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<肆´>

 犬上祐いぬかみたすく


 一言で説明すると、クラスの人気者。一言以上で説明すると、成績優秀、スポーツ万能、クラスどころか学校中の人気者で、俗に言う細マッチョイケメン。二年五組の学級委員。友達百人いる男。お姫様抱っこマイスター。女子の間では、神様仏様祐様とも囁かれる完全無欠の八方美人(多分良い意味)。イケイケ、キラキラのコミュニケーションお化けで、本物で、伊瀬には人たらしなどと陰口を叩かれている。多分七月の初め頃から、二人は所謂友人関係になった。


 更に説明を加えると、犬上は男子バスケットボール部の新キャプテンにして絶対的エースである。


 ポジションは私と同じ司令塔だが、私とでは格が違う。私が司令塔という身分にありながら自分で得点を稼ぐくらいのことしか出来ないのに対して、犬上の場合、一応ポイントガードというポジションに配属されてはいるが、実際はオールラウンダーなのだ。


 パスは勿論、ミドル、ロングレンジからのシュート、ペネトレイト、リバウンド、相手によってはポストプレーを仕掛けたりもする。分かり易く言えば、仙道みたいな奴だ。


 ――しまった。描写がバスケに寄り過ぎたか。まあ、伝わる人間だけに伝われば良い。


 要するに、一言では決して表しきれない、私とは真逆の人間ということだ。


 そんな犬上が、道端で、私の名前を大声で呼びながら、手を振っていた。そしてそのまま、カラカラと音を鳴らして駆け寄ってきた。


 ……とても逃げたい気分だった。


 ――何でこの男は、あんな馬鹿みたいな笑顔で、駆け寄ってくるのだろう? 私とお前なんて、ただのチームメイトでありクラスメイトでしかないのに、何故ああもさながら無二の親友に三十年ぶりに再会した、みたいな顔で手を振っているのだろう? 私が言うのも何だが、もしかして馬鹿なのだろうか?


 いや犬上が比較的、と言うか絶対的に誰に対しても天真爛漫な人物であることは先刻承知なのだが、そう言えばそのキラキラした四文字熟語が自分に対して発動されたのは初めてかもしれない。


 壮絶な眩しさだ。暑苦しいとさえ言える。


 しかも何故か浴衣に二枚歯の下駄。乳白色の麻生地の浴衣は涼し気で、風流で、恐らく良く似合っているのだが、祭りでもないのに昼間から浴衣とは、これが伊瀬の言う、大物の余裕か。


 「よお、伏見。こんなところで、そんな汗だくになって、何やってんだ? しかも制服って……。新しいトレーニング法か何かか?」


 ――うん。発想がマッチョだ。私もあまり人のことは言えないが、バスケ脳が。これで、学年トップクラスの成績だと言うのだから、世の中は多分間違っている。


 「お前こそ、その恰好は何だ? あれか。新しい重い服か。脱いだら地面にめり込むのか」


 「いやあ、麻だから滅茶苦茶軽いけど。俺は、夏はこれが普段着なんだ。良いぞ? 浴衣。ちゃんと着れば涼しいし」


 「下駄は動きにくいだろ」


 「? 別にそうでもないけどなあ」


 ――不思議そうな顔をされた! 私の感性の方がおかしいのか?


 「って、お前それ」


 犬上は私の足元を指さして言った。


 その方向に視線を落とすと、成程、酷使したローファーの靴底の皮が剥がれて、壊れてしまっている。


 普段愛用しているスニーカーの靴紐が、朝家を出る直前、今日に限って切れてしまっているのを発見して急遽代用した、つまり式典の日でもなければ履かないほとんどお飾りの靴。


 たった一度の全力疾走で壊れてしまうのも当然だ。こんな、如何にも運動に向かない靴でそんな無謀をすれば壊れもする。たった一度、とは言ったがかなりの長距離を私は走ってきたはずなのだ。


 そう言えば、ここはどこだろう。途中いつもの川を横切ったのは覚えているが、私は一体どのくらい走っていたのだろう。


 ――何となく、見覚えがある景色のような気もするけど……。


 田んぼに畑に果樹園に、となれば、やはり川の傍ということになる。私の家の周辺数キロで、農業が盛んな地域は、中央を流れる河川周辺に限られているのだ。


 「犬上、ここはどこだ?」


 「何だ。記憶喪失みたいな台詞だな」


 「……私の記憶は健在だ。さっきまで、呆然自失だったことに間違いはないだろうが」


 「へえ。よく分からんが、ここは学校の近くだぞ?」


 ――学校の近く!?


