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<漆´>

 刹那で濡れた。


 玄関の引き戸を閉めて、雨の中に駆け出したと同時に、全部濡れた。せっかく貸してもらったTシャツも短パンもランニングシューズもパンツも、そろそろ慣れてきた晒さらしも、靴下までもがあっという間もなく濡れた。濡れていない箇所がないくらい、濡れ靴下……もとい、濡れ尽した――。


 今までに経験したことのない大雨、とはこのことである。来た時には乾いていた飛び石も、今は水の中に沈んでしまっている。


 踏み出す一歩がいつもより鈍い。疲れではなく、水の重さに足を取られる。


 鮮やかな絵画を水の混じった白の絵の具で塗りつぶしたみたいに、辺りの景色が霞んでいる。十メートル先の武家屋敷然とした大層な門でさえ、僅かにその輪郭を残して見えるだけだった。


 濃い雨の匂いを一杯に吸い込んで、私はその薄ぼやけの世界を走った。


 十メートルの距離を多分二秒もかけずに、いつものように足をあげて、跳ね返りも気にせず駈けた。


 門まで到達すると、音の来る方向が、下から上へと変わる。取り留めのないそんなことを感じ取ると、私は更に速度を上げ……


 『――命が惜しいのなら、今はその門から一歩でも外に足を踏み出さぬことだ、人間』


 怖気を振るう低音が耳に入り、意識とは関係なく、凄まじいブレーキがかかる。あまりの不吉さに、体が硬直した。


 直後――。


 肌が粟立ち、視界と音声が白い光の中に消える。


 遅れて体の表面を、ビリビリと、痛いようなくすぐったいような、筆舌し難い不思議な感覚が駆け巡る。


 衝撃と爆音に、脳までが震えたかのようだった。視界は全面白に染まり、キーンという甲高い音声以外に、何も聞こえなくなった。


 視覚と聴覚を奪われた私は、しかし生き残った嗅覚で、確かに異臭を嗅ぎ取った。


 鼻を衝く、金属臭。不燃性の何かが焦げたような嫌な臭い。それが落雷の瞬間の臭いなのだと、私はこの時を以って知った。


 回避はおろか、たじろぐことすら出来なかった。生まれて初めて、雷の落ちる速度を私は体感した。


 雷は、目と鼻の先数メートルも離れていない場所に落下していた。


 どこかから聞こえてきた、異様なそれでいて神聖な、聞いているだけで鳥肌の立つ声がなければ、私は光の奔流に直撃を受け、あの家の一角がそうなったように、焼け焦げになっていただろう。


 数秒して戻った視覚には、空気を切り裂き、屈折した雷の軌跡が、薄暗く焼き付いていた。そして辺りを見回すと、豪雨から私を守り、敷地と外の世界とを隔てる門の眼前の道路が黒く焼け砕けていた。


 すぐに周囲を確認した。私を人間と呼んだ声の主と、そして私が対峙すべき『あれ』の姿を探して――。


 「どうしてここへ来た!?」


 豪雨の中に姿を現した、輪郭の朧な女に、私は問うた。


 問わなければならなかった。これが居場所を奪った私への復讐ならば、どうしてこの場所に来たのかを。


 ――それに、この現状は何だ?


 地面の破損は、一か所だけではない。無数の落雷の形跡が列を成して、犬上邸を取り囲むかのように並んでいるのである。


 異様な光景だ。こんな現象は自然界では起こりえない。


 こんな、まるで犬上家の敷地を境界にしたみたいに、狙ったかのように、立て続けに雷が落ちるなんて、普通ではない。


 狐と雷は繋がった。これは、そしてあの家に雷を落としたのも、私の目前、歪な円形をした焦げ跡の中心に佇んでいる異形の仕業だ。


 不可解なのは、家の中にいた私や犬上、また犬上母が、この事態に気付いていないと言う点である。


 犬上家の周囲は田園に囲まれており、落雷の地点から隣家までは最低でも数十メートルは離れている。それ故に、近隣の住民がまだ感知していないというのは、些か鈍いような気もするが、分からないでもない。雷鳴が、叩きつけるような激しい雨音で軽減されていたと考えれば、その鈍さにも一応は説明がつく。


