠くでは、建物より高いところまで吹き上がる小さな灰色の煙も見て取れる。甲高い笛の音が聞こえたかと思うと、その煙はたなびきながら徐々に広がり、通りの上にかかった陸橋の上に煙を吹き出す犯人が姿を現す。
蒸気機関車が実用化されたのは八年前のことで、今となっては各国の大都市間をつなぐ大動脈となっていた。
これほどこの国が豊かになったのも、ここ十年ほどのことである。
それ以前は板張りの粗末な民家が立ち並び、間を縫うようにして走っていた通りは泥まみれで、とてもではないが文化的な生活は保証されていなかった。
「楊には驚かされてばかりだな。――初めて会ったときは、礼教食人を体現したような頭が固くて冴えない不親切な女子だと思ったんだが……。まさか本当にここまでの改革をやってのけるとは」
半透明な布張りのうちわで口元を隠した楊が、柔らかく微笑むのが分かった。ただし、目は笑っていない。
「そんなふうに見られていたのね。心外だわ……」
安武の軽妙な乾いた笑いが虚空を漂う。
これを意に介さず、楊が再び口を開く。
「それに私の業績というのも、少し違和感があるわね。――あなたがもたらした“科学”というものが、私達の生活を大きく変えたのよ。最初は望遠鏡だったわね」
「ああ」
そう言うと二人は青空を見上げる。
そこには二つの丸い輪郭。この世界には二つの月が存在するのだ。
安武が口を開く。
「あのときは必死だったからな。なにせ、天動説を信じていた君たちにうっかり地動説を唱えたばかりか、全く異なる惑星からここに来たなんて言いふらしてしまったんだから。俺に剣を向けたときの君は、今と違って口元すら笑ってなかったからな」
今度は心底おかしいと言った様子で楊がクスクスと笑いだした。
「だって、こちらだって必死だったのよ。山の中に転がっていたあなたを助けたら、その言は完全に異端者だったんだもの。それを助けてしまったなんてバレたら、皇族の私の立場はどうなると思う?」
「だからって剣を抜くのか?」
「ええ、私と十年付き合った貴方らな分かるでしょう? 皇族にはそれ相応の役割があるの。役割を果たすためには、血が流れることもあるわ」
安武が肩をすくめ、軽くため息をつく。
「まあ、な。ただ、不要な血を流さないことで変わるものもある。今のこの世界は、その証左じゃないか?」
一旦明後日の方向に瞳を向けた楊が安武に向き直り答える。
「そうね。人々の世界観をひっくり返すほどの影響力がある人を殺めたら、そこで進化も止まるかもしれない。貴方が生き延びたことは、私に良い教訓を与えてくれたことは確かね」
「……君と話していていつも思うのは、あのときの俺は最高に冴えてたってことだな」
怪訝そうに首を傾げる楊。
「望遠鏡で月の表面を見ようと提案されて以来、少なくとも私の前では貴方はいつも冴えてたわよ」
安武が、はは、と軽い愛想笑いで流そうとする。
それに対して不満げな楊。
「まあ、いいわ。いずれにしても、貴方が手作りの望遠鏡で見せてくれた月の表面は、私の価値観をひっくり返すには十分だったわね」
「いや実は、あれは俺も驚いたんだ。まさか表面で噴火が起きているとは。本来は、単にクレーターを見せて、君たちが信じる完全無欠な世界とやらを否定したかったんだよ。神が作った天上の造形物にこのような醜い皺があるのはおかしいだろ、って」
おや、と驚いた表情を見せる楊。
「あらそうなの? でもそれだけだと、ちょっと納得したかわからないわね。私が噴火を見て納得したのは、南の顕彰山の噴火を見たことがあったからよ。地上と同じ現象が月の上でも起きているとなれば、きっと他の天体も、私達の世界と同じような環境を持ちうると思ったの」
「つまり俺は運が良かったと」
「この件に関しては、そのようね」
安武はゾッとしない表情を浮かべて、すぐにわざとらしく咳き込んで見せる。
この様子を楽しげに眺めていた楊が口を開く。
「始めはどうであっても、その後に貴方がこの世界に与えたものは計り知れないわ。貴方の功績を否定する人もいないでしょう」
頭を振る安武。沈んだ表情でこれに答える。
「いや。どれもこれも、地球人類が成し遂げてきた偉業だよ。俺はそれを横流ししたに過ぎない。それに、共和国の原子爆弾の事故を見る限りでは、この世界の科学の進化は、すでに俺の手の届かないところに達しようとしている。これ以降は何もしてやることはできないし、そう思うことも傲慢だと感じている。――俺はシミだらけの古びた本と一緒なのさ」
南にある共和国は、楊の国からもたらされた科学技術で急速に発展した。
その発展の成果として、彼らは質量をエネルギーに変換できることに気づいてしまったのだ。
そして、未熟な技術でそれを軍事に応用しようと試み、失敗した。
実験から半年が経過した今でもなお、首都周辺は人が住めない状態になっているという。
沈痛な面持ちで、共和国の首都があった南方を見つめる安武。それを横から見つめながら、楊が口を開く。
「それでも、救われた命もあった。一生奴隷として終わるはずだった人たちが自由を得た。出会うはずのなかった異なる国の人々が、毎日のように電信や、汽車で交流するようになった。確かに、犠牲も大きかったかもしれないけれど、それを貴方だけのせいにして、栄光だけを享受するほど、私達は愚かではないわ」
安武の表情がいささか和らいだのを確認して、楊が続ける。
「今日ここに来てもらった用件を言ってなかったわね」
そういえば、と、鳩が豆鉄砲を食らったような表情になった安武の顔から、すぐに笑みが溢れる。勝手に気分が落ち込んでしまう自分の悪い癖が、このときは堪らなくおかしく感じられたのだ。
「そうだな。それで?」
「私が先週正式に皇帝になったのは知ってるわね」
「あれだけ盛大に戴冠式やればな」
やれやれとばかりに肩をすくめる安武。
「今、実は右大臣が空席になってるの」
一瞬その原因が思い浮かばず、安武が中を眺める。しかし、すぐに理由に思い当たり、ああ、と声を漏らした。
「共和国と内通していたというあいつか」
楊が皇女として宮廷にいた頃、何かにつけて彼女の邪魔をしてくる右大臣が存在した。
先帝に召し抱えられた頃は自他ともに認める忠臣であったのだが、皇帝の体調が優れなくなり、また、共和国の台頭もあって、実質的に彼の国の間諜のように振る舞うようになっていたのだ。
しかし、安武の登場により皇帝の体調が持ち直し、帝国が共和国の発展を凌駕することが明確になったため、その妨害工作を始めたのである。
安武は直接の面識がなかったが、帝国隆盛の要因であることから大臣の手先に命を狙われる事となった。しかし、楊の武術的な活躍により危険は退けられ、事なきを得たのである。
結局、原爆実験の失敗に伴う共和国の実質的な崩壊により、右大臣の後ろ盾もなくなり、同時に楊の部下が共和国と大臣のつながりを明らかにしたことで、彼は反逆の罪に問われる事となった。これに加えて、原爆実験の候補地に帝都が含まれていたことが後に明らかになり、史上初めて外患誘致罪の適用が決まった。しかして、大臣は処刑されることとなったのである。
「そう。その大臣の空席。――後任として、貴方を推薦しようと思うんだけど、どうかしら」
