<壹´>
蜩ひぐらしの鳴く声が黎明の街に響いていた。
「行ってきます」
返事なんてあるはずもないのに、私が微かな声で呟くのは、昔の習慣が未だに抜けないだけなのだろう。
――いい加減、空しくもない。
朝の静寂に包まれた、まだ太陽も昇っていない街を自転車で走る。どれも似たような造りをした家々を横目で眺めながら、さも颯爽と、さも気分でも良いかのように――。
練習時間にはまだかなり早いが、家にいても仕方がない。この時間ならば、真夏の嫌になる暑さも避けられるというものだ――。
ゴロゴロと、遠雷が聞こえる。見ると西の空は確かに暗い。雨の前の独特の、あの化学物質の匂いも立ち込めてきている。
じきにこちらにも来るだろうか。傘は持ってきていないが、恐らくは夏の嵐だ。ぶつかっても、どこかに宿っていれば通り過ぎてくれるだろう――。
――部活が終わる迄には上がるか。
今日は他の部との兼ね合いで、本来体育館が取れない日だったのだが、顧問が強引に早朝だけでもと練習の予定を組んだため、午前九時で解散である。
終わったらまた、あいつに会いに行ける。――なんて、神聖なるバスケの練習を頑張る動機としては、些か不純だろうか。
まあ、それを言うなら私がバスケットボールを始めた理由だって思い切り不純である。
勿論バスケというスポーツが大好きだという気持ちに偽りはない。だけど、私がここまで必死になって走ってこられたのは、そうして競技を好きになれたのは、これもまた偽りなく、間違いなく、承認への悍まし欲求があったからなのである。
人間の価値は、自分ではない、他の誰かが決めるものだ。他人からの、例えば、たった一人の友人からの評価で、承認で、人の価値は決まる。
――承認欲求。自己顕示欲。欲求不満。
私はそれを恥ずかしいと思う。その欲求を憚りもなく剥き出しにする人間を軽蔑し、憎悪を覚えたことすらある。だって、認められたいなんて、自分が今、認められていないと白状するようなものではないか。自分は価値のない人間だと、公言するようなものではないか。それを何故、簡単に曝け出せてしまえるのか。私には理解できない――。
私が遮二無二走るモチベーションとなっていた、沼のように暗く深い欲望は、親切なクラスメイトに拒絶されたことによって、伊瀬丙にこっ酷く叱られたことによって、すっかり満たされてしまった。
だから、七月の事があってからと、それより前とでは、私の部活動に取り組む姿勢は、外面上そうは見えないかもしれないが、実際は全くと言って良いほどに変わっている。
あれから凡そ一か月。私にとってのバスケは、人と、……いや、特定の個人との繋がりを保つためのツールに成り下がってしまった。
全く、私という人間は、本当に単細胞で出来ているのではないだろうか。
――アメーバとか、ミカヅキモみたいな……。
ちょろい女とは言ったが、冗談にもならない。
馬鹿で、単純で、愚かな自分。
それでも、彼のしてくれたことを思えば、私は生きて行ける――。
川沿いのサイクリングロード。川の流れとは反対に、自転車を漕ぐ。上流で雨でも降ったのか、脇を流れる一級河川の水嵩はいつもより高く、濁りが混じっている。
岩燕の群れが低空を滑るように飛んでいた。
後方の地平線からじりじりと朝陽が昇って、背中を焼く。まだ早朝だと言うのに、夏の太陽は凶暴である。たった数キロ自転車を走らせただけで、じっとりとした汗が湧いてくる。午前九時にもなれば、もっと酷いことになるだろう。
部活で全身の水分を絞り出すように動きまくって、その後はまた太陽に焼かれて、汗みどろになりながら帰宅しなければならない。
――その頃には、伊瀬も起きているだろうか。二人暮らしで、あいつの方が食事係ということらしいから、流石に起きているか。
あの男の、あの可愛らしい家族は朝から良く食べるのだそうだ。
――そう言えばついこの間、同居人のお腹の鳴る音で目が覚めた、という話を聞かされたっけ。
私の友人は、恐らく私が友人と呼んで良いたった一人の男は、一人の竜と暮らしている。俄かには信じ難い話だが、信頼すべきあいつが言うのだからそうなのだ。疑いの余地はない。
伊瀬丙。高校二年生にして夢の同棲生活である。その相手は竜とは言え、見た目には愛くるしい少女。馬鹿に正義感の強いあの男のことだから、さぞ身悶えしていることだろう。
私が如き色気の欠片もない女子高生の夏服姿を、いやらしい目で見るくらいなのだから、いくら常識人で人格者であるところの伊瀬だって、やはりそこは御多分に漏れず一匹の雄なのだ。
「良いな――」
ふとそんな声が漏れた。
――いや、何が良いんだ!?
