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<捌´>

 伊瀬丙という人間が如何なる人物であるのかを知ってから、私が彼のことを好きになるまでには、そう時間はかからなかった。


 彼を知った私は、まず人として尊敬し、次に友達として大好きになって、そしてあっという間に、異性として恋い慕うようになっていた。


 と言っても、そのステップアップは、ほとんど一瞬にして行われたのである。伊瀬丙が、王子様か何かみたいに祠の前に現れたあの晩には、私はもう彼のことを好きになっていたのだ――。


 それから毎日、一日が終わって布団に入れば、何か理由を付けて話をしたくなったし、そんなことをしたら嫌われてしまうかな、などと、私にしては珍しく相手の気持ちを推し量ったりもした。


 街を歩けば、もしかしたら彼に会えるんじゃないかと期待した。部活のためだけに通っていた学校も、彼に会えると思うだけで登校するのが楽しみになっていた。教室の隅でノートを取ったり、寝た振りをしているあいつを、こちらも机に伏して、誰にも気付かれないようにただただ眺めていると、それだけで頬が緩んだ。枕に顔を埋うずめて思い切り叫んだこともある。


 そんな恥ずかしい、乙女心も、私には残されていたのである。


 いや、初めて知ったのだ。女が男を好きになるということを、私は生まれて初めて、実感を伴って知った。


 恋する気持ちに理由なんてない、と言うが、私の場合は明白だった。


 ――彼が、私の存在を認めてくれた、初めての人だったから。


 実際にはそうでなかったかもしれないが、しかし少なくとも私には、そう感じられた。そしてそれは、それだけでもう、恋をする理由としては十分だったのである。


 神に祈り、神に為ってしまうほどに、承認に飢えていた私が、初めてそれを与えてくれた男に対して、好意を抱いてしまったのは至極自然な流れであったし、単細胞の私に相応しく、単純な話でもあった。


 私が彼を好きになったのは、彼が私を認めてくれたからである。彼が、私の為ならば命だって懸けられると、言ってくれたからである。


 魚心あれば水心。私は多分そんな簡単な理屈で、伊瀬のことを好きになった。


 魔物に攫われたお姫様が、ほとんど必ずと言って良い確率で救出に駆け付けた勇者のことを好きになってしまうのと同様に、きっと私は同じことを他の誰かにされていても、その人物のことを好きになっていただろう――。


 ただ、あの日私の前に現れたのは、伊瀬だった。祠を訪ねてきた生徒たちは、両の手では数え切れないほどいたが、そうして多くの願いを掛けていったが、私の願いに気付き、叱ってくれたのは、伊瀬丙、ただ一人だった。


 それは私の変調を察知し、つまり私の体の中身が私ではなくなっていることを悟り、そのことを問題視し、あまつさえ行動を起こしてくれた人間が彼一人だったということである。


 私の両親と呼ぶべき人たちでさえ、そんな気遣いはしてくれなかっただろうに……。


 私の中に、あの祠の主が入っていた頃の記憶はないけれど、だけど、彼らが法定義上の娘である私の様子がおかしくなっていると、認識していなかったことは容易に想像できる。たとえ気付いていたとしても、彼らは何もしなかったはずだ。事実、私の肉体が人間性を取り戻した晩、娘が真夜中の街に出歩いているというのに、あの二人は無関心を貫いていた。私と彼らの関係は、そんな希薄なものなのだ――。


 今から考えてみれば、馬鹿げた話である。つくづく私は単純だ。


 私は愛されたかったのだ。ただ見てほしかったのである。


 父親にも、母親にも、そうされてこなかったから。


 母に捨てられた私は、無償の愛というものと無縁で、父に二の次扱いされ続けた私は、嫉妬と欲望を、自分でも知覚出来ないくらいの深層に隠しながら、抱えながら育った。胸のずっと奥底に、深く深く、闇を湛えて成長した私は、その当然の帰結として、所謂承認欲求というものの、化物になった。