突然の申し出に、安武も少し混乱したようである。しかし、暫く考える素振りを見せ、改めて楊に向き直る。
「ありがたいが、丁重にお断りする。俺は政治には向いていない」
この答えを聞いた楊が、団扇を顔から離して盛大にため息をつく。
「まあ、そういうとは思ってたわ」
「じゃあなんで聞いたんだ?」
優雅でしとやかな所作でくるりと踵を返した楊が、手すりに近づき、街を眺める。
しばらくそうした後で、再び口を開いた。
「この国で大臣になると、その素性が臣民に公開されるの。つまり、あまりに臣民ががっかりするような人物を大臣に推すと、皇帝には任命責任があるから、帝政から人心が離れることにもなりかねないわ。つまり、大臣になる人物は、皇帝から信頼され、臣民からも慕われる人でないといけないのよ」
安武が首を傾げる。
「なるほど? ただそれだと、大臣が国民に慕われるかわからんし、賭けになるんじゃないか?」
「もちろん、そんな賭けはしないわ。地方行政の責任者に水面下で依頼して、臣民が信頼できると感じる国政に近い人物を探してもらうの。安武さんの世界ではアンケートっていうのかしら。そんな感じで意見を集めるのよ」
なんと、とこぼした安武に楊が向き直り、満面の笑みで語りかける。
「貴方を右大臣に推すのは私の意志であり、国民の希望でもある。貴方はシミの付いた古本なんかじゃないわ。人々に慕われ、望まれてそこにいる、この世界にとってかけがいのない人物なのよ」
思わぬ展開に硬直した安武に、楊が歩み寄る。
「無理に右大臣になれとは言わないわ。最近沈んでるようだったから、このことだけでも伝えたかったの。返事は後日でも構わないわ。それじゃあ」
それだけ言うと、楊は踵を返し、身にまとう柔らかな衣服に見合わぬ素早さで姿を消してしまった。
もともと剣を振り回して戦うやんちゃなお嬢様であった楊にとって、今の装いはいささか窮屈なのかもしれない。
大改革のあとに建てられた安武の新居には、彼が熱望していた書斎が用意された。
宮殿での会話から一週間が過ぎたこの日も、彼は書斎で仕事に忙殺されている。
返事はまだ出していない。
あそこまで言われていささか心が動いたというのもあるが、彼の現在の仕事である塾講師が、この時期は一般に忙しくなることが、返事を出す余裕を奪っているのだ。
童試が目前に迫っているため、普段はいまいち不まじめな学生までもが添削を依頼してくるのである。
しかしながら、このような忙しい日々の中でも、安武は自問自答を繰り返し、あの申し出に対する答えは、すでに決まりつつあった。
昼過ぎからは雨が降り始め、比較的塾生の出入りが少なくなっている。
やれやれとばかりに一息ついた安武が、台所にお茶を入れに向かう。その時彼の耳に、扉を叩く音が響いてきた。
また哀れな塾生が現れたと溜め息を付きながら戸口に向かう。
扉を開けると、そこにはカッパを着た初老と思しき男が立っていた。
見覚えのない顔であったが、童試は年齢に関係なく受けられるため、入塾希望の可能性もある。
そのように当たりをつけ、声をかけようとしたところで男の方が口を開いた。
「安武勇太様ですね?」
「ええ、まあ」
警戒して一歩下がる安武。
男がおもむろにカッパのフードに手をかけ、それを取り払った。
「来て頂きたいところがあります。ご同行願えますか?」
思わず口角が上がる。どこの世界に初対面の人間にホイホイついて行く者があるというのか。
「お断りします」
すると、男がカッパの下のポケットから何かを取り出し、安武の前に突き出してみせる。
思わずそれに目をやる安武。
「……? これは……。楊皇帝ですか? とても細密な写真ですね」
とっさにとぼけてみせたが、男が握っていたそれは、経年劣化は見られるものの、紛れもなくカラー写真であった。その上、安武が知るもの以上に解像度が高いように思われる。
まだこの世界の写真といえば白黒で、どうにかぼやけた像を現像できるという代物であり、間違ってもここに写っているように、色彩豊かに舞い散る紙吹雪一枚一枚を見分けられる訳がないのだ。
その上、写真に写っている人物は楊によく似ているが、着ている服は紛れもなく地球の洋服で、何かの制服のようにも見える。
諸々を勘案すると、この写真はこの世界で撮影されたものではないと結論付けざるを得なかった。
これ以上この男に関わってはいけない。そう告げる理性の静止を振り切って、安武が口を開く。
「――この写真をどこで?」
写真を受け取ろうと手を伸ばした安武の目の前で、男は伸ばしていた手を引っ込め、それをポケットに仕舞ってしまった。
「ご同行頂ければお教えします」
一旦は逡巡した安武であったが、写真に写っていた人物が楊である可能性が否定できない以上、彼女に災いが降りかかる可能性を否定できない。
もちろん、杞憂である可能性もある。しかし、男が醸し出す不穏な雰囲気に、胸のざわつきを感じざるを得なかった。
「わかりました。少々お待ちください。準備して参ります」
安武はそう言うと踵を返し、男をあとに残して書斎へ戻る。
机の引き出しからメモを取り出し、事の次第をしたためた。
「楊の写真を持つ不審な男現れる。我連れ出される」
情報が限られているため、これ以上を記すことは困難である。心もとないが、ないよりはマシだろうと紙を折り、上に文鎮を載せ目立つよう工夫をする。
最低限の手荷物を持ち、階段を降りて玄関に戻る。
そこでは、先程の男が辛抱強く待っていた。出発の準備のためフードを深く被り直しており、表情の委細をうかがい知ることはできない。
男が無愛想に口を開く。
「それでは参りましょう。ついてきて下さい」
雨脚は強くなり、通りの人影もまばらである。街は薄い暗闇に包まれ、夏の暑さに窓を開け放つ民家からは、昨今量産が始まった電灯の明かりが漏れていた。
安武の予想通りではあるが、男は郊外に向かって歩を進めているようである。
なるほど、怪しげな密会にはうってつけの方向性ではあるが、それがなおさらに安武の不安を煽っている。
しばらく行くと、都市の新興開発区に差し掛かった。この辺りはまだ作りかけの建物ばかりであり、雨で作業が中断している現在は人通りは皆無であった。
いよいよ走って引き返そうかと安武が思案していると、それを見通したかのように男が口を開く。
「もうすぐそこです」
結局、それから二、三分のところに作業小屋と思しきあばら家が姿を表した。その粗末な戸口に男が手をかけ、きしむ扉をゆっくりと手前に開け放った。
「どうぞ」
どうぞとは言われても、中は薄暗く、明らかに危険を感じさせるものである。どのように対応しようかと安武が思案していると、男は黙って先に室内へと入っていった。
写真のことも有り、安武は意を決して男の後を追う。
安武が室内に入ると、少し進んだところに地下への階段があることに気づいた。
そちらをしげじけ眺めていると、背後で男が扉を締めている気配がする。
慌ててそちらを見やると、男が安武の前へ進み出た。
何をされるかと身構えては見たが、どうやら安武の背後にある階段へ進もうとしているということが明らかとなり、道を開ける。
「こちらへ」