何に対しての良いな、だったのだろう。誰に対して、だったのだろう。
一人で吹き出してしまった。幸いこの時間、目撃者はいないだろうが――。
学校まで数百メートルまで迫ったところで、自転車を停めて、土手へ下る階段の真ん中あたりに腰を掛けた。先生が出勤してくるまでの時間潰しである。門の鍵は閉まっているので、部室は勿論、学校の敷地内に入ることも今は出来ない。
お尻はまだ冷たいが、赤みの強かった太陽の光も、次第次第に色を失って、痛いくらいに強くなる。
ぬるい風が吹いて緑の葦原が揺れた――。
時間潰し、と言っても特に何をするでもない。仄かに冷たいコンクリートにお尻を付けて、川を眺めたり、石を投げたり、飛んでくる鳥を観察してみたり、時には立ってスクワットでもして、本当にただただ時間が経過するのを待つのである。強いて言いうならば、ぼうっとする時間だ。
呆然とする時間。何も考えない時間。或いは考え事をする時間。
至福とは言えないが、嫌いではない日課である。まあ、嫌いならば日課になどならない、という話なのだろうが――。
先日のことを思い出しながら時間が過ぎるのを待った。
初めて彼の住むアパートの一室にお邪魔し、勉強をしたり、馬鹿な話をしたり、お昼をご馳走になったり……。
二人は本当に仲が良さそうに見えた。喧嘩、と言うか、言い争いになることもあるそうだが、それはお互いを信頼している証なのだろうと思う。嫌いなところがあっても、愛している、とか。多分そんな感じだ。
――分からないけど……。
彼らは家族なのだ。言葉以上に、あの幸福な光景には有無を言わせぬ説得力があった。血が繋がっていなくとも、たとえ種族が違っても、一緒に暮らして、食べて寝て笑って、相手が悲しければ自分も悲しくなる。きっと、そうして彼らは家族になったのである。
言葉にするとどうしても軽くなってしまうが、あの二人は特別な絆で結ばれている。
どうしてそんなことが出来るのか、私には分からない。あいつが優しい奴だからだろうか。あいつはどうして、竜と暮らすようになって、特別に思うようになったのだろうか。
――今度聞いてみるか。
家族の定義とは何だろうと、私はこれまで幾度となく繰り返してきた疑問について、再び考える。彼らの生活の片鱗を垣間見て、考えずにはいられなくなった、と言うより、無意識のうちに考えてしまっていたのである。
同じ家に住んでいるからと言って家族であるとは限らない。それは私が誰よりも良く知っていることだ。
血が繋がっていないからと言って、必ずしも家族でないということにはならない。それは彼らが証明してくれたことだ。
では家族とは何なのだろう?
美談として、血の繋がりのない親子がそれを知って尚愛情を育むという話が、しばしば語られるが、そんなもの、そんな幸運は一体、全体の何割を占めているのだろう。互いを愛することも出来ずに、それでも何らかの決まりや制約によって生活を共にしている、謂わば体裁だけの家族が、世の中にはどれだけいるだろう。
法律にだって、家族というものの明確な定義など記されていないのだ。私はそんな曖昧なものによって縛られ、守られている――。
何にせよ、こうして自分以外のことについて考えるのは久しぶりだった。もしかしたら初めてかもしれない。この前のことがあるまでは、そんな無駄な行為はしなかった。人のことを思うくらいなら、私は外に出て、何も考えず、猪突猛進に走っていた。
猪突猛進。それは私のプレースタイルそのままで、多分私の性格そのままで、コンプレックスそのものだ。
目標のために、私は走ることしかしなかった。それ以外の方法を、考えようともしなかった。
努力している振りをして、本当は怠けていたのだ。苦手なことから、全速力で逃避していた。
それを変えなければと、私はあの日、あの男に痛切に思わされたのである――。
腰を下ろして十分ほどが経過した頃だろうか。掌にぽとりと一粒、雨が落ちて、上空を見上げた。
――まだ明るい。
空を仰ぎ見る途中で視界に入ったのか、私はそこで気が付いた。
――対岸に、人がいる。
どこかから歩いてきて、その位置で足を止めたのではない。対岸の、そう遠くない距離にずっといたのにも拘らず、私の方が彼女を見落としていたのである。十分もの間、私は彼女の存在を全く感知していなかった。そして唐突に発見した。