 川の傍だとは思っていたが、と言うことは私は、八キロ近くも、制服のまま革靴を履いたまま、ほぼダッシュで、走り続けていたということか。


 自分で言うのも何だが、犬みたいな走力だな。どうりで、足が痛い。歩かなければなるまいが、もう一歩も歩きたくない。


 「ついでに言っておくと、うちの近所でもある」


 現在東柳童高校の建っている敷地は、その昔犬上家の私有地だったと言う話を聞いたことがある。何でも、彼の家はこの辺り一帯の大地主だったのだとか。それを考えれば、学校の近所に犬上家の邸宅があるというのも、不思議な話ではない。不思議どころか、妥当だ。


 これも伊瀬から聞いて、最近知ったことだが、学校から数分のところに犬上邸が構えられているというのは、我が校内では有名な話であるらしいのだ。


 「ついて来いよ。うち、すぐだから」


 「何だ? お前は汗だくの女子高生を自宅に連れ込んで、何をする気だ?」


 「何って、そりゃあ、余ってる靴があるだろうから、履き替えてもらおうかと。タオルもあるし、何なら風呂だってあるけど」


 ――真面目に返された。


 「お前は話し甲斐がないな。それでも伊瀬の友達か?」


 「これでも友達だよ。お前もそうだろ?」


 「……ああ。そうだな」


 ――そう言ってしまって良いのだよな?


 「だったら、俺たちも友達ってことに――」


 「それはならない」


 私が、友達と呼べる人間は今のところ、一人しかいない。


 「でも、友達の友達は友達と言うだろ?」


 「馬鹿なことを言うな。友達の友達は、二人きりにされると気まずくなる関係、だろう」


 「はっはっ。お前、伊瀬みたいなことを言うな」


 痛快という風に笑う犬上。


 ――まあ、友達が極端に少ないという点に於いて、私たちは共通している部分があるから、必然、言うことも被ってしまいがちになる。


 それでも私とあいつとでは、全く比べ物にならないのだろうが。


 私はあんな風に、格好良くはない。他人の窮地に現れて、丸ごと救ってしまうなんて、そんなヒーローみたいなこと、私には真似出来ない。


 「何ならうちまでおぶろうか?」


 何でもない事のように、下心などまるでなく、少なくとも感じさせず、犬上は言った。


 やはり感性が違う。伊瀬が天然だと言うのも頷ける。


 「お姫様抱っこではないのか? お前の場合」


 「お姫様抱っこ? 何でお姫様抱っこが出て来るんだ? 俺の場合だと」


 「お前が同級生男子を保健室までお姫様抱っこで運んでいった、という話は有名だぞ?」


 有名と言うより、私は直接の目撃者なのだ。あの光景は中々衝撃的だった。


 本人に言ったことはないが、また言うつもりもないが、二人にはただならぬ関係がある、などという穢らわしいゴシップが、最近一部の女子の間では囁かれていたりするのだ。


 「何でそんな話が有名になるんだろうな」


 「お前はあれか!? 鈍い系の主人公とかなのか?」


 ――ホント、話し甲斐がない。


 いや、これはどうなのだろう。ただ単に私と犬上が合わないだけなのか、それとも私が常識からずれているのか。伊瀬と滞りなく会話出来ているのは、あいつが私に合わせてくれているだけなのだろうか。あの男の、四次元懐に甘えているだけなのだろうか?