そう言うと、男は暗い階段をゆっくりと下りはじめた。後を追う安武。
意外なことに、しばらく行くと階段全体が明るくなり、足元を探る必要もなくなってきた。
壁には新式の電灯が吊るされており、東京のスーパーの階段を思わせる風情である。
とはいえ、やはり見慣れぬ洞穴へ、信頼できるかもわからない男に先導されて入り込むのは危険極まりないことである。
それだけ、安武にとってあの写真が気がかりであったということである。
更に進むと、足元の方に木製の扉が姿を表した。
男がそれを開き、電灯の光が垣間見える明るい部屋へ入るよう促す。
安武が中に進むと、男は再び扉を閉じた。しかし、カンヌキのような鍵をかけることもせず、ただ戸口に木戸を押し込んだだけであった。
男は部屋の奥に設えられた簡単な調理台に近づき、ガスバーナーで鍋の中の水を温め始めた。次にカッパを脱ぎ、壁のコート掛けにそれをかぶせる。
カッパの下から顕になった衣服は、決して上等なものではなかったが、男性の落ち着いた顔つきで相乗効果を得て、年相応の渋さを醸し出していた。
安武は促されるままに部屋の反対に用意された椅子に腰を下ろす。
男が振り向きもせず、バーナーで加熱される湯を眺めながら口を開く。
「便利になったものですね。最近まで薪を使っていたのが嘘のようだ」
「ええ、まあ」
警戒心を顕にしたまま、安武がそっけなく答えた。
「それで、あの写真は――」
「ああ、そうでしたね」
男は振り向くと、再びポケットから写真を取り出し、安武の前の机に差し出す。
安武から見た机の向こうにも椅子があり、そちらに腰を下ろす初老の男。
しばらく沈黙が続いたあと、男が口を開いた。
「この写真について、どう思われますか」
「どうって……」
何か試されているのか。勘ぐる安武である。慎重に、当たり障りのない答えを探す。
「楊陛下に似た女性が笑顔で写っています」
「ふむ」
そう言うと、男はしばらく黙り込んでしまった。
そして再び口を開く。
「似た、というのはたしかにその通りでしょう。たしかに、これは楊天元その人ではない」
安武は面食らった。まさかこの国に、楊をフルネームで呼ぶ人間がいるとは予想していなかったのだ。
しかしこれはつまり、この人物が楊に対して敬意を抱いていないことを示すものであった。
「……なるほど。それで、この方はどなたです? そしてそもそも、貴方は何者なのですか?」
男はおもむろに立ち上がる。
思わず身構えた安武であったが、男はすぐに向きを変え、鍋に向かって歩み寄る。
そして、棚の上にあった瓶の中から茶葉に見える何かを摘み上げ、隣に置かれた急須へと落とし込んだ。そこに注がれるお湯。
男は急須を持ち上げ、席に戻る。
「まず私が誰かを明かす前に、この写真の人物について述べましょう」
「勿体つけますね。それで、この方はどなたですか?」
唇の下に軽く握った手を当て、男はしげじけと写真を眺める。そして口を開いた。
「この人物は楊天元の祖先です。どれくらい昔かはわかりかねますがね」
これで、写真に写る人物と楊が似ていることは、それとなく説明がつく。一方で、新たな疑問が生まれた。
「なるほど。とりあえず、それを信じるとしましょう。そうするとどうしても、貴方がどのようにこの写真を手に入れたかが気になってしまいますね……。皇帝一族は世襲制だ。つまり、この人物も皇族であったのでしょう。その姿が収められた古い写真となれば、皇族一家か親しい人々が受け継いだ代物、もしくは歴史の資料として発見されたものだと考えるのが自然です。やはり、貴方は何者で、どのような経路でこれを手に入れたかを教えて頂く必要があります。そうでないと、これ以降の話に信憑性が見いだせません」
唇の下に当てていた手を机の上におろし、男が安武に正対する。
「私の名は徐力。先ごろまでこの国で右大臣をしておりました」
あまりのことに、安武はその場に硬直してしまった。
右大臣は外患誘致の罪で死罪になったはず。なぜここに居るのか。
そして、最も大きな危険は、以前この男が安武の命を狙ったという事実である。
カンヌキは外れている。戸を蹴破れば逃げられるかもしれない。
そのように、この場所から逃げ出す算段を脳内で整え始めた安武に、徐がなだめるように声を掛ける。
「心配しなくても大丈夫です。危害を加えるつもりはありません。むしろ、その節については貴方に謝りたい」
一旦、椅子の上に落ち着く安武であったが、すぐこれに答える。
「謝罪は結構。もう終わったことだ。ただし、その代わりに一つ答えて頂きたい。貴方はどうやって死を免れたのか。そして、この写真を私に見せてどうしようというのか」
徐は、十分蒸れたお茶を粗末な湯飲みに注ぎ、二つのうちの一方を安武の前に置く。それに口をつけようともしない安武の様子を見て、口を開いた。
「まず、私はわたしの支持者によって救われました。それ以上は言えません。ただ、私の考えに同意するものがこの国には少なくないということは知っておいてもらいたい」
つまり、宮中には未だに大臣の息がかかった人間が居るということである。この事実に戦慄した安武の脳裏に、楊の姿が浮かぶ。
「この期に及んで何をしようというのだ。まさか亡霊になってまで、共和国の手先としてこの国を滅ぼしたいのか」
ゆっくりと頭を振る徐。その表情は、極めて穏やかであった。
「まさか。そもそも、この国を滅ぼそうなどと考えたことはございません」
「何を言うか。共和国の手先となり、売国行為に手を染めたことは事実だろう」
頭に血が上った安武に、徐は再び茶を勧める。しかし、やはり安武は茶には手を付けない。
「そうですね。ただし、それも国を思ってのこと。この国を、この国の人間の手に取り戻したいがゆえの蛮行でした」
「何を頓珍漢なことを……」
ここで、安武の頭の中で何かがつながった。
写真に写った楊似の人物。現代の科学では実現不可能なほど高精細の写真。女性が身にまとう地球の衣服。
口を閉ざした安武の代わりに徐が口を開いた。
「政府の資料によると、貴方は異なる惑星からここにいらしたそうですね」
沈黙する安武。
「であれば、この写真が意味することは明白なのではないですかな?」
事態を理解した安武がようやく口を開く。
「……この写真はどこで?」
「宮殿の宝物庫の奥の奥。右大臣を努めていた頃に、国宝を展示する機会が有りました。国を挙げての催し物ということもあり、先の皇帝は、私に展示する品の選定を任したのです。その時に、宝物庫の最も古い区画から見つけたものです」
一旦逡巡した安武が恐る恐る問いかける。
「それで、貴方は何をどうしようというのか」
「目指すところはこれまでと同様です。現皇帝には退位してもらい、国民の中から政を行う代表を選びます。共和国さえ無事ならば、すでに終えていた仕事ですが、仕方ありません」
「私に何をしろと?」
「安武様は現皇帝と懇意にしておられる。平和裏に皇帝の座を退いてもらえれば、我々としても嬉しいことです。――不要な血を流さずに済む」
うなだれ、頭を抱える。
楊の祖先が異星人であったことは、安武にとってはどうでも良い。おそらく、国民の多くもそう感じるだろう。
