<參´>
あの底知れない少女の助言を真に受けて、私は急ぎ自転車を駆った。
この時間、正確には午前七時四十分を過ぎると、あの立派な一軒家には誰もいなくなる。両親は共働きなのだ。
――家族だっていやしない。
見え透いたようなことを言ってくれる。そんな分かり切ったことを今更言われたところで、別に何も感じない。
――知っているさ、そんなことは。
私の両親は、親であるからと言って、私の家族ではない。
両親。間違いなく、あの人たちは、法律上、社会的に私の父親であり、母親であり、保護者だ。子供の私を扶養し、所詮子供でしかない私の学生生活を支援してくれている。
でも、家族じゃない。
家族ではないのだ。父親こそ血の繋がりがあるが、今の母親と私とには生物学的な繋がりはない。生物学的な繋がりも、それ以外の繋がりも、何もない。ただ一緒に暮らしているというだけだ。
生みの母親、実の母と呼ぶべき人も、六年前、父と別れた際、一人娘の親権を主張することはなかった。
当時小学四年生だった私にも、何が起こったのかは分かった。両親が離婚した場合、子供の親権はほとんどのケースで母親に帰属するという事実を、その頃の私は既に知っていたのである――。
凡そ一年の間、私には父親しかいなかった。私の家族は父親だけで、また父にとっての家族も私だけだった。その一年だけは。
一年経って、父は、新しい母親だという人を連れてきた。父とは五歳も歳の離れた、若く美しい女性である。
初めて会った時、一目見てとても良い人なのだろうと思ったのを何故だか未だに憶えている。
私とは違って、優しくて、おっとりしていて、女性らしくて、綺麗で、如何にも人の良さそうな女の人。そんな印象だった。そして彼女は、印象通りの人だった。
間もなくして、私に二人目の母親が出来た。
その頃からだろうか。あんなに優しかった父親が、どこか冷めたような態度で、私に接するようになったのは。
いや、父が悪いかのように言ってしまったが、そもそもの原因は私にあるのだ。
私はあの人、新しい母親に懐かなかった。どころか、いつも周囲の人間にしているのと同じように、無遠慮に、不躾に、思ったことばかりを口にした。子供らしく甘えることもせず、きっと笑うことだってしなかったはずだ。自分ではきつく当たったつもりはなかったが、私は無意識に人を傷付けるような、質の悪い女だった。
そうしていつしかあの人は、私のことを怯えた目つきで見るようになった。新しい母親は確かに優しくしてくれたが、それは多分、私の機嫌を損ねないための優しさだった。
父はそんなか弱いあの人の味方をした。再婚をしてから、父にとっての一番は、私ではなく、あの女の人になったのだ。
一番とそうでない者の間には、無限の隔たりがある。一番でなければ、二者択一の、例えば、私と母、どちらかが死ねばどちらかが助かる状況で、選ばれないということなのだから。
あの人のためならば、父は私を見殺しにする。極論だが、それが私たちの関係の全てだ――。
両親は私のいないところでは、いつも楽し気に会話をしている。私のいるところで、彼らが団欒しているところを、私は見たことがない。私の周りはいつだって、お通夜か何かのように、静かだ。一家団欒の、私はいつも蚊帳の外だ。
彼らは両親であっても家族ではない。私の家は、私の住居であっても、居場所ではない。
あれからずっと、今に至るまで――。
何か暴力を受けたとか、育児放棄されたとか、虐待を受けたとか、具体的に被害を受けたことは断じてない。誤解のないように言っておくが、私の両親は善良な人間なのである。社会的責任は、きちんと果たす人たちだ。だから、私は大好きになったバスケットボールを今でも続けられている。
だから、感謝こそすれ、彼らを恨んだことなど、一度だってありはしない。だって私は、恨むまいとずっと思い続けてきたのだから。
ここまで立派に……かは分からないが、大きく……もないのだが、とにかく育ててもらったのだから、恨むなんて筋違いだ。そんな恩を仇で返すようなことが、出来るものか。それはいくら何でも我が儘が過ぎるというものだ。自分本位にも程がある。
家族にはなってくれなかったかもしれないが、彼らは私のために、今の私では想像もできないような大金を手配し、使ってくれている。それだけで十分有り難いことだ。
それだけで私は十分に、幸せだったのだ。六年もすれば、新しい生活も当たり前の日常になっていた。
崩した言い方をすれば、ぶっちゃけもう慣れた、のである。
二人が別れてから六年も経っているのだ。元々の両親が仲良くやっていた頃の記憶なんてものも、とっくに摩耗しきっている。思い出でるものも最早何もない。
昔はストレスを感じていたかもしれないが、いつの間にか、私は大丈夫になっていたのだ。自分は大丈夫だと、いつしか思うようになっていたのである――。
――ん? 何やら人だかりが……。
私の家の周辺に、人だかりが出来ている。
――それに、あれは……。
消防と警察。パトカーと消防車が、狭い住宅街の路地を、ほとんど占領している。
視線を移すと制服を着た警察官が、これもまた制服を着た消防士風の男と、指をさしながら何か話をしていた――。
そして私は目撃した。
指をさされていたのは、二階建ての、家。私の住む、そしてあの善良な両親も居住している、一軒家。
その、私にとっては馴染み深いとは言えない家の一部、二回の西側の一角が、焼け焦げていた。真っ黒に、狙いすましたかのように……。
――あそこは、寝室だ。父と、あの人の……。何が、どうして……。
化学物質の焦げた臭いが鼻を衝く。外壁を焦がした何かは、内側の材木部分にまで達したようである――。
呆然となった。自分の住む家のことなのに、どこか他人事のような気がして、現実のことではない、絵空事のようにも思えて私は立ち尽くした。
――まさか、こんなことに。
私の姿をしたあの女は『始まった』と言った。『ワタシは始まった』と。
彼女が始めたのは、一体何だ? これがその、始まりなのか?