 この犬上と仲良くしているということなのだから、あながちその可能性も否定できないな。まあ、私は元々、伊瀬のように自分のことを常識人だとは思っていないが――。


 「で、どうするよ」


 「分かった。お言葉に甘えさせてもらう」


 この靴で帰るのは、流石に体力的にも時間的にも効率が悪すぎる。犬上とは、仲の良い間柄とは言えないが、同じ部活に所属するチームメイトなのだから、靴を借りるくらいのことをしても悪くはないだろう。


 一分ほど歩いたところで、住宅で隠れていた学校が姿を現した。あれの所在が分かっていれば、帰り道は迷うまい。位置的には、私の家と学校の間に、犬上の家があるらしい。


 その噂に名高い犬上邸は、次代当主であるところの犬上祐と出会った地点から、凡そ三分のところに構えられていた。


 ……門に家紋が入っている。


 「実はお前、武士なのか?」


 ――想像以上に武家屋敷だ。池でもあるのか、邸内のどこかから水音まで聞こえてくる。


 「いや。うちは農家の家系だ。江戸時代だかに、所謂豪農って呼ばれるまでにのし上がったらしい。まあ、本家じゃもう全然米なんて作ってないんだけど――。さっ、とっとこ入った入った」


 促されるがまま門を潜る。


 大きな飛び石を渡って、玄関まで十メートルはあっただろうか。家屋自体も立派な日本建築なのだが、敷地が想像を絶して広い。


 ――元豪農は伊達じゃないな。


 「ただいま! ……ちょっと上がって待っててくれ。今余ってる靴探してくるから」


 「ああ。悪いな」


 案内された座敷に腰を下ろす。


 普段は女の子座りだってしないのに、思わず畏まって正座をしてしまった。


 不思議な気分だ。


 ――私はこんなところで何をしているのだろう。知らない家の知らない部屋で、正座をして、せせらぎと草木のさざめきなんて聞きながら、何を? 大した考えもなくほいほい付いてきてしまったが、疲れていたのかな、私は。いやまあ、今だって疲れていることには違いないが……。


 「あら? 可愛いお客さん」


 「わっ」


 突然襖が開いて、女の人が入ってきた。


 肌が白く、すらっとしていて、きりっとした目をした、女の私が何故かドキドキしてしまうほどの、ちょっと見たことがないくらいの美女だった。


 ――お姉さん? だろうか。どことなく、犬上と似ていなくもない気がするが……。


 「お、お邪魔しています。祐君とはクラスメイトで……」


 たすく、で良いんだよな? あいつの名前って……。


 それにしてもこの場合、何て言えば良いんだ? 靴を借りに来た、で伝わるだろうか?


 「もしかしてあなた、伏見空、さん?」


 「えっ? ああ……はい。そうです。私が伏見です」


 この人は魔女なのだろうか? だとしたら納得だ。


 もし、今朝方私の目の前に現れた魔女装束の女と、今目の前にいる犬上の親族らしき女性のどちらかが魔女である、と言われたら、私は迷わず、こちらの女性を魔女だと言うだろう。


 そう思ってしまうほどに、尋常ではなく綺麗だ。


 「どうして、私の名前を?」


 「あなた、バスケ部の子でしょ? 前に一度試合を見学しに行った時に、見たから憶えてたの。ちっちゃくて可愛くて、凄い子がいるなあ、って!」


 「ああ、それはどうも」


 ――こんな綺麗な人が、試合を観にきていたことがあったのか。さぞ会場では浮いたろうな。


 この人には体育館という埃臭い単語自体がまず似合わない。多分、いるだけで周囲の人間がざわつき出すような、そういうレベルでの美人なのだ。


 そんな人に可愛いとか言われても、挨拶に困る。


 「あらやだ。あの子ったら、お茶も出さずに女の子を一人にして」


 ――あの子、だと? いやいや。まさかまさか。そんな歳には到底見えない。この人が、私の同級生の母親だなんて、そんな話があったら、きっとどこかで次元の歪みが発生している。


 そうだ。姉が弟のことを、あの子、と呼ぶことだってなくはない。私のような庶民ならまだしも、相手は良い所のお嬢さん、なのだ。これは、ちょっとした文化のギャップなのだろう。


 「失礼ですが、その、あなたは犬上……、じゃなくて祐さんの、お姉さん、であられますか?」


 ――合っているのか、私の日本語??