しかし、異星人に支配されていると感じる国民がどの程度存在し、その人々がどのような行動に出るかは予測できない。
この男の余裕を見る限りでは、他にも証拠はあるのであろう。
そうなれば、この事実を男の支持者を通じて国民に知らしめることは容易なはずだ。
楊の出自に恐怖したこの星の人間が、どのような行動に出るか。最悪の展開が安武の頭の中を駆け巡る。
「分かった。この事実を陛下に伝え、方策を考えよう」
「ご退位くださればそれで結構。余計な計略は無用にございます」
「……少なくとも、陛下にお話し、説得する時間は必要だ。それは待ってもらえるのだろうな」
「ええ。急ぐことでもございません。じっくり説得し、ご納得いただいた上でご退位頂いてください。――お茶が冷めてしまいましたな。淹れ直しましょう」
「いや結構。これで失礼する」
「そうですか。まあ、急ぐこともないとは申しましたが、あまり無為に時間稼ぎなどはされないほうが懸命です。ああ、それと、この隠れ家に人の手が入るようなことがあれば、すぐにこちらも行動に移りますので、そのつもりで」
「……ふん」
扉を開け、階段を登る。後ろから徐がつけてくる気配もない。よほど今回の件では自信があるのだろう。
あばら家から外に出ると、雨は上がっていたが、すっかり夜の帳が下りていた。
雲の間では、この惑星に来た時から馴染みが深い、青い巨星がその存在を誇示している。
その淡い明かりのもと、安武は自分のねぐらへ歩を進めるのであった。
家についたあとで大変だったのは、文鎮の下のメモ書きを見た楊が、近衛師団を率いて調査を始めようとしていたことである。
結局、写真は楊のものではなく勘違いで、男とは知り合ったついでに茶を飲んできた、などと苦し紛れのごまかしで事態の沈静化を図ることとなった。
近衛師団は良いとしても、楊がそれで納得するはずもなく、解散後に安武は自宅の書斎で皇帝直々の尋問を受けることとなったのである。
「それで、事の真相は?」
楊が苛立たしげに安武を睨めつける。これに臆することなく、安武が事の次第を滔々と述べ始めた。
肘掛けに肘を乗せ、片手を額に当て困惑する楊。
「その写真は本物なの?」
「ああ、少なくとも、手書きで再現できる質ではなかったし、写っていた人物の衣服のセンスも、この惑星では見られないものだ。彼らがそこまで考えてあの写真を用意したと言うなら、製作者はもはや人知を超えた想像力の持ち主ということになるな」
「と言うことは、私は本当に異星人なの?」
「少なくとも、その血族の末裔ではあるのだろうな」
楊が、うう、と苦しげな声を漏らす。これを見かねた安武がフォローを試みる。
「そうは言っても、君たち一族がこの国の人々をよく導いてきたことは、歴史が証明している。多くの国民はこの事実を聞いてもなんとも思わないだろう」
「でも、そうでない人もいる。そこが心配なのよね」
その通りである。
楊の一族による統治を「支配」と感じる人々が現れるだろう。
支配されれば、人はそれに抗おうとする。その結果、どちらかの血が流れることになるだろう。これも、歴史から容易に想像できた。
「私は……どうしたら良い?」
「一つの解は、皇帝の職を辞し、政を国民の代表に委ねることだ」
血相を変えた楊が安武を睨みつけた。
「そんな! 反逆者の脅しに屈しろと言うの!?」
安武はいささかバツが悪そうに目を泳がせる。
「ああ、だがそう悪い話でもない。いずれはこの国も民主化される。それが少し早まるだけだ」
楊が負けじと反論する。
「民主主義の概念は、貴方から教わって理解しているわ。問題はあっても、確かに理にかなった体制よね。でもね、こんな形でそれが実現されるのは間違っているわ。民主主義は臣民、いえ、国民の意思によって実現されるものよ。ましてや、大臣の計略で国民に与えられる民主主義なんて、国民にそれを維持する気概がないんだもの、すぐに破綻するに決まってる。最悪、民主化した英雄として徐が代表に選ばれて、独裁体制が幕を上げるわ。そうよ。あの男の目的はそれに違いないわ。貴方ほどの人にどうしてそれがわからないの!?」
これを聞いた安武が声を荒げる。
「――わからない? 分かってないのは君の方だ!」
勢いもあった。しかし、この行動は後に安武自身もを驚かせることになる。
座っていた椅子を後ろに弾き飛ばし、楊の前に歩を進める。そしてそのまま彼女の前で膝をついた安武は、強く相手を抱きしめたのである。
思わず硬直する楊。それを意に介さず、安武が声を荒げる。
「俺は君を失いたくないんだ! 君が国民に殺されるところなんて見たくないんだよ!」
大臣の支持者が国内に根を張っている。間違いなく、大臣一派は国民を煽るだろう。彼らが支配に対抗すべく実力行使に出れば、即位したてで影響力の弱い楊は間違いなく敗者になるだろう。そうなれば、この腕の中の生命は儚く散る運命にある。
始めは固まっていた楊が、ゆっくりと安武の背中に腕を回し、そっとそれを抱き返す。
「……ありがとう。貴方がそんなふうに思っていてくれたなんて、嬉しいわ」
そう言うと、楊は安武の体をゆっくりと自身の体から引き離す。
「でもね。皇族には、退いてはいけない時があるの。私の使命は、臣民を正しく導くこと。反逆者の大臣が独裁体制を敷くかもしれない、その瀬戸際に、脅しに屈してむざむざ退くなんてことは許されないのよ」
「でもそうなれば君は――」
「私はこれまで皇女として生きてきた。貴方のおかげもあって、いろいろな体験をしてきたわ。そして、皇帝に即位した今、すでに覚悟はできているの。貴方には、その覚悟の行く末を見届けてほしい」
安武はこのとき、これ以上何も言うことができなかった。
結局、打開策も見いだせぬまま、この日の会合は終了したのだった。
翌日、予想外なことではあるが、安武はぐっすり眠れたことでスッキリ爽やかな朝を迎えることができた。
これは彼の癖でもあるのだが、あまりに考えすぎると頭がオーバーヒートを起こし、失神よろしく眠りに落ちることがある。このときはまさにそれであった。
何れにせよ、クリアな頭で何度考えても、こちらの立場は詰みの状態である。
どのような形であれ、例の話が国民に知られれば大臣の思う壺。とはいえ、黙っていても大臣がリークすることは明白であるので、隠し通すこともできない。
結局、大臣主催の国民の暴徒化を避けるためには、楊が退位するほかない。
楊がすべてを明らかにし、自ら退位の道を選べば、この国の人々がそれ以上追求することもないだろう。
異星人の前例として、すでに安武が存在する。それを受け入れたこの世界の人々が、一般人になった楊が異星人だとわかったところで、特別態度を変えるとも思えない。
問題はやはり、彼女が為政者として、人々に指図する立場にいることなのである。
自分が属するものとは異なる集団の一人が、法の名のもとに自分たちの行動に制限をつける。言ってしまえば、占領されている状態である。
当然、よく思わないものも出るだろうし、それを変えようという大臣一派が英雄扱いされたり、煽られた国民が暴力行為に出るということもあるだろう。
しかし、彼女は退位するつもりがない。
この状況を打破する方法はないものか。