「ああ! 空ちゃん! 出掛けててよかったわ」
お節介そうな、笑い皺の深い中年の女性が私の姿を見つけて、心底安心した様子で駆け寄ってくる。
一体誰だろう。
「……ああ、お隣の……」
――何さんだったっけ?
まあ良い。
「おばさん。これは何が……」
「雷よ。雷。ゲリラ雷雨って言うのかしら? 凄い音だったんだから」
「雷」
朝の遠雷が、ここまで来たのか。
そうして我が家に落ちた。火事になっていないのは、激しく降っていたという雨のお蔭なのだろう。不幸中の幸いだ。
――偶然? 住宅街の中の、よりによってこの家に、私があれに遭遇した今日という日に……?
「……そうだ、両親に」
上の空で、私はふと呟いた。
両親に知らせなければ。ここは、あの人たちの家だ。
「ああ、大丈夫よお。さっきおばさんが連絡しておいたから、お母さんがじきに来ると思うわ」
「そう、ですか。わざわざありがとうございます」
条件反射的に私はお礼の言葉を述べる。
親切な隣人に対して、心から感謝を述べるような余裕が、私にはなかったのである。
それには勿論自分の住まう家に雷が落ちたということへのショックもあっただろう。しかし、何よりも、私と同じ姿をした、あの不気味で虚ろ気な女の顔が頭の中でちらついたのである。
因果を勝手に決めつけるなと、先ほど見ず知らずの魔女に指摘されたばかりだが、関連性がないのかと、どうしようもなく私は疑った。
音の、雑音の輪郭がぼけていく。
――ああ、駄目だ。頭が働かない。野次馬の雑踏で酔いそうだ。
何て軟弱なメンタル。
――だからフリースローが入らないんだ!
「――それで、空ちゃん。もし良かったらだけど、お母さんが来るまで――」
――おばさんが何か言っている。
挨拶くらいしかしたことがないけど、この人は私の名前を知っているんだよな。私のことを空ちゃんと呼ぶ。そんな呼ばれ方、されたことなかったな。
「……ええ……あー……」
雑多に集まった群衆が目に入る。多くは近所に住んでいる人々だろう。時間柄、主婦や、夏休みに入った子供たちが多い。
余程暇なのか、余程この町が平和なのか、カンカン照りの酷暑の中、ご苦労なことである。人数で言えば、どれくらいだろう。三十人はいるだろうか。この辺りにもこれだけの人間がいたのか。――なんて、住宅街なのだから、当たり前か……。
人混みから視線を滑らせる。焼け焦げた自宅を見て、もう一度群衆へ――。
「――っ!」
停滞していた脳みそが、活動を急激に再開する。
途端、私は降りていた自転車と、バッシュと着替えの入った荷物を放っぽりだして、一気に全速力になって駆け出した。
「ちょっと、空ちゃん! どうしたの!?」
――おばさんの慌てた声が遠ざかる。
「ごめんなさい! 自転車をお願いします!」
私は走った。
人混みの中に見つけた私を追って。あの、異形を身の一部に宿した、いや、異形そのものと思しき何かを、追い掛けて――。
走るのは得意だ。走り続けるのだけは得意だ。その能力だけでは、他の誰にも負けない。負けたくない。たとえ相手が私自身でも、これは、他の全てを捨てて獲得した、私の唯一の武器なのだから。
すべきことが分かっていれば、私はきっと、永遠にでも走っていられる。
私は馬鹿で、単細胞で、でも、そんな私をあいつは認めてくれていたのだ――。
野次馬の群れを切り裂いて、私は走った。
逃げ水のように追うほどに遠ざかる女を、酷い熱射と酷い熱風を全身に受けながら、私はそれでも追い続けた――。
制服は走りにくい。こんなことになるのなら運動靴を履いて帰れば良かった。さっきまで、部活をやっていたのだから、体はもう疲れ切っている。毎日の練習で疲労も溜まっているはずだ。このまま走れば倒れてしまうかもしれない。いくら追っても、追い付かないかもしれない。相手は人間ではない。勝ち目があるとは思えない。
――だから何だ!!