 「お姉さんだなんて、謙遜が上手いのね。祐の母です。いつも息子がお世話になっています」


 しとやかな笑顔というものを、私は生まれて初めて見た。気品というものを、私は生まれて初めて体感した。本物というのは、きっとこういう人のことを指して言うのだ。


 しかしどういうことだ? これで人妻、しかも子持ちだと? 信じられん。


 「う、嘘か!?」


 ――消滅しろ! 私の口!


 どうしてこう私は、歯止めが利かないのだろう。


 「嘘だなんて、気を遣わなくて良いのに」


 「いや、決してそういうわけでは」


 そもそも私に、人に気を遣う能力などない。本心が口を突いて出てきただけなのだ。


 ――それにしても、この人は、自分の美しさに無自覚なのだろうか? そんな馬鹿げたことがあり得るか? この美貌だぞ?


 いや、わざとらしいとか、嫌みったらしいところなんて、全くありはしないのだが……。


 それにこの人は、犬上祐の母親なのだ。伊瀬は犬上のことを、純粋な天然と評していたが、その母親だというこの女性も、同じ性質を持っているということなのだろうか。


 ――だとしたら、恐ろしいな。天然というやつは。犬上の人たらしも、この母親譲りか。


 「あなた、すごい汗ね。今日は暑いから、外は大変だったでしょう。今、冷たいお茶でも淹れてくるわ」


 「いえ。お構いなく。すみません、こんな汚らしい格好で」


 今更ながら、自分が酷く不釣り合いな場所にいると、痛切に思った。


 「良いの良いの。女の子の汗なんて汚くとも何ともないわ。うちは、女は私だけだから、久々に、それもこんなに可愛い子が遊びに来てくれて、私は嬉しいと思っているのよ?」


 「はあ」


 その嬉しさは何となく、見ていても伝わってくる。


 ――そんなに女子成分が足りていないのだろうか? いや、私にはそんな成分は含有されていないのだから、期待されてもがっかりさせるだけなのでは……。


 「ああ、そうだ! 今、お風呂のお湯を張ったところだから、もし良かったらどうお? ね? そうしましょ。着替えは私が用意するから! ほらほら、立って、立って!」


 「えっ、えっ……」


 手を取られてしまった。立たされてしまった。


 これはあれか。遠回しに、汚いから風呂へ入れ、とそういうことなのか?


 ――いかん。伊瀬的被害妄想癖が移りかけている!


 何だこの人は。綺麗なだけかと思っていたが、強烈だ。重ね重ね言うようだが、一児の母とは思えない。尋常ではない色気なのに、言動がどこか少女染みている――。


 犬上母が、私の汗でびっしょりになった背中を、そんなことには構いもせずに押して押して、長い廊下の奥へと移動させられる。


 「ほら、ほら」


 なんて、楽しそうに、友達にでもするかのように。或いは、自分の娘にでもするかのように……。


 ――ああ、逆らえないとも。最早私は、なされるがままだ。


 私はこの手の人物と、相対したことがない。こんな一瞬で間合いを詰められるなんて、前代未聞だ。対人能力の極端に低い私では、この人懐こさには、とても対処しきれない。


 何たる超展開! 私はきっとこのまま、ただのクラスメイトの男の家で裸になって、風呂に入れられてしまうのだ。こんなことが起こるなんて、誰が予想出来ただろう……。


 あっという間に、脱衣所へ着いた。予想に違わず、一般家庭のものとは思えない、広い脱衣所、そして広い浴室である。


 「着替えは後から持ってくるから、ゆっくり浸かってちょうだい? うちはお風呂だけが自慢だから」


 もう、逆らえなかった。犬上母の何かバイタリティー的なものに気圧されて、圧倒されて、為す術もなく、私はいよいよ、服を脱いだ。


 ――うわあ、私。真昼間から人の家で全裸になってるよ……。ちょっと意味不明だ。


 「――私は、何を間違えたのだろう。……人生、とかだろうか?」


 だとすれば、諦めもつくが――。


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