 しかし、少なくとも、私たちには聞こえたはずだ。こんな至近距離に落雷が発生したら、いくら雨音が激しくとも、気付いたはずなのである。地面が抉られるほどの威力なのだ。音だけでなく、何らかの衝撃が伝わってきていてもおかしくなかっただろう。


 もう一点。不気味な、凡そ人のものとは思えない、恐らくは人のものではない、おどろおどろしい声。怨嗟と慈愛をない交ぜにしたかのような、低く重い声色。


 私に警告を発したのは、何だ――。


 そして最大の疑問は、やはり、どうしてこの家の周囲が、前述したような、異様な有様になっているか、ということなのである。つまり、彼女が何故ここを襲撃したのか――。


 『いい加減、邪魔をするのは止めてほしい。低俗で中途半端な憑き物、呪い神風情が、正真正銘の神であったワタシに太刀打ちできるとでも?』


 私の姿をした私にしか見えない女は口を開いた。


 しかしその侮蔑の矛先は、私に向かっているのではない。正体不明の、何か大きな生き物、いや非生物に対して、女は話しているのである。


 『正真正銘? かっ。それで正真正銘の神を騙るとは。だから人間は勝手だと言うのだ。中途半端は互いに同じことだろう。地力の差はそうあるまい』


 女に答えを返す何か。


 確かに音声は聞こえているはずなのに、姿を視認するどころか、声がどのあたりで発生しているのかさえ判別できない。


 『事情は知らぬが、知りたくもないが、やれやれ全く、厄介なものを招きおって。此の老体には骨が折れる』


 敵か味方か、どちらでもないのか、居場所の分からない大きな何かが、忌々し気な声をあげる。


 『あなたもそろそろ限界でしょう。地力の差は変わらなくとも、最早あなたは消滅寸前。その薄くなった障壁で、後何度、耐えられるか。現に音の方は防ぎ切れなくなってきている』


 ――障壁? 不可視の怪物が、その障壁とやらで犬上邸を守っているということか?


 だとしたら、侵攻を水際で食い止めている、この不気味なものの正体は、一体何なのだろう。


 ――私を止めたということは、少なくとも、敵、ではないのだろうが。


 女の言う障壁などというものもどこにも見えない。いや、この一直線に並んだ雷の跡。私と彼女、この家と彼女の間に、音さえをも遮断する、これもまた不可視の、常人の理解の及ばない不可思議な障害物が張り巡らされている、ということか?


 馬鹿な。遠くで鳴る雷の音も、私には聞こえていたのだぞ? それとも、『あれ』に関わる全て、犬上家に危害を加えようとする者全てに対する遮断効果であったとでも?


 ――そんなことが……


 ……いや、あり得る、のか……。


 私は嘗て、空間から刀を引き抜いたことがある。尋常ならざる神通力を以って、物質を一から生成したのだ。


 世の中には不思議がある。世界は異常で満ちていて、しかしそれは私たちが知らないというだけで、当たり前のことなのだ。私は無知の知を、もう自覚しているはずだ――。


 『耐えられぬのならば打って出るまでよ。御前を道連れにする程度の力なら、儂にもまだ残されておろう』


 ――犬神。しかし犬上の信仰によって生み出された犬神はもう既に消えたはずだ。他ならぬ、犬上の言葉によって、信仰は否定された。


 ならばこれは、この声の主の正体は、犬上すら知らない、彼が生み出したものとはまた別な、信仰ということになる。彼が願ったのではなく、彼以外の誰かが願って、家を守護している。


