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コタローの気配を追ってオレ様は、奴の家に辿り着いた。掘っ立て小屋のような粗末な家だった。震度3の地震でもきたらひとたまりもないのだ。ななめに傾いた古い表札には『秦』と書いてある。
「じゃあ、母さん行ってくるから」
たてつけの悪い玄関の引き戸がガタガタと言いながら開いた。
コタローだ。
「どうしてここにいる?」
さっきとは全然違う低い声で、コタローはオレ様をにらみつけた。
「何も知らないから、知りに来たのだ」
「ずいぶんと姉さん想いなんだな」
抑揚のないセリフを吐き捨てる。
「どうしたの、虎太郎?」
奥からやさしい女の声がする。声の感じからいって母親なのだ。
「いや、何でもないよ」
コタローは引き戸を閉めると、オレ様の首根っこをつかんで走った。オレ様はネコではないのだ。
家から離れると、コタローは路地にオレ様を降ろす。
「どういうつもりなんだよ?」
「つもりはないのだ。オレ様はコタローのことを知りに来ただけだと言っているのだ」
「知ってどうする? 尊酉に教えるのか?」
「そうだ。綾女は不本意だが貴様のことを好いている。貴様がどういう人間なのかを知ればあきらめもつくだろう」
それまで無表情だったコタローの顔に変化が現れる。
「バカバカしいな。俺はバイトがあるんだ。お前たち姉弟に関わっているヒマはないんだよ」
コタローは無視してさっさとバイトへ行こうとする。
「また逃げるつもりなのか?」
コタローは振り向かない。そっちがそうくるなら、オレ様は卑怯だがこのテでいかせてもらうことにするのだ。
絵を描かなくなったはずのコタローが白鳥公園で絵を描いていた理由。答えは簡単だ。
「貴様は毎日綾女があの公園でスケッチをするのを知っていたのだ。綾女と話すチャンスがほしかったのだ。だが、貴様は逃げた」
「…………」
コタローの足が止まった。が、まだ振り向かない。最後まで言わせるつもりなのか。
「絵描きの夢を捨てたはずだった貴様の夢は、綾女と……」
「だまれっ!」
オレ様の言葉はコタローの声にかき消された。
「言ったはずだ。何も知らないくせに勝手に決めつけるなと」
結局、コタローは振り向かず走っていってしまった。
逆効果だったようなのだ。ま、おかげで、コタローの手からまたあいつの思いが伝わってきたから良しとするのだ。
オレ様は急いで綾女のいる白鳥公園に戻った。
綾女はベンチに座ってまだ泣いていた。あれから一時間は経っているはずなのだ。よくそんなに涙が出るものだ。
「綾女、もう泣くのはやめるのだ」
「天ちゃん」
オレ様の顔を見た綾女は拍車がかかってますますひどく泣き始めた。
「オレ様がコタローのことを調べてきたから泣くのはやめるのだ」
「ホントに?」
滝のように流れ落ちていた綾女の涙がピタッと止まる。現金なものだ。
「コタローは父親のような画家を目指していたらしいのだが、父親の死によって世間の厳しさを思い知らされたのだ。父親のように夢だけを追っていれば母親に苦労をかけることになる。奨学金制度の一流大学へ行けば一流商社へ入社することもできる。そうすれば、給料もたくさんもらえて母親を楽させてやることができると思っているのだ」
コタローは世の中お金と学歴がすべてだと思い込んでしまっているのだ。
「せっかく才能があるのに、もったいないよ。それにセンパイは夢を捨てたりできる人じゃないもん」
コタローは一度捨てたはずの夢を綾女によって再びよみがえらせてしまったのだ。だが、今は綾女には言えないのだ。
「綾女、もう一度センパイに会う!」
「会ってどうするつもりなのだ?」
「そんなの決まってるじゃない」
「綾女の気持ちもわかる。しかし、コタローの気持ちも考えてやるのだ」
行けばまた同じことの繰り返しなのだ。
「好きなものをやめなければならなかったのだ。オレ様たちが口を出すことではないのだ」
今の綾女には酷かもしれないが、少し様子を見た方がいいのだ。
「陽も暮れてきた。家に帰るのだ」
「いやよ。言ったでしょう。お母さんが画廊壊すのをやめるって言ってくれるまでは帰らないって」
忘れてるかと思っていたのに、ちゃっかり覚えていたのだ。こうと決めたらけっして曲げたりしない。そこが綾女の長所であり、短所でもある。
「こんな時におじいちゃんのベルがあったら綾女いっぱいいっぱいお願いするのになぁ。あのベルだってお母さんが去年のクリスマスに綾女に無断で捨てちゃってさ。ホント、身勝手なんだから」
綾女は頬をぷぅと膨らませる。
繁政が幼い頃、アメリカの兵隊にもらったというキラキラと金色に輝くベル。繁政はこのベルに一流の画家になりたいとずっと願っていたらしい。そして、その夢が叶った繁政はそのベルを『願いが叶うベル』として、綾女にプレゼントしたのだ。その頃にはメッキ
の剥がれて錆びたベルになっていたが、綾女はすごく喜んだのだ。それからは毎年クリスマスツリーに飾っては綾女は何やら願い事をしていた。しかし、それを去年祐子が過って捨ててしまったのだ。すぐに探しに行ったのだが見つからなくて、あの時も泣き喚く綾女をなだめるのに苦労したのだ。
結局オレ様はまた綾女のひとりっきりの反抗につき合うはめになったのだった。
この時、綾女の命が危険にさらされることになるとはオレ様も思ってもみなかったのだ。