そのように考えを巡らせ、安武は書斎の中を行ったり来たりする。
東から上った太陽が南中し、そして西の山脈の向こうへ落ちていった頃である。
書斎の窓の真ん中で、昼も淡く輝く青い巨星が、やたらと自身の存在を訴え始めたのである。
いよいよそんな時間かと、はたと窓際に立ち止まる安武。深くため息を付き、有効な策を見いだすことができない無能な自分にほとほと失望する。
しかし、気を取り直し、夕餉の支度をすべく階段を降りようとしたときだった。
彼の中に眠っていた十年以上前のホコリを被った記憶が不意に頭に鮮明に蘇ったのだ。
「そうか……。そうだ。そうなんだ! なぜこんな簡単なことに気づかなかったんだ!」
階段の上で一人叫びだしたかと思うと、一目散に階段を駆け下り、扉を乱暴に突き飛ばして街に出る。
安武はそのまま、暮れてゆく町並みの喧騒の中に消えていった。
右大臣の脅迫から一月ほどが過ぎて、楊は憂鬱な気分に苛まれていた。
あの夜以来、安武と合う機会がなかったためだ。
お忍びで家に行っても、ここのところはいつも不在で、メモを残しても「調べ物、分かり次第連絡する」という謎の返事が返ってくるのみであった。
正直、あの夜までは、楊は安武のことを尊敬すべき師とみなしていた。しかし、予想外の感情的な出来事により、彼女の安武に対する気持ちは変化を余儀なくされていたのである。
また、大臣への対応も考えなくてはならず、いささか脳内が飽和気味であることも、彼女の精神に追い打ちをかけていた。
玉座の前で平伏している左大臣から次年度の予算案について報告を受けている間も、どこか公務に専念できていないような気がして、自分自身に苛立ちも覚える。
左大臣にあたるわけではないが、せっかくの忠臣にそっけなく振る舞ってしまったことをあとになって後悔する始末である。
一日が過ぎてゆき、その日に予定されていた謁見も一通りこなしたときであった。
自室に戻ったはずの左大臣が慌てて謁見の間に駆け込んできたのだ。
その狼狽ぶりに目を丸くした楊が、本来必要とされる手順そっちのけで声をかけてしまった。
「どうしたの? 予算が足りなかったかしら?」
息を切らせながら左大臣が口を開く。
「陛下。どうかお人払いを。どうか……」
楊が目配せをすると、配下の者たちがそそくさと部屋の外へと退場する。
しばらくして、周りが静かになったことを確認してから、楊が再び問う。
「それで、何があったの?」
その頃には息が整っていた左大臣が、平伏し、これに答える。
「市街にて……その……大変不敬な噂が流れております。陛下が異星人の末裔であるなどと……」
右大臣がいよいよ仕掛けてきたのである。
あの夜から一月の間、こちらは何の動きも見せなかった。右大臣一派もこれを受けて、いよいよしびれを切らしたのだろう。
左大臣が続ける。
「すぐに、そのような噂を流すものを不敬罪に――」
「その必要はないわ」
歯切れのよいよく通る声で、楊が左大臣の申し出を却下する。
「は……」
困惑する左大臣に向かって、楊が命令を下す。
「声明を発表します。ラジオ局に枠をとってもらえないかしら」
思わず左大臣が面を上げ、声を荒げる。
「玉音の放送でございますか!?」
「控えなさい」
「はは!」
彼女がこの惑星で初めて、ラジオを用いた所信表明演説を行った。しかしそれも、まだ数ヶ月前のことである。
二度目の玉音放送でこのような話をすることになるとは、あの頃は思ってもいなかった。
はじめてのラジオ放送に緊張していたあのとき、隣室で見えもしないカンペを準備してくれていた安武は、今回はいない。
鋭い眼光で前を見据えた楊が再び口を開く。
「本件に関して玉音放送を行います。準備を」
「ははあ!」
噂が広がれば右大臣の思うつぼ。無理に抑圧しても逆効果である。ならば、正々堂々その真実を自ら明かし、自身の臣民への思いを伝える他ないと判断したのである。
「貴方が横にいてくれたら、どれほど心強かったでしょう」
左大臣があとにした部屋で楊の口から漏れた言葉は、誰もいない謁見の間を漂い、じきに虚空へと消えていったのだった。
玉音放送は三日後に行われる事となった。
事前に全国各地へ放送がある旨が通知され、国民は原則として、放送の間はラジオの前で待機しなければならない。
国営のラジオ局は、粗相があってはならないとてんやわんやの大騒ぎになっていたが、当の楊は粛々と当日話す内容を書にしたためていた。
したためるとは言え、それをカンペにするわけではない。伝えるべきことを書き出し、要約しているだけである。
当日は、自身の意見と思いを、自分の言葉で述べる必要があるのだ。
――全国に玉音放送の実行を通知したにもかかわらず、安武からの連絡はない。
このことが楊の胸にトゲのような痛みを残し、精神をじわじわと苛んでいる。
「やっぱり、皇族としての覚悟なんて伝えても、困惑するだけだったのね……。もうあの人は帰ってこないのかもしれない。――でも、もしかしたらそのほうが……」
玉音放送でいかに自分の思いを伝えても、もう臣民は自分を信頼しないかもしれない。大臣の計略の通り、自分は皇帝の座から引きずり降ろされ、死ぬ運命にあるのかもしれない。
そこに安武がいれば、彼も間違いなく巻き込まれるだろう。それならばいっそのこと、ここで縁を切ったほうが、彼にとっては幸せだろう。
うつうつとそんな事を考えながら、筆を走らせる。
どうしても消極的になってしまうが、これが自分が書き出せる精一杯のことだと自分に言い聞かせ、白い紙に墨を載せてゆく。
玉音放送は、明日に迫っていた。
正午から放送予定のその日は、一時間前にはにスタジオ入りすることになっていた。
楊と二人の護衛を乗せた新型の自動車が放送局の門をくぐり、スタジオの入口に到着する。
当然のごとく迎えがあるものと思われたが、どういう訳かひっそりと静まり返っているように見えた。準備を急ぐスタッフの姿も見当たらない。
「……おかしいわね」
護衛が窓から周囲を見渡す。
「様子を見てきます。しばしお待ちを」
運転席に座っていた護衛の一人がそう言い残し、スタジオの中へ入っていく。
十分ほどが経過したが、建物に入っていった護衛が姿を見せることはなかった。
隣りに座っていた護衛が口を開く。
「付近の駐在所に行き、本部に応援を要請しましょう。内部で何らかの問題が発生していることは明白です」
楊はこれを聞いて問う。
「ここから駐在所まどれくらいかかるかしら」
「この車で十分といったところです。本日は玉音放送で臣民は皆屋内にいるはずなので、道も空いているでしょう」
「電信が届いてから応援がここにつくまでの時間は?」
「ここは都心からも離れていますから、約二十分から三十分です」
ため息をつく楊。
「予想される内部の騒動が沈静化する前に時間が来てしまうわね……いいわ。私はこのまま中へ参ります。貴方は車で応援を呼びに戻って」
護衛が目をむいてこれに反論する。
「いけません。明らかに危険が潜む場所に陛下をお一人で向かわせるなど、護衛としても常識的にもあってはならないことです」
楊は微笑みを持って、諭すように語りかける。
