2話 悪を以て正義と為す
浅春の朧月の夜のこと。
白いクロークを羽織った女性がアストのもとを訪ねていた。彼女は闇ギルドのマスター。チャイムを鳴らそうと彼女が指を伸ばすと、まるで察知していたかのように扉が開かれる。
「さすがね、私の気配を感じ取ったのかしら?」
彼女は少し驚いたが、同時に納得もした。
アストは闇ギルドのランク測定試験を最後まで生き残った猛者である。それも、採用試験を兼ねた一回目から。彼女の知る限り、そのような偉業を成しえた者はいない。
「おかげさまで……」
だが、彼の方はと言うと非常に謙虚な対応だった。
驕りも慢心も存在しない。彼女は非常に評価した。
彼女は知らない。知る由もない。
その続きが「大変な目に遭った」ということなど。
「――ひとまず、合格おめでとう」
それに対するアストの対応は、非常に淡白なもの。
ただ一言、「ありがとうございます」だけだった。
受かるのは当たり前だろう? とでも言うかのように、彼は少し首をかしげている。
「私たち闇ギルドは、あなたを歓迎するわ」
彼女がそう言うと、アストは扉から手を離した。
彼の口から零れた呼気が、冷気を浴びて白む。
彼女はその息に、安堵が含まれることに気付いた。
(無理もないわね。あれだけ死ぬ気で試験に挑んでいたのですもの。闇ギルドに対する思いもひとしおのはず……)
試験の後半、闇ギルド水準でAランクからは命の保証が無い危険な物ばかりが続く。マスターである彼女ですら、Sランクで打ち止めにしてそこから先には進まない。
それをアストは、SSSランクさえクリアしたのだ。
並大抵の思いで為し得る事ではない。
(見事な剣技だったわね。
確か、『最終星剣 «龍星哀火»』と言ったかしら)
それは無数の斬撃を一瞬で叩き込む剣技だった。
切先から燃えるのは摩擦熱によるものだろうか。
一つ振るえば炎が軌跡を描き。
二つ振るえば爆風が吹きすさび。
三つ振るえば灼熱の業火が全てを飲み込んだ。
振るわれた後には、ただ虚空だけが残った。
夥しいほどの上級悪魔で埋め尽くされたダンジョンが、一瞬ののちに烏有に帰した。その剣舞は見惚れるほどに美しいものだったと彼女は言う。
(君には信念があるのね、それも、闇ギルドでなければ為し得ず、けれど決して曲げられない信念が)
彼女がアストの内心を推し量っていると、アストは空を仰いで顔に手を当てた。彼女は見てしまった。
朧月夜に、一筋、彼の頬を、涙が伝って行くのを。
彼女は知らない。
自身の推測がてんで的外れであることも。
この時アストが「辞めたい」と思っていたことも。
彼女は知らない。
ひとまず、彼の心が落ち着くのを待とう。
そう考えた彼女はこう提案した。
「詳しい話は口頭で説明するわ。ギルドに案内するから、着いて来てくれる?」
アストは一瞬硬直して、それから頷いた。
彼が「いやだ! でも断ったら後が恐い!」と考えていることなど、彼女は知らない。
結局、二人は、煙月が照らす夜の道を歩き出した。ところどころに春の訪れは見受けられるものの、全体としてはまだ冬の色が濃い時節。肌を刺すような冷気が広がっている。
女性は、一つ大きく息を吸い込んで、昔話を語るかのように、アストに問い掛けた。
「原初の闇ギルドについては知ってるかしら? 全ての構成員がエルフで組織された、闇ギルド」
――今となっては昔のこと、見識を深めるために旅に出たエルフが人の国で奴隷に落ち、市場に出されたことがあった。そのエルフは訴えた。「こんな行い、許されるはずがない」と。
その訴えは、多くの人の心に響いた。
だが、法は奴隷商を裁けなかった。
人の国であればという条件は付くが、エルフを奴隷として売り出してはいけないという法律は存在しないからだ。いわゆる脱法だった。
エルフを解放したければ、適切な金額を提示して、買い戻す必要があった。そんな事例が数多くあった。彼ら彼女らにそんな資金は無かった。
有志達は決起した。
悪を以てしか語れない正義があるのなら、自らその身を墜とそうと。
そうして彼ら彼女らは、奴隷市場を襲撃。
