死体
嫌な予感というのは当たるものだ。小さい不幸もなくならない。言うなら痛かった。
・・・物理的に。
「あはは、優はドンくさいなー」
うるせぇ、黙れ。
「まあ確かに扉を開けて進んだ一歩目にガレキが落ちているなんて思いませんからね」
犬子さんはそう言ってくれたものの、その唇はどこか笑っていた。くそ、どうしてくれようか。
「お兄ちゃんだいじょーぶ?」
ああ、渚ちゃんは優しいねぇ。
「・・・手、出したらコロスよ?」
さらっと殺気こめて言うな。大体優しいと言っただけでロリコン予備軍扱いするんじゃねぇ。
とはいえ痛みは引いてきた。まあその原因としては犬子さんの言ったとおり、落ちていたガレキに脛を強打したのだ。普段なら気づいたかもしれないけど薄暗く続く上への階段にライトを向けていたため気づけなかった。まあ、多少痛むだけで歩行自体に問題はないようだ。
さて行こう。俺は足元の階段を踏みしめて上っていく。大体十段前後か、それだけで上りきると、スライドドアに辿り着く。
ここから先はホテルの内部だ。なのでドアに手をかけるのだがピクリとも動かない。どうやら地震の影響でフレームが歪んでいるようだ。
「困りましたね」
なにがですか?
「扉が開かないと入れないじゃないですか」
・・・ああ、確かに窓ガラスのない頑丈そうな扉ではある。とはいえフレームは鉄でないし、何よりここには緋色がいる。
おい、緋色いけるだろ?
「ふっ、当然さっ!」
視線を向ければ胸を張る緋色。自分の見せ場が嬉しいのだろう。正義のヒーローも自己顕示欲くらいはあるのだ。まあ、俺には無縁の感情だけどね。
「はーい、皆危ないからさ下がってねー」
言われるまでもない。俺は渚ちゃんの手を取って数段降りると、犬子さんも習って俺の横に並ぶ。とはいえ少し戸惑っているようだ。
「あの・・・」
いえ、大丈夫です。すぐにわかりますから。
「いくよー! バーニング緋色ナッコォー!」
駆け上がる助走に重なる緋色の声。その奥から繰り出されるのはグローブに包まれた拳と圧倒的な速度だ。無茶苦茶な姿勢の中から生まれる螺旋の軌道が一直線に突き刺さる。
抵抗は一瞬。
フレームが歪んで動かなくなっていたスライドドアは更なる圧力によって、膨らむようにして膨張。同時に耐え切れなくなったフレームもろとも吹き飛んだ。
鳴り響くけたたましい金属音。だけど、その中になにやら不自然な音が混じっていたような気がするけど……まあいいか。
とりあえず、緋色お疲れ様、と言っておく。
「ふっ、この程度お茶の子さいさいさ!」
今時子供でもしないようなブイサイン。満面の笑みは大人にはできない喜色満面のそれだ。頼られたことが素直に嬉しいんだと思う。
「・・・え、あの」
どうしました犬子さん?
「え、だって緋色さん今・・・」
まあ、今の内に言っておくなら、緋色と居ればこんなものいつだって見られますよ。それでも納得できないならこう思うんです。アレは人の形をした人っぽい何かだ……と。
「失敬な! ボクだってまともな人間だよ!」
緋色、訂正させてくれ。お前は人間じゃない。
「なんでさ!」
「おねーちゃんかっこいい!」
渚ちゃんはのんきなものだ。だけど、とりあえず君はお淑やかな女の子を目指しなさい。とりあえずここにいる二人の女性は色々な意味で赤点だ。
とはいえ、緋色のお陰で一歩前進だ。吹き飛んだフレームの向こう、被災地のど真ん中の景色は、想像以上にまともだった。
少なくとも耐震技術はしっかりしていたのだろう。多少の亀裂は愛嬌としても、目に映る景色は半壊であって全壊ではない。そして、壁にかかった非常灯は弱々しいながらも光を放ち、頭上の換気扇は稼動しているようだった。
一応目の前にあるのはある程度の広さを持った室内。十畳ほどだろうか? 破壊された扉の横手に変な棒切れと机のようなものが置かれている。おそらく探検の終わった際にスタンプでも押すためのそれだろう。他に物らしい物はなく、結論から言えばそれだけであり進むしかない。
「ワンコちゃん、なにかわかる?」
「少なくとも火山ガスや一酸化炭素の影響はないようですね。近隣に人はいないようですが、まったく居ないというわけでもないようです」
とんでもない嗅覚だな。まあ、少なくとも誰かが居たらわかるなら都合が良い。こういう被災地では被災者が暴徒と化している場合もあるから、事前情報があるかないかだけでも大きな差になる。
「優は疑いすぎだよ」
あくまで世間一般の慎重論だ。誰もがお前のように強いわけじゃないんだよ。………腕力的に。
俺は頬を膨らます緋色を置いて、部屋奥の扉の前まで進み出ると、背後に付き従う犬子さんに声をかける。
この先は安心ですよね? と。
「ええ、密閉式の扉でなければ」
頼りになる言葉をありがとう。
とここで犬子さんはくすりと笑う。
「冗談です。向こうから漏れ出る匂いは安全なものです」
そういう冗談はやめてくださいね? こう見えても俺、神経細いんですから。
「善処します」
・・・このアマ覚えとけよ。
「はい、忘れませんよ」
・・・ホントやりづらい人だな。
まあとにかく、握ったままのドアノブをひねったところ、今回はあっさりと回って開くことに成功した。そして、その先に待っていたのは非常灯の続く一直線の通路だ。
多少の灯があるといえど、薄闇に包まれた先はなんとなく気味が悪い。なおかつ湿度も高いために、肌に張り付くシャツがどこまでも気持ち悪い。
「なんか蒸し暑いね」
「湿度が三十パーセントを越えてます。火山が活性化しているため、地熱の影響があるのかもしれません」
さらっと怖いこと言いますね。
「火山噴火の予兆の匂いはありません。しばらくは安心しても良いですよ」
それ以降の保証がない時点で不安まんちくりんなんですけど? とはいえ、そんなことばかり言っていては一歩も進めないのもまた事実だ。
仕方なく、という言い方はへんだけど、俺はあきらめて一歩目を踏み出した。
「わんこちゃん、何時間前の匂いとかは残ってるものなの?」
「状況と場所にもよりますね。ここの場合は多少の火山ガスが入り込んでいるということと、換気扇が稼動しているために残滓のほとんどがなくなっています」
つまりはわからないということだ。
とはいえ、そんなのは最初からわかりきっている。なら俺達にできるのは進むことだけだ。まったくもって不本意だけどね。
「変った人ですね」
ん? 犬子さんなんですか?