「この放送はね、時間通りに行わなければならないの。臣民の貴重な時間を奪っているのに、当の皇帝が遅れて到着しました、なんてこと、あってはならないわ。まして今の私の立場なら、なおさらね……」
最後の一言の意味を護衛が理解することはなかった。楊の内心を知る由もない護衛が、自身の職の誇りにかけてなお食い下がる。
「いけません。皇帝が臣民を少しくらい待たせたから何だというのですか。このまま駐在へ――」
「臣民が皇帝の都合で動くと言うなら、貴方に命令します。私をここに残して、この車両で駐在へ応援を呼びに行きなさい」
いくらか緊張した面持ちで、いくらか強い声調で命令を下す。
これを聞いた護衛は、一旦は逡巡したものの、皇帝の命に背けるはずもなく、渋々頭を下げる。
「……承知いたしました」
扉を開け、車を降りた護衛に楊が語りかける。
「――貴方の仕事に対する真摯な姿勢は誇るべきものよ。その気持を大切にして、これからも職務に励んでくださいね」
これを聞いた護衛は感じ入ったようで、車内の楊に向けて自発的に敬礼する。
敬礼を解く警護の男。
「恐れ入ります」
そう言うと、車の反対側に回り込み、楊のために扉を開く。
彼女が地面に降り立ち、少し車から離れるのを見届けてから、男は運転席に乗り込み勢いよく走り去っていった。
「さて、と」
車が走り去るのを確認した楊は踵を返し、スタジオの入口に向かって進む。
罠であろうと予測はしていたため、扉がすんなり開いたことに驚きはしなかった。
中は短い通路になっており、日光が入らないよう改造されている。奥の部屋から舞い込む淡い電灯の明かりだけを頼りに前進してゆく。
その部屋の扉もあっさり開くことができ、中に歩を進めた。
「お待ちしておりました」
楊にとって予想外であったのは、スタジオの一式は無傷で、更にスタッフも一揃い無事にそこにいたことである。一つ平常時と違うことがあるとすれば、奥に猿ぐつわをした縛られた護衛がいることと、その近くの椅子の上に見知った顔がいたことである。
「徐力!」
朗らかな笑みを浮かべるその男は、徐力右大臣その人であった。
「お久しゅうございます。殿下、いえ、陛下になられたのでしたな」
あたりを再び見回し、楊が声を荒げる。
「貴様ら! これはどういうことか!」
立ち上がった徐が護衛に近づく。
「ま、ま。落ち着いて。ご覧のとおりです。ここの五名ばかりの職員達は私の理解者でしてな。こうして協力してくれたわけです。護衛は、隙きを見て背後からポコンと。とはいえ、彼もこの惑星の人間なのでね。たとえ陛下に忠誠を誓っているにしても殺すのは気が引けたわけです。後で彼にもゆっくり事の次第を説明しますよ」
「……それで、私をどうするつもり?」
「このまま一月ほど沈黙していてもらいます。まあ、どこかの個室でゆっくり過ごしていただきましょうか」
「それで?」
「そうですね。噂が真実であることを誤魔化しきれなくなった哀れな皇帝が雲隠れしたという体にしようと思います。そうなれば、まだ半信半疑な国民の多くも噂を信じるところになるでしょう。後は、貴方を宮殿にお返しします」
「私がまた玉音放送を企てたら?」
はは、と乾いた笑いを漏らす徐力。その表情には余裕が垣間見える。
「なに、その頃にはあなたの味方はほとんど居なくなっていますよ。そんな中でどんなに貴方が喚こうが、もう聞くものはいません。民衆には慣性があるのです。一旦動き始めた彼らを、人一人が止めることなどできないのですよ」
時間は刻一刻と過ぎ、いよいよ放送十分前を迎えた。応援を呼びに行った警護の予想では、今頃はすでに味方が大挙して押し寄せているはずである。つまり、何らかの問題が発生したのだろう。
この放送局が徐に乗っ取られていたことを考えれば、十分に有り得る話である。
「それで、私を排除したあと、この国を民主化すると言っていたらしいわね。貴方はその中でどう生きるつもり?」
ふむ、と考える素振りを見せた徐が、不敵な笑みを浮かべる。
「そうですなあ。選挙に立候補でもしますかな」
つまりそういうことである。楊の予感は的中した。であるなら、大衆を扇動し、この国の代表となった徐が、自身の権力維持のために楊を生かしておくはずがない。どのような形であれ、そして恐らく、徐本人が手を汚すことなく、楊の命は奪われる運命だろう。
それならば。
「……ここまでね」
楊が脇にあった椅子を持ち上げ、その足をへし折り、棒きれになったそれを自身の前方に構える。
これを見た徐が顎に手を当て、興味深げに声を漏らす。
「おやおや。万策尽きて実力行使ですか。確かに、陛下は武の道に通じておられましたな……。しかし、大の大人六人を相手に、そんな粗末な棒きれ一つで何ができると?」
「何もできないでしょうね。――ただ、もし天が私を見放さなければ、奇跡も起こるかもしれないわ」
深くため息を付いた徐が再び口を開く。
「まったく。異星人の考えは理解に苦しみますな。黙ってついてくれば痛い目に合わずに済むというのに」
「――行くわよ!」
楊が、勢いよく棒きれを振り上げる。
対する六人が身構えたとき、彼女の後ろの扉が勢いよく開いた。
そしてそれは楊に激突し、突き飛ばされた彼女は体勢を崩して脇の紙ごみの山に突っ込んでしまった。
唖然とする一同。
扉から現れたのは、いささか屈強な男二人と安武であった。
「待たせたな!」
意気揚々と現れた彼の目に写ったのは、対面に居る六人と捕まった護衛。楊の姿はない。
「徐! 楊をどこに遣った!」
徐が呆れた顔で安武の脇を指差す。
扉を開けた際に何かにぶつかった感触を得ていた安武が、恐る恐る脇に目をやる。
そこでは、紙くずまみれになった楊が凄まじい形相で棒切を安武に向けようとしている。
「楊。無事で何よりだ」
立ち上がった楊が自身の感情を押し殺し、棒切の先を脇に避ける。
「ええ、今無事ではなくなったけれど」
「すまん」
気を取り直した楊が安武に問いかける。
「どうしてこうなっていると分かったの?」
「あの噂が広まったタイミングで玉音放送となれば、関係者なら誰だって内容の検討はつく。楊が在位の身でありながらそれを認めれば、潔いと国民が好感を持つこともあるだろう。ただそれは、徐の策略にとっては負の要因になりかねない。となれば、楊が宮殿から出るこのタイミングで徐が行動を起こすことも予想できた……というのは建前で、実はここに来る途中、君の警護の男に会ったんだよ。駐在で話が上に通らないって言うのでちょっとした騒ぎを起こしていてな。何事かと事情を聞いたんだ。そうしたら、放送局で不穏な動きがあるということだったんで、後は簡単に察することができたな。ちなみに彼は、本部に直訴に行ったぞ」
「それで貴方はなんでここに?」
「ああ、それだが――」
「お喋りはそこまでにして貰いましょう」
しびれを切らした徐が話に割り込んできた。
「三人増えたところで結果は同じですよ」
安武が不敵な笑みを浮かべ、これに答える。
「それはどうかな?」
安武もガタイが良いほうであるが、後ろの男二人もそれに引けを取らない。この二人が何者なのかは後から聞く必要があると、楊は考えていた。
その時、後ろで局の時報が鳴った。
放送開始の時刻である。