人がいる、と。
この早朝に人がいる、ということ自体はさして珍しいことではない。この川沿いの通学路はサイクリングロードであると同時に、近所の人々のランニングコースにもなっているのだ。早朝から熱心に取り組む、中高年層の数は、多いとは言えないが決して少なくもない。
――しかし、あれは……。
私は対岸に佇む女性を凝視した。どこか懐かしいような感じがして、何か見たことのあるような気がして――。
「あっ」
そして、息を呑んだ。
――私だった。
対岸に立って私と同じ制服を着て、私と同じようにこちらを眺めているのは、私だったのである。
私が毎日鏡の中で見る私。写真の中で見る私。見たことがあるどころの話ではない。私が発見したのは、私自身だ。
世の中には、自分と同じ顔をした人間が三人いる、と言う。
――ドッペルゲンガー。
まさにそれである。似ているどうこうの話ではない。疑問を挟む余地など微塵もなく、どう見ても私なのだ。存在が丸々私なのである。
似ているのではなく、同じ。それは同等ということだ。
「……えっ、えっと……」
言うことが決まっていたわけではなかったが、取り敢えずどうにか声だけを出した。出してみてから考えて、それからまた気付く。
気付くのが遅すぎるくらいだった。自分と同じ顔をした人間が現れたということに気を取られて、私はあり得ない見落としをしていた。
――あれは人間ではない。
異質な存在感からそう思ったのではない。私と彼女では二か所だけ違うところがあるのだ。それ以外の全てが同じだが、そのたった二か所の違いが決定的だった。
彼女には、人間の物ではない耳が生えている。
そして、人間にはない、尻尾が、それも二本、生えていて、動いていて、だから生きている。
動物のものと思しき、白い耳と尾。
何の動物かと逡巡した。そうしてすぐに思い当たった。
――そうあれは、狐の耳と尾だ。
動揺はしたが、不思議とパニックにはならなかった。私はこれでも、一度は神様にまで上り詰めた女なのだ。威張って言うようなことではないし、恥ずべきことでもあるが、その経験は伊達ではない。
――世の中には不思議がある。
私をその不思議なものから引き剥がしてくれた彼は、嘗てそう言った。
私が地位を奪い、力を奪った神は、恐らく元々稲荷神と呼ばれていた神様である。そして狐はその御先、神の遣いと言われている。
私は足を踏み出す。こういう時に尻込みしないのは、取り柄と言うべきか、愚かしいと言うべきか、とにかく私は階段を下って、精気のまるで感じられない女のもとへと近づいた。手を伸ばして、追い縋るようにである。
「お前は――」
――お前は何だ? どうして私の前に現れた? 何をするつもりだ? もう、終わったはずだろう?
あれはもう、終わった話だろう。
『――ワタシは終わってなどいない。ワタシは、始まった』
私の声で、女は言った。酷く小さな、囁きのような声だったが、対岸にいる私のところまで、その声は不思議に届いた。
そして背を向けて、私とは似ても似つかない優雅な動作で、消え入るような静けさで、階段を上る。
彼女は私の前から去ろうとしている。
「待てっ!」
静寂の朝に、自分でも吃驚するくらいの大きな声が響く。
脇目も降らず駆け寄った。
恐ろしいとは思わない。だって彼女は、ちっぽけな私の姿をしているのだから。私の姿をしているということは、彼女は私に、関係しているということなのだから。
七月の終わりにあったことは、まだ決着していなかったのではないか。あの、私だけが加害者で、私こそが犯人の事件は、今以て継続しているのではないか。
怖くはなかったが、そんな不安はすぐさま過った。
だから私は確認しようとしたのだ。正体を暴かなければならないと――。
「待ってくれ!」
しかし、そんな私を一瞥もせず、現れた時と同じように、女は姿を、まさしく消した。
忽然と、初めからいなかったかのように、霧のように消えたのである。一時も、一瞬でも、目を離したことなどなかったのに――。
気付くと私は両足を増水した河川に浸けていた。
膝のあたりを濡らす濁流に、足を掬われそうになって、ようやく我に返る。
――晴天に雨が降っている。
女の姿は最早、影も形もない。
「狐に化かされた、のか……?」