「あなたは変っているといったのです」
うーん、余り言われることのない台詞ではありますね。基本的に緋色の横が定位置の俺としては没個性の似合う癒し系と言われることが多いんですけどね。
「あなたは渚さんの両親を見つけてあげたいと思っているのと同時に、本当に……心の底から面倒くさいと思ってる」
「優ぅ?」
当然でしょう。面倒なものは面倒だ。できることなら涼しいラウンジでビールの一本でも飲んでいたい年頃の未成年です。って足元コンクリの破片あるから気をつけて。
「普通はね、表向きの言葉が綺麗なものだったとしても、内心はそんなことどうでもよくって、それこそ面倒くさいとしか考えないはずなんですよ。だけど、優さんは違います。どちらも本心なんて普通ありえない。必ずどちらかに偏るはずなんです」
と言われても俺にはピンと来ないですね。なんせ、俺に人の心はわかりませんから。
「でもまあ、優って確かにそういうところあるかもね」
緋色、俺以上に裏表のなさ過ぎる君にだけは言われたくない。
だけど、俺の人格鑑定はこれくらいにしてさっさと進もう。心を読まれるくらいならともかくとして………あまり愉快なものではないしね。
「っ」
犬子さんの肩がぴくりと震えるが俺は気づかない振りをしておく。ま、筒抜けなのは変らないけど、それくらいは許容範囲内だ。
それから五十メートルほど進んでからだろうか、俺達は突き当たった絵画の手前でT字路に辿り着く。どちらも証明が細いために進む先の道は良く見えない。
「どちらに進んでも危険はなさそうですね」
という犬子さんの保障つき。後は進む方向を決めるだけだ。
「ボクは右だと思うよ」
その心は?
「ボクが右利きだからさ!」
お前は黙れ。
「ひどいよ!」
さて、渚ちゃんに聞いたとしてもあまり論理的な答えは期待できないし、俺としては足元を確認してみる。当然薄暗いことから視界はあまりないに等しい。問題なく歩けるのは犬子さんくらいのものだろう。
はい、ここで問題です。俺にはとりあえずわかりました。進んだ先に生物か死体のどちらかがいる方向がわかりました。
「えー?」
おい、緋色なんだその不満そうな顔は? 俺の意見だからって軽視しすぎじゃないのか? というかお前は彼氏の意見すら疑いの対象かよ!
「優を信じてないわけじゃないんだけど、正義のヒーローとしては自分で気づきたかったというか………」
お前はオールインワンでなく機能特化型のオンリーワンだ諦めろ。
とここで袖を引かれていることに気づく。渚ちゃんだ。
「お兄ちゃん、おとーさんとおかーさんどっちにいるのー?」
渚ちゃんの両親かはわからないけどとりあえず人が居そうなのは左だ。
「その心は?」と犬子さん。
まあ犬子さんにはわからないかもしれないけど、見るべきは足元と壁だ。
「壁?」
そういって緋色の触れた壁には土ぼこりが付着している。それはひび割れた天井や壁からこぼれた粉塵だ。そして足元には様々なものの破片。砕けたコンクリや破片と化した蛍光灯。
当然、蛍光灯のガラス片などは砕けやすい。壁に付着したほこりは触れればそれだけで落ちていく。つまりはそういうことだ。
「?」
つまり、ここは視界が悪いときた。ましてや余震だってある。ならここにいた人間は倒れないように壁に手をつきながら歩くのが当然なんだよ。証拠に壁の汚れを見てみなよ、すれた後がある上に、その下の破片は細かく砕けたものが多い。そして、比べよう右の通路と。
「ああ、なるほど!」
ようやく納得したか緋色?
「なるほど。確かに私ではわからない判別方法