ここで追わなければ、またしても手掛かりを失う。ここで諦めたら、私は私でなくなってしまう。あいつが尊いと言ってくれた私は、今度こそ、消滅してしまう。
諦めてなるものか。負けてなるものか。
――変わるのだろう? 私は!!
「何故逃げる?!」
走り続け、追い続け、とうとう五メートルの距離に迫った時、汗も枯れようかというそんな時、女は私の息も絶え絶えな問い掛けに、いよいよ足を止めた。
――やっと、追い付いた。
『あなたは何故、ワタシを追うの?』
膝に手を付いて、ぜえぜえ言って、肺の中にぬるい空気を貪欲に取り込む。
――足の裏が燃えてしまいそうで、暑くて、苦しくて、意識が途絶えそうだ。視界が暗い。冷えた水が飲みたい。
「聞いているのは、……私の、方だ。お前は何だ。……この前のことと、何か関係があるのか」
――どうしてあの場所にいた。私の住む家に、何をしたのだ。お前は何を、始めたのだ。
聞きたいことならば、いくらでもある。
『ワタシはただ、消えたくなかっただけ』
消えたくなかった?
「それは……、お前は、私が願った神、なのか」
魔女は願った。残酷に冷徹に、私が貶めたあの神に対して、消えてくれ、と。
――消えたくなかった、というのはその願いを受けて、ということなのか? 神がそんなことを、果たして考えるものか?
『正確には違う。ワタシは神の亡霊とでも言うべき、成れの果て。実体から追い出され、本来の依代たる祠にも戻れなかったワタシは、嘗ての力のほとんどを失っている』
――実体とは、私の体。戻れなかったというのは、つまりあの魔女に願われたことで、消えてくれと、お願いされたことで、戻れなくなったということだろうか。
肉体を失い、依代を失い、しかしそれでも諦めきれずに、消えることを受け入れられずに、力のほとんどを手放しながら、自らを成れの果てと呼ぶこの存在は、私の前に現れた。
そういうことなのか?
――実体を持っているというのは、それだけで強力なのだと、以前伊瀬は私に対して、戒める様に言った。実体を手放すということは、それだけで過ちなのだと。
そして、一度実体を得た存在は、たとえそれが非物質的なものに退化したとしても、強力さの一部を引き継ぐのだとも言った。或いは、人が神になることで、より強靭になることもある、と。
事実、私の場合がそうだった。学校中で噂された願いを叶える祠。その微弱で広大な信仰に、元人間の私の精神が重なったことによって、事態はあれほどまでに重篤化した。実体を持つ人間であるところの伊瀬丙が、体に穴を空けられてしまうほどの事態にまで発展したのである。
だとすれば、ほんの一時期とは言え、人間である私の体の中に入り、実体を手にしていた祠の主が、信仰を失って尚顕現し、この世に対する影響力を保ち続けているのだとしても、不思議ではないのではないか。
『人間はいつも勝手をする。都合の良いように、ワタシたちを利用する。こんなことを――否。何かを思うことさえ、神としても、その成れの果てとしても異常なのだろうが、一度生身の人間になってしまったワタシは、思わずにはいられない』
――消えたくないと、願わずにはいられない。
神でありながら、叶える立場でありながら、人間のように、少女はそう願う。
朝出遭った時よりもずっと、女の輪郭ははっきりとしていた。言葉を重ねる度に、まるで存在を強化していっているような、そんな気さえした――。
この亡霊を、亡霊の姿にしてしまったのは、私だ。神でもない、ましてや人ですらない、何でもない何かに追いやったのは、他の誰でもなく、私なのだ。
人間になった神様は、人間の味を知ってしまった。人間でいることの素晴らしさを、実感してしまった。だから、消えてくれ、という魔女の願いに、正しい形で応えられなかった。消え去ることを拒絶した。か弱く、中途半端で、神の亡霊などというとんでもなく不安定な存在に、成り下がってまで……。
「これは私への復讐、なのか?」
勝手に願い、居場所を奪った、私への。
『復讐? そうか。あなたがそう言うのならそうなのだろう。これは復讐。あなたがそう願う限り、その通り』
わけのわからない文句を言い残して、またしても女は突然に、極小の粒となって、姿を晦ませた。
「……どうして」
――それが出来るのなら、どうして初めからそうしなかった? わざわざ私を追い掛けさせ、言葉を交わすようなことを?
それも復讐の一部なのか? 或いはただ暴走しているだけなのか。いづれにせよ、発端は私にある。
とにかく一度帰らなければ。焼け焦げた自宅を放置するわけにもいかないし、薄い望みだが、そこに何かヒントが残されていないとも限らない。今朝と同じで、私には他に行く当てがないのである――。
「おーい! 伏見ぃー!」
自宅に戻ろうかと一歩踏み出そうとした時、後ろから私を呼ぶ声がした。
道端で、大声をあげて他ならぬ私を呼ぶ能天気な人間など、あの学校には二人しかいない。