徐たちにとって予想外であったのは、事態を察した安武の後ろの二人が機材に駆け寄り、手際良く放送の準備に取り掛かったことである。
慌てて止めに入る職員たち、妨害に苦心しながらも、男たちは機器の操作を続ける。
安武よりも若く見える片方の男が声を上げた。
「繋がりました!」
楊から棒切をひったくった安武が、機器を死守せんとする混戦の中に躍り出る。同時に楊に向かって叫んだ。
「楊! 早く演説を!」
マイクに駆け寄る楊。徐が慌ててそこに近づく。
「させぬ!」
飛びかかった徐であったが、かつて剣で名を馳せた楊に一対一でかなうはずもなく、初老の男はあっけなく弾き飛ばされてしまったのだった。
床に転がった徐の上に、縛られたままの警護がのしかかり、その動きを抑える。
放送は不安定ではあるが、つながって居るという状態である。
ラジオの前に座っていた国民には、この混戦の音だけが響いており、何事かと町中でざわめきが起きている。
そこに大音量で、女帝の声が流れ始めたのは、直後のことである。
「臣民に告ぐ。我は現皇帝、楊天元である」
国内各地から上がっていたざわめきは消え、国全体が静けさに包まれる。
放送の中には、背後で起きている戦いの音が依然ノイズとして乗ってはいるが、楊の声をかき消すには不十分であった。
「我についての流言を聞いたものもあるだろう。我が異星人の末裔であり、諸兄姉らとは異なる起源を持つというものだ」
一旦間をおいて、続ける。
「それは事実である」
全国からどよめきが上がったことが、スタジオの中からでも分かるようであった。
「――正確に言えば、事実である可能性が非常に高いというものだ。かつての臣下が宮殿の宝物庫から古の写真を見つけ出した。それはこの星のものではなく、更にそこには私の祖先と思しき人物が写っていたのである」
真正直に語られる事実と、その声調の凛々しさに聞き入る国民。それは、スタジオ内部の男たちも同様であった。
「これは、この写真が見つかって初めて分かった真実であり、当然、我に臣民を欺く意図などなかったことは信じてほしい」
短い沈黙の後、楊は安武の方にちらりと目をむけた。安武がこれに気づいたかどうかはわからない。
「――我はこれを受けてなお、この国の皇帝として有り続ける決意をした。たとえその起源が異なろうとも、今この時と場所を共に生きる人として、これまで人々から受けた恩に報いることこそが、私を人たらしめると理解したからである」
この沈黙の間、どこからも雑音は聞こえなかった。それは、この女帝の言葉を、人々が様々な思いで受け止めていることの証左でもあっただろう。
「我はこの国と世界の平和を願い、人々が安らかに過ごせる社会を、人々と共に作り上げていくことを誓う。……以上である」
しばらくの沈黙の後、警護の男性の下敷きになっていた徐が声を荒げた。
「ふざけるな! 他惑星からの侵略者の分際で、この国の平和を願うだと!? 戯言も大概に――」
「違います」
徐の言を遮ったのは、先程まで放送装置の奪い合いをしていた男の片割れであった。男は一歩前に歩み出て、続ける。
「そもそも論として、おそらく陛下と我々の間に種の違いはありません。すべてあなた方の勘違いです」
徐が男に向き直り、険しい目つきで睨めつける。
「何者だお前は!?」
剣幕をものともせず、男が答える。
「私は国立理工大学の王と申します。職位は准教授です。専門は機械工学で、最近は音響設備や放送設備の機能改善を進めています。ただ、学位は宇宙物理学でとりました。隣は助手の郭と言います」
郭と呼ばれた男が会釈する。
なるほど。放送装置に臆しないわけである。
「そのお偉い学者様が何をたわけたことを――」
「私はここにいる安武さんからの提言で、或る気付きに至りました。ヒントは誰もが知る、昼でも輝くあの青い巨星です。名前を青涙星と言います」
「青涙星くらい知っている。だから何だ」
「少し長くなりますがお付き合いを。大切なことなので。――青涙星は、他の恒星との相対的な位置が徐々にずれています。つまり、短時間で軌道運動しているのです。惑星と同じですね。我々の科学は、この十年で飛躍的に進歩しました。軌道力学もその一つです。そこで、安武さんと郭君の協力を得て、過去の文献を洗いながらその運動を定量的に評価しました。これはこの後論文にまとめるつもりなのですが、私達の太陽とその周りを回る我々の惑星は、なんと青涙星の周りを回っていることが分かったのです。私達の太陽と青涙星は連星なのですよ。本当に驚天動地の事実です」
学者の悪いところであるが、自分の発見はどこであっても喜々として披露するものである。これには徐以外も呆れ顔をしているが、当人は意に介さずに話し続ける。
「更に、恒星内部の物理も最近はよく理解されてきました。青い星ほど質量が大きく、赤い星ほど小さい。一方で、青い星は早々に燃え尽きてしまうのです。青涙星の寿命はどれくらいでしょう。これも安武さん助言で調べたのですが、なんと一億から二億年ということが分かりました。一方で、惑星形成の理論的な研究によると、我々が住む岩石惑星は、これは単星の場合ですが、約一億年かけて形成されるということが分かっています。つまり、我々人類はこの姿まで進化するのに残りの数千万年しか使えないわけです。一方で、生物種の変化には相応の長い時間が必要であることも分かっています。人類まで進化するには億年単位ですね。言っている意味がわかりますか? 青涙星が燃え尽きるまでの時間を全て使ったとしても、進化のための時間が全く足りないのです。つまり、我々はこの惑星で生まれた種ではないのですよ」
一瞬沈黙が漂ったが、周囲の頭の回転が追いつくと騒動が始まった。
「何という暴論だ! ふざけている!」
「頭がオカシイんじゃないか!」
「イカれた研究者に研究費を渡すな! 国費を無駄にするな! 選択と集中を!」
室内は混乱に覆われているが、さらに大きな問題は、この知識人の演説が全国に流れてしまったことである。
当然、全国津々浦々で大騒ぎが始まっていた。
しかし、とりわけ衝撃を受けたのは、他でもない徐力であろう。
「なんだと……いや、なんですと……だが、それはまだ根拠が……」
王が話を続ける。
「ちなみに、青色巨星は寿命を迎えると超新星爆発を起こして周囲を巻き込んでばらばらになります。後にはブラックホールだけが残るので、数億年も進化に時間をかけていたら我々はここに存在しません。それと、あ、ここからは郭君に引き継ぎます」
引き継がれた助手の郭が一歩前へ歩みでる。
「えっと、私は学生の頃は歴史学も学んでいました。まあ、大抵の学生は古代の歴史なんておとぎ話だとか言って勉強しないんですが、私はそのあたりに興味があって――」
「もっと単刀直入に言いなさい」
王が続きを促す。
「あ、はい。えっと、教科書だと一ページで終わる内容なんですけど、神話だと我々人類は、地上を襲った恐ろしい大厄災を逃れ、船で神々の世界に逃れたとあります。そして神々の力で新たな大地を創造し、そこを安住の地とした、と。これって、昔住んでいた惑星が住めなくなったから船で宇宙へ逃れて、別の惑星に降り立ったのかなと。神々の力で、の下りが分からないんですけど……ただ、先程の王先生の話とも整合性が取れると思ったので、あ、これはあくまでも仮説ですよ」