 ――寧ろこちらが、本来の犬神の『遣い方』なのか。犬神とは元々怨霊であり、一族に繁栄をもたらす神だ。そして時に番犬として、外敵を打ち滅ぼす役割を果たす。


 犬上の説明するところでは、そういうものとして伝承されてきた。


 この場合、外敵は雷を纏う亡霊だ。元祠の主にして、今や妖狐と成り果てた神の残骸。私の被害者であり、復讐者――。


 状況は概ね把握した。理解できないことばかりだが、現状に限れば、構図は単純だ。


 何十分か、何時間か、それとも数分だったか、正確にどれだけの時間だったかは分からない。しかし犬神は、恐らく主の住む家を、侵略者から、身を挺して守り続けてきたのだ。もしかすると、私が暢気に髪などを、それも人様の母親に乾かしてもらっている間も、防戦一方になりながら、それでも従順に、献身的に家を、主を庇ってきた。


 『そう。ならワタシが引導を渡そう。この家諸共、あなたを終わらせる』


 「――ちょっと待てっ! どういうことだ。どうしてこの家なんだ!」


 これは、私への復讐のはずだろう? それならば何故、無関係な犬上家までをも、終わらせなければならない?


 『関係ないことなどない。ワタシが来たということは、ここはもうあなたに、そしてワタシにも関係しているということだ』


 「そんな……、そんなはずはない! 私は何も思ってなどいない! ただ借り物をしただけだ! ……それだけだから……」


 ――どうかこの善良で幸福な家庭に、手を出さないでくれ。


 『あなたが必死に庇うことこそ、あなたとここが関係していることの証明だ』


 私の所為で、また、人が傷付くのか。私はまた、人を傷付けるのか。


 そんなことになるくらいなら――


 「……ここを壊すのなら、私をやってくれ」


 もう二度と、あんな思いをするのはこりこりだ。私のために人が不幸になるのなら、私が犠牲になれば良い。もう何も願わないから、何も奪わないで。


 『あなたが人身御供を買って出ると? どうして』


 「お前は私に復讐したいのだろう?! だったらお前の居場所を奪った私を、狙えば良い!」


 『そう。これは復讐だ。他ならぬあなたがそう言うのだから間違いない。だけど別にワタシは、あなたに復讐したいだなんて思っていない』


 「なっ! じゃあお前は何がしたいんだ。何が言いたいんだよ! 分かるように話せよ!」


 駄々をこねる子供のように、私は叫んだ。


 それが本心からの叫びだと、私は信じていたのである……。


 しかし元神様の現身は、平坦な口調を貫いて断言した。


 『あなたはワタシに分かるように話してほしいなんて思っていない。――だってあなたには、本当は全部、分かっているんだから』


 目眩がした。ぞっとして、鳥肌が立った。


 何か核心を突かれたような、唐突に誰にも知られていない自分だけの秘密を暴かれたような、胸の中の一番深い場所を、素手で鷲掴みにされたような、そんな心地がした。


 ――本当は全部分かっている。本当のことは全部もう、分かっている。


 この女は、今しがた私の頭の中で構築された仮説が、全ての答えだと、見透かしたように言ったのである。犬神の話を聞いた時から、頭の端でちらついている認め難いその考えこそが真相であり、真実だと……。


 ――そんなわけがない。


 私は否定する。


 もしそうだとしたら、なんて考えることさえもしたくない。認めたくない。認められない。私はそんな低俗な人間ではないはずだ。そんな弱い人間ではなかったはずだ。


 『またそうやって、騙すのかい? あなたは本当に嘘吐きだ。そんなでは、ワタシはいつまでも止まらない。いつかこの世の全てを破壊し尽してしまうだろう』


 「……お前の言うことが正しかったとして、……では私は一体、どうしたら良いんだ……。どうしようもないじゃないか。こんなことは……」


 『そう。どうしようもない。世の中の全てのことが、問題が、悩みが、どうにかなると思ったら大間違いだ。どんな努力をしてもどうにもならないことはある。報われない想いなんてものは溢れるくらいにありふれている。だからワタシは、生まれたのだろう?』