奴隷解放を成し遂げたのだった。
彼らが設立した原初の闇ギルド。
名を、『スヴァルトアールヴヘイム』と呼ぶ。
――という話を、彼女はしようとした。
しかし、アストは変わらず虚空を見つめている。
まるで、興味ないとでも言わんばかりに。
(なるほど、この話も既に知っているのね)
彼女は理解した。表に出ない情報ではあるが、決して手に入らないものでもない。情報収集能力に優れた者であれば知っている話だ。
アストもその手の類だろうと。
そんな事は無い。
アストがこの時考えていたのは「え? これ返事しないといけないやつ? それとも言葉を遮ったらダメな奴? ねえどっち? 外したら死亡の選択肢なんて選びたくないんですががが」というもの。
要するに、返事をするタイミングを逃しただけだ。断じて洽覧深識だからではない。彼はエルフではないのだから。
「知っているのなら話は早いわ。君が所属するのは、そのギルドの下部組織。人族支部よ」
「え、あ……はい」
ここに来て口を開いたアスト。
彼女は口を緩めた。
彼の顔から、涙が止まっていたからだ。
神妙な面はそのままだ。
つまり、これはポーカーフェイスに違いない。
その予想は半分あっている。
寡黙を繕っているのは確かであるが、理由は歓喜からではない。不安からである。
彼の辞書に「原初の闇ギルド」の項目なんて存在しない。喜ぶ理由もない。
説明が入るかと思えば本題が飛んできた。
わけがわからない。理不尽だ。内心は号泣だ。
だが、今更聞けない。聞ける雰囲気ではない。
結果、アストは「はい」とだけ返した。
悲しきかなコミュ障。
*
どれだけ歩いただろうか。
月は同じ位置に座する気もするし、随分と高く昇った気もする。おう、随分と偉くなったもんだな、と、俺がお月様とお話をしていると、女性が口を開いた。
「ここよ」
彼女がピタリと足を止めたので、俺も足を止めた。
大通りの、何の変哲もない建物の前だった。
え? こんな堂々と建ってるものなの?
俺の疑問は言霊になることなく、胸の内に渦巻くままだった。この人説明が足りてない。でも聞けない。不興を買いたくないもの。
彼女は建物の中に入って行った。
俺は一瞬だけ迷った。
立ち入ることをではない。
今なら逃げられるんじゃないか、と。
試験のサバイバル以来、非常食の重要性に気付き、帰宅の道中できちんと購入済み。空間魔法に収納してあるし、数ヶ月は逃避行が可能だ。彼女が目を離したこの一瞬。
逃げ出すなら今じゃないだろうか?
「何をしているの。早く入りなさい」
「はい!」
はい無理ー!
バレてましたぁぁ!
いやー! 逃げようなんてしてませんよ?
ただ礼儀作法を思い返していただけですよ!
いやだなー。はっはっはー!
間髪入れずに立ち入る。
彼女は部屋の隅に立っていた。
少し考えて、女性の傍に寄る。
寄らば大樹の陰ってね。
考えは的中。
入り口からホールの中央にかけて、床が二つに開かれる。中から、地下室への階段が現れる。
うわぁ、ベタだなぁ……。
まあ古い組織らしいし、文句は言うまい。
彼女のあとを追って、地下への階段を下りる。
そこには、冒険者ギルドとよく似た構造の部屋が広がっていた。
「そこに名簿があるわ。自分の名前を書いて頂戴」
――悲報。詰み。
どうする。
やっぱり、今からでも全力で逃げ出してみるか?
彼女の実力は知らないが、逃げに徹すればあるいは……。
(……逃げたって、どこに行けばいいのだろう)
学院は退学処分になった。
行く気は無くなっていたとはいえ、騎士になる道は途絶えてしまった。他の職種も同じこと。学院中退を雇う優良企業なんてまず無いだろう。
ならば選ぶは冒険者か。
いや、冒険者は一所に拠点を置いて活動しなければいけない。緊急時のクエストに対し、適切な人員配置を行えるようにとのことで、他の町に行くには七面倒な手続きが必要になる。
闇ギルドの刺客から逃れつつできる職ではない。
畢竟するに、まともな道は残されていないらしい。
「……っ」
俺は、置かれた万年筆を手に取った。
――ふと、思い出したのは。
――墓石に名前を彫る感覚だった。