 認めてほしい。誉めてほしい。胸に秘めた決して健気ではないその思いが、バスケに対する熱意となって表出していたのである。


 そして願いが否定された時、私の内なる欲望はついに閾値を超えて、その醜い本性を露わにした。神に為った私は、その絶大な力を背景に、思いの丈を初めて吐き出した。


 そうまでして初めて、私は本心を白状することが出来たのである。そうでもしなければ本当の願いを言えなかった私は、だから、嘘吐きなのだ。


 言いたいことを言っているようで、一番伝えたいことは言わずにいた――。


 私は自分を捨てた母を恨んだことなどなかった。自分をないがしろにした父を恨めしく思ったことなどなかった。両親の二人ともが私に無関心だったのだとしても、私は彼らを愛していたのだから――。


 恋に理由はあっても、愛に理由はない。


 それでも敢えて言葉にするならば、自分の親だから、嫌いになれなかったのである。私のことを愛してくれなくても、邪魔だとさえ思われていても、私には彼らを嫌いになることが出来なかった。


 私を捨てた母。私を敵視する父。しかし私は今でも、二人のことを、これ以上ないくらいに、命を懸けても良いくらいに愛している。


 それがどんなに不幸なことなのかも考えず、私はずっと目を背けてきた。


 自分の好きな相手が自分を嫌っているなんて、世の中にこんな悲しいことはない。それが自分の親だなんて、そんな悲惨な家庭はない。


 ありふれた不幸ではある。親が子を愛さないことなど、最近では珍しくもない。しかしありふれているからと言って、親に愛されない不幸が、子供にとって程度の軽い不幸であるはずがなかった。


 私はそのことに気付かないように、自分を騙して、嘘を吐いて生きてきた。父親と、一緒に暮らしているなんて、幸せな方じゃないか。そこに愛がなくたって、そんなことはよくあることだろう。世の中にはもっと不幸な出来事がいくらでもある。


 まだ幼かった私は、中途半端に頭を働かせて、恐らくは無意識にそう思うようにしたのである。


 だから私は、一度だって、父親に不満を漏らしたことも不平を言ったこともない。我が儘を言ったことだってなかったはずだ。余計に嫌われたくなかったから、私は何も言わずに、黙っていた。


 ――愛してくれだなんて、寂しいだなんて、とてもではないが言えなかった。


 私はずっと片想いをしていたのだ。そしてまた新たに、片恋相手を作っている――。


 私がずっと欲してやまなかったもの。


 誰でも良い。誰かに手を繋いでほしかった。

 誰でも良い。誰かに頭を撫でてほしかった。

 誰でも良い。誰かに抱きしめてほしかった。

 誰でも良い。誰かに必要だと、言ってほしかった。


 しかし現実は非情で、私の願いは一つとして叶わなかった。


 誰も手を繋いでくれなかった。

 誰も頭を撫でてくれなかった。

 誰も抱きしめてくれなかった。

 誰もが私を、必要だと、言ってくれなかった。


 ――欲張り、なのだろうか? それが、それだけのことを望むことが……。

 私は強欲なのだろうか?


 違う。そうではないと、私は彼ら、伊瀬丙と伊瀬縁の生活を見て、まざまざと見せつけられて、否応なく自覚させられたのだ。そんな欲求は、願うまでもなく叶えられるものなのだと、誰しもが当たり前に享受しているものなのだと、思い出した。


 血の繋がりがなくとも、家族にはなれる。そんな美談がある。実際に。例えば私のたった一人の友人も、人ですらない彼女と、温かく幸せな家庭を築いている。


 私はどうだ? 血の繋がりのある父親と、彼らのように楽しそうに会話をしたことが、私には一度だってあったか?


 そんな記憶はもうどこにもない。


 どうして? どうして人と竜が家族になれるのに、私たちは家族になれなかったのだろう? どうして私は、誰からも、本来家族と呼ぶべき人からも、愛されないのだろう? 無償の愛は、保障されたものではなかったのか?


 ――だったら、どうして私を生んでしまったの……?


 途端に悲しくなった。寂しくなった。苦しくなった。六年間、騙し騙し、心の最深部に封印してきた闇より暗い感情が、一気呵成に溢れ出て、そうして『あれ』は誕生した――。


 私に家族はいない。父は私を一番に想っていない。そして、私のただ一人の友人。この世界でただ一人、私を認めてくれた彼もまた、私が彼を想うほどに、私のことを想ってはいないだろう。


 胸を掻き毟りたくなった。


 ――お父さんにとっての一番はあの人であり、伊瀬にとっての一番は、絶対に縁ちゃんだ。


 彼は言った。


 ――お前の為に命を捨てることは出来ないけど、命を懸けることなら出来る。


 その言葉は、最大の救済だった。私が彼に恋をしたのは、間違いなくこの言葉があったからである。


 自分の為に命懸けになってくれる人がいる。そう思うだけで胸がいっぱいになった。何もかもが満たされて、報われた気がした。人間に戻った頃にはもう、彼を心底、隣を歩いているだけで涙が出そうになるくらいに、好きになっていた――。


 しかし彼の言葉は、私の為には死ねない、という意味でもあった。


 私よりも大切な人がいるから、彼は死ねない。死んで悲しませたくない彼女がいるから、伊瀬は死ねないのだ。縁ちゃんが泣くから、私の為に命を懸けることは出来ても、誰の為にも、死ぬことが出来ないのである。


 あの言葉の意味は、そういうことだったのだ。彼の部屋を訪れ、一日楽しく過ごした私は、ようやく悟った。


 二者択一を迫られた時、伊瀬は私を、選ばない。


 二重の意味で、思い知らされた。自分がどれだけ不幸な環境で育ってきたのかを、何故自分が愚かな願いをするに至ったのかを、そしてまた、大好きな彼が私を一番には想ってくれないことを……。


 それに気付いたのが、今朝、丁度あの河原の階段に座って、考え事をしていた時のことである――。


 ――どうして『あれ』は、あの場所に現れたのかって?

 ――『あれ』はあそこで生まれたのだ。あの場所で私が生み出したのだ。


 ――どうしてあの場所で生まれたのかって?

 ――私が伊瀬のことを考え、そして家族のことを考えたからだ。私が現実に気付いたとき、その場所で『あれ』は生まれた。


 ――何故『あれ』が犬上家を狙ったか?

 ――優しく、愛情をもって接してくれる母親が羨ましいと思ったからだ。


 ……妬ましいと、思ったからだ。


 私の居場所になってくれなかった家。家族になってくれなかった両親。だから彼らの寝室が黒焦げになった。


 何の躊躇いもなく髪を梳かしてくれる他人の母親。だから彼女の住む家が狙われた。


 『あれ』は怨嗟であり、嫉妬であり、そして私だ。私の暗い願望だ。


 全てなくなってしまえば、母に捨てられた時のように、忘れて、騙して、嘘を吐いて、自分は不幸ではないと、錯覚することが出来る。その環境に慣れてしまえば、もう辛くない。そうして長らく、私は生きてきたのだから、またその状況に戻してしまえば良い。


 私は現実を、隠そうとしている。


 その答えが、『あれ』だ。全てをなくしてしまうための、願いを叶えるための、私だけの道具。祠の主の亡霊などではなく、彼女は私の、生霊だ。信仰の成れの果てなどではなく、神の亡霊などではなく、私の憧れが生んだ化物。だから私には見えるし、私以外の誰にも見えない。


 私の姿をしているのは、彼女こそが私自身であるから。


 本当の私。私らしい私。そんなものがあるのなら、きっとそれは彼女のような形をしているのだろう。彼女は私の偽らざる本心である。六年もの間、奥底に溜め続けた、その中でも最も濃度の高い、どろどろとした澱のような部分。私の根源とも言える感情の、彼女は化身である。


 犬上が犬神を生み出したように、私は彼女を生み出した。


 分かっていたことだ。無意識だったかもしれないが、そういう自分がいることに、私は気付いていた。気付いていて、それでも尚、目を背けたのである。自分の所為ではなく、嘗て身勝手に願い、消滅させるまでに追いやった神様の所為にしようとした。


 しかし私には予感があった。犬上家に、あの優しい母親のいる家に、『あれ』がもう直にやってくるだろうという、予感が。


 当たり前だ。呼んだのは私なのだから。犬上家に狐を、いや、自分の分身を差し向けたのは、他ならぬ私なのだから――。


 世界にはどうにもならないことがある。他人の気持ちを意のままにすることは出来ないし、出来たとしても、そうして変わった気持ちは、偽りだ。


 父に私を一番に考えさせることは出来ない。伊瀬に私を好きになってもらうことは出来ない。


 どうしようもない。


 ――だったら、いっそのこと壊してしまえ。どうせ叶えられない願いならば、目の前で見せつけられるくらいならば、初めから、なかったことにしてしまおう。


 ――ああ、私は何て、悍ましい。


 ――愛が重い、か。


 いや、これは愛、ではないな。


 片想いではあっても、愛ではない。正しい愛とは双方向であるべきなのだから。好きでもない相手からの、重い気持ちなんて、怖いだけだ。


 ……ただ迷惑なだけだ――。


 手が届かないなら壊してしまおうなんて気持ちが、愛であって堪るものか。


 私のこれは、狂気であり、正気の沙汰ではない。


 「――お前の最終目的は、伊瀬、だな」


 私が今一番欲しいのは、あいつの気持ちだ。それが手に入らないと断言できるからこそ、彼女は生まれたのである。


 「ようやく認めてくれた。そうだよ。ワタシはあの人が好き。大好き。ずっとあの人の隣にいたい。あの人に抱きしめてもらいたい。そうされれば、全てが満足で、後はもうどうなっても良い」


 ワタシは私を代弁する。


 それは本来、私が発するべき言葉だった。


 「でもその願いは絶対に叶わない」


 「そう。だから、なかったことに、するんでしょう?」


 いつの間にか私は、拳を強く握っていた。


 悔しくて、涙が滲み出てくる。


 ――自分の弱さが、悔しい。脆さが嘆かわしい。

 ――こんなものの力を借りなければ、私は、『好き』の一言も言えないのか。


 何が変わる、だ。私は結局、弱いままだ。理屈も何もあったものではない。私はどこまでも子供で、幼稚で、質が悪い。


 何でこんなことになってしまったのだろう。私には、人を好きになる権利さえ与えられていないのか。


 「……何でだよ……」


 ――やっと友達が出来たのに。やっと心から笑うことが出来たのに。


 そんな些細な幸せで、我慢していれば、こんなことにはならなかったのか?


 「無理だよ」


 ――だって、好きになってしまったのだ。


 気持ちに取り返しはつかない。


 ――好きなんだ。伊瀬のことが。どうしようもないくらいに。


 ずっとあいつの隣にいたい。あいつに抱きしめてもらいたい。そうされれば全てが満足で、後はもう、どうなったって良い。そんな風に思えてしまうほどに、好き。


 ――歯止めが利かないから、恋と言うのだろう?


 『人間』


 大気が震える。


 それは私を呼ぶ、犬神の声だった。


 『儂は別に、御前如き人間に肩入れをするつもりはない。だがな、残念なことに、そして御前にとっては喜ぶべきことに、御前は儂の主人にとって、それなりに重要な人物だ。御前がいなくなると、少なからず儂の主人が傷付く』


 恐ろしい声で犬神は言う。


 『故に、一度だ、この場だけは儂が引き受けよう。いくら忘れかけられた信仰とは言え、儂を生んだのはあの尋常ならざる母親よ。同類の化物を一度ひとたび退けることなど造作もない』


 「それは……」


 『後の事は知らぬ。御前に何か言葉をかけてやるつもりもない。ただ、忘れるな。儂は犬神。呪い神にして祟り神。此の家の小僧に何かあったら、御前も只で済むと思うな』


 ――これを生んだのは、犬上の、母親か。


 そう考えると、納得がいった。


 これは彼女の、愛の結晶なのだ。呪いまでもが愛で出来ている。犬上祐を守るために、遣われている。私の醜い生霊とは、同類であっても、全くの別物だ。


 化物を生み出すほどの愛。そんなことにまで、私は嫉妬する――。


 何か重いものが降り立ったかのように、門が大きく揺れる。私は雨に打ち付けられながら、屋根の上を見た。


 そこには禍々しい一頭の犬が私の生霊を見下すように、屹立していた。


 巨大で、神聖で、美しい。声の主、犬神はそうしてついに姿を現した。


 「これが最後の奉公となるか。小僧も十二分に育った。丁度潮時。そろそろ御役御免とさせてもらおう」


 言って、犬神は烈風の如き勢いで、生霊へと飛び掛かった――。


 瞬間、空が閃き、宙を舞う大犬をいかづちが貫く。私の生んだ生霊が、落雷を意のままに操り、即座に応戦したのであろう。


 しかし気高き犬神は自らの肉体が熱と光によって綻んでいくことにも構わず、鳴き声の一つも上げず、優美さも速力も保ったまま、生霊の喉笛に一直線に喰らい付いた。


 大地を引き裂くかのような破裂音、幾多の迅雷、目も眩む強烈なフラッシュが、立て続けに発生される。その余りの苛烈さと恐ろしさに、私は立ち尽くし、ただ状況を見守ることしか出来なかった。


 いや、どうにか前に踏み出そうとしても、衝撃の域にまで達している雷鳴と、炸裂する雷光が邪魔をして、微動だに出来なかった。それは多分、一匹の動物としての本能とでも呼ぶべき防御反応だった。


 一秒のかんに、一体どれだけの雷が落ちただろう。際限のない数十、数百の稲魂、その全てが、束となって、喉に噛み付いたままの犬神を捉えていたのを、私は眩い光の中に見た。


 犬神は、顎に込めた力を緩めない。いや、痛みによって、より強く喰いしばっていくようにすら見えた。犬神のような存在に、果たして痛みという概念があるのかは不明だが、私にはそれが痛々しく、見えたのである。


 ――私が巨大な獣に喰い殺されかけている。


 私にとっては特に、異様で、空恐ろしい光景だった。もし私が、神に為ったことがなければ、これが現実の光景だとは信じなかっただろう――。


 犬神は捕らえた獲物を放さない。身に数億ボルトの電圧をかけられながらも、喉笛に深く深く、牙を突き立てている。自分が滅ぶことなどお構いなしと言う風に、その恐ろしい風貌を更に歪め、生気に漲る瞳を一層爛々と輝かせ、己が主人の敵を討たんとしている。


 「あなたにこれほどまで干渉されるとは、成程確かに常軌を逸している」


 生霊は悶えるように敗走を始めた。首に喰らい付かれたまま、上空から雷を呼び続け、しかし敵の執念深い攻撃から抜け出すことも出来ず、撤退を余儀なくされたようだった。


 雷は尚も落ち、犬神の巨大な体躯を焦がし続ける。いつしか犬神の体は、青白く燃え上がっていた――。


 彼の偉大な祟り神がようやく敵を放した頃には、その体は首を残すのみとなっていた。


 それでも犬神は追撃の手、ならぬ首を緩めなかった。神々しい灰色の毛並みの犬神は首だけの無残な姿になって尚、その残った首も青く燃えたままに、外敵に損傷を与え続けた。


 そしてとうとう生霊は、嵐と共に、姿を消した――。


 先程までの異常気象が嘘のように、空は晴れている。勿論その晴天は、事件の解決や、私の気持ちがついに晴れやかになったことを暗示するものではないのである。


 嵐はただ移動して、他の場所に向かっただけだ。


 『人間』


 声がした。先ほどよりもずっと小さく、恐ろしさも半減した、弱りきった犬神の声。繰り返し打ち付けた雷電によって、耳はもうほとんど機能を失っていたが、その声だけはどうやら聴き取ることが出来るようだった。


 『あれだけ痛め付けておけば半刻は持つだろう。それ以上は保証せぬ。分かるな』


 「ああ。分かってる」


 『そうか。ならば最早思い残すこともない』


 犬神は疲れ切ったように、囁いた。


 『ああ。やっと、眠れるわい――』


 ――ありがとう。


 私に時間を作ってくれて――。


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