 ――報われない、想い。不毛な努力。


 私はそれを誰よりも知っている。嘗て私が命を懸けて欲したものは、手を伸ばしたものは、指の間からすり抜けていってしまった。だから私は、人間を捨てまでした。


 要するに私は自暴自棄になったのだ。


 誰も自分を認めてくれないと思ったから。この世界にお前は必要ではないと、言われた気がしたから。欲しいものが手に入らなかったから。そんな子供みたいな理屈で、そんな幻想を抱いたまま、私は全てを投げ出し、神に縋り、そして祈った。


 ――その居心地の良さそうな場所を私に寄越せ。


 願ったのも、それを破棄したのも、私。


 そう思って、それを罪だと決め付けて、私は『彼女』を考えてきた。犬上の話を聞いた後でも、その考えは主流だった。


 つまりそれは、犬上の話、彼の惜しげもない告白を聞いたことによって、新たな支流が生まれたということだ。


 犬上は、一族の歴史と自らの境遇から、信仰をでっち上げた。偽装し捏造し、そうして生まれた犬神を利用して、自らの正しさを追求しようとした。


 呪いを自分勝手に解釈し、都合の良いように使役したのである。犬上は犬神を、自分の理不尽な成功を説明するための道具にした。


 それが犬神事件の真相である。


 そう聞いた。


 そう聞いた私は即座に、その図式を、今回のことに当て嵌めて考えた。いや、考えたのではない。犬上ではないが、直感が働いたのである。考えるより先に、思い付いていたのだ。


 ――私も、自分の加害者意識を、罪悪感を利用したのではないか? そうして彼女の本当の在り処を隠匿したのではないか、と。


 そんな直感が頭の片隅で働いていたからこそ、彼女に指摘されて、目眩がするほどどきりとした。


 「……復讐というのは、嘘か」


 最早言い逃れは出来ない。


 きっと、初めからの全部が嘘だ。自分の生き写しを目撃して、七月の続きだと、思ったことさえもが、嘘なのだ。


 いや、それを言うなら、彼女の姿、不自然に生えた耳と尻尾までもが、嘘であり、誤魔化しであり、言い訳なのだろう。祠と関連付けるために、私は彼女にそれらしい符号をつけた。


 私が勝手に解釈したのだ。因果を決め付けるなという忠告も無視して、あの祠と、今回の出来事を強引に結びつけた。


 信仰を奪われ、力を奪われ、居場所を奪われ、怒り狂った神が、加害者であるところの私に対して復讐を企てた。そんなチープなシナリオを仕立て上げたのだ。私はずっと、これまでしてきたのと同じように、自分を騙そうとした。


 その矛盾だらけの嘘の限界が、ついにきたのである。


 神様は復讐など考えない。意思がないからこそ、神は神たりえるのだ。


 あの祠の神様は何でも願いを叶えてくれる、神様だった。それは力の及ぶ限りでの話かもしれないが、人の願いに反するようなことは絶対にしない。人が願ったこと以外には、何も出来ない。消えろと言われれば消える。だから、魔女が願った時点で、祠の主は完全に消滅したはずだったのだ。


 それでも彼女が復讐だと認めたのは、私が、そう在ることを無理矢理に、強いたからである。彼女に人の物ではない耳や尻尾が生えているのは、私がそう、見たかったからだ。


 浅ましい話だ。欲望のために自分の加害者意識まで利用するなんて、極悪非道も良い所だ。


 ――奪わないでくれ? 何を言っている。初めから、私のものなんて何一つなかったではないか。世界から彼女たちを奪おうとしているのは、私の方じゃないか。


 ――何が嘘の吐き方を教えてくれだ。私はずっと、嘘を吐き続けてきたではないか。


 「そう。ワタシは嘘。あなたの生んだ嘘であり、願いを叶えるための道具」


 犬上は心のどこかで、退屈を晴らしたと思っていた。そのほとんど無意識の願望が、犬神という理由を根拠に表出した結果、二年五組の窓ガラスが割られることになった。


 ――私の場合はどうだ? 私は何に、彼女を利用しようとしている?


 明白だ。初めから分かっていたことだ。


 だから、全ての疑問に、私は答えられる。



 さあ、空々しい答え合わせの時間だ。


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