神話や言い伝えというものは、あながち馬鹿にできないものである。実際、ただの言い伝えと思われていた事柄が、後になって様々な警告や教訓であったことが分かるという場合もある。
そして、安武が一歩、歩み出る。
「それらの事実を踏まえて、俺は、国立図書館に眠る古の文書を引きずり出した。そうすると面白いことに、時代を遡るに連れて俺にとって文字が読みやすくなっていったんだ。最古の文書のタイトルは、日誌。俺が来た惑星、地球の一部地域で使われていた漢字という文字がびっしり書いてあった。そこで……」
そう言うと、安武はポケットから古びた切手サイズの紙切れを取り出した。凝視する一同。
そこには、以前徐に見せられた写真に写っていた女性がいた。
「これは、日誌を記した人物のプロフィール欄に貼ってあったものだ。肩書も読めたよ。新惑星移民団、提督、だそうだ」
全国に広がった騒動はまだ収まっていない。しかし、その中でも賢明な者たちは、ラジオの前でこの話に聞き入っていた。
スタジオの者たちも同様であった。
こちらは外とは打って変わって、静寂が支配している。
その中で、重い音が一つ響いた。
徐が膝から床に崩れ落ちたのだ。
「それでは……すべて私の勘違い?」
安武は黙って首を縦に振る。
そして続ける。
「この惑星の住民が、全て地球から来たかは分からない。だがしかし、地球からの移民団を率いてきた楊の祖先がここに根を下ろし、仲間とともに文明を育んだことは事実だろう。そして彼女が、それを率いた正当なリーダーであったことも、間違いないだろうな」
徐が膝をついたまま天を仰ぎ、大きくため息をつく。
「先帝を裏切り、皇女を蔑ろにし、国民を欺き……全てはこの惑星を侵略者から取り戻すためと思ってやってきた……」
楊がこれに食って掛かる。
「物は言いようね。ただの権威欲だったのではなくて?」
ふふ、と自嘲気味に、徐が不敵な笑みを漏らす。
「そんなものは副産物ですよ。異星人から取り戻した世界を、もとに戻すために必要な力であったと言っても良い。ですが……」
一拍おいて徐が続ける。
「それらすべて、私の半生の目標はただの妄想だったわけですね。……私はこの後どうなります?」
楊がこれに答える。
「一事不再理の原則から、貴方をすぐに処刑することはないわ。すでに死んだことになっているもの。ただ、事実は公表され、貴方は然るべき裁きを受けるでしょう」
徐が立ち上がり、脇の椅子へ腰を掛ける。
「分かりました。人生の目標を失ったしょぼくれ爺にはお似合いの結末でしょう」
それきり、徐老人は生気がなくなったようにうなだれて、動かなくなってしまった。
本部に応援を呼びに行っていた護衛の男が、賛同する仲間を連れて戻ってきたのはそれから間もなくのことであった。
徐老人は逮捕され、彼に賛同した職員たちも連行されていった。
学者二人は研究の続きがあるとさっさと退散したため、安武は楊と護衛に囲まれて建物を出ることとなった。
しばらく行ったところで、楊が護衛に先に戻るよう促す。このときも命令していたようだが、その表情に緊張の色はなかった。
放送が終わって騒ぎが収まりつつある町中を歩む二人。興奮冷めやらぬ人々は、目の前の美女が皇帝であることに気づきもしない。
二人は近くのお茶屋の戸を叩いた。中は閑散としていたが、あの騒ぎの後でゆっくりお茶を飲む者も少ないためだろう。
二階席に通され、窓際に腰を下ろす。
先に口を開いたのは安武である。
「君が宇宙人かどうかという話が、一転してみんな宇宙人でした。ってなもんで、まあ考えればそれが合理的だったな。ともあれこれで、君は正当なこの国のリーダーだと分かったわけだ。もしかしたら、この世界のリーダーなのかもしれないが、新たな火種になりそうだからこれは黙っておいたほうが良いだろうな」
運ばれてきたポットの茶を安武が湯飲みに注ぐ。
それを眺めながら楊が口を開く。
「ここのところそっけなかったのは、あれを調べていたからだったのね」
小さな湯呑の茶を飲み干した安武が言う。
「まあな。青涙星を見た時に、そうか! ってなってな。君の身をどう保護するかを考えている時に科学に走るなんて。全く関連性がないようだが、成果を得ている研究というものは、得てしてそういうものなのかも知れないな」
楊の胸に刺さったトゲはとうに消え失せ、代わりにその傷口から暖かい朗らかな気持ちが流れ出してくるのが感じられた。
「貴方はね、生粋の科学オタクなだけよ。それは」
はは、と微笑む安武。
「そうかもしれんな」
心地よい沈黙が流れる。
窓から流れ込んでくる秋の陽気は、風に乗って二人の頬を撫でてゆく。
この期に及んで、楊にはまだ心配事が残っていた。それを恐る恐る口にする。
「ねえ、安武さんは、いつかは自分の世界、地球に帰るのかしら?」
「帰ってほしいのか?」
「どうかしら」
意地悪そうな笑いを見せる楊に対し、安武は深くため息をつく。
「俺は地球には帰れないだろう。というより、地球にまだ文明があるのかも怪しい」
「どういうこと?」
「俺は西暦二千四十二年の中国から来たんだ。もとは日本という国に住んでいたんだが、素粒子物理学の研究者として、新型の加速器、まあ実験装置だと思えばいい、それを使いにそこに移住したんだ」
「ふむ?」
「その装置の試運転の際に、事故があってな。俺は発生したワームホールに吸い込まれた。時空間にぶち抜いたトンネルみたいなものだ。そして、その出口が、たまたまここに繋がった。山の中で倒れていたのはそういう訳なんだ」
首をかしげる楊。
「なるほど?」
「俺はてっきり、空間を移動してこの惑星に来たと思っていた。しかし、君の祖先の航海日誌を見たときに、自分の考えの誤りに気づいた。そこに書かれた最初の日付は、西暦二千八十五年。俺が吸い込まれた四十年以上も後なんだ」
「つまり、安武さんは時間旅行もしてしまったと」
「飲み込みが早いな……。そして、ただ遠い未来にいるだけならまだいい。その航海日誌は何千年も昔のもので、地球からの移民の君たちは高度な科学文明を失っていた。これはどういうことだと思う?」
「文明の起源である、地球と連絡が取れなくなったということ?」
「そういうことだ。移民だけで長時間文明を維持することは難しかっただろう。結果として、君たちは汽車もない生活に後退することになった。地球が無事であれば、再びコンタクトを取り、支援もあったはずだ。だがそれがないとなると、他の移民星や地球が無事だとは考えづらい。よって、俺は遠い未来の遠い惑星で、帰る場所を失ったわけだ」
安武は再び湯呑に茶を注ぎ、それを口に運ぶ。
「帰る場所なら、あるわよ」
「どこに?」
楊の胸に溢れた感情が、安武に伝わるのはまだ遠い未来の話だろう。それまで、この思いは心に秘めて生きてゆくのだ。
「私は不親切な女子ですからね。教えてあげません。自分で探してください。――そうね。まずは右大臣になるところからよ」
「ああ、そのことだが――」
数千年後の未来。まだ見ぬ惑星で、人類の歴史は続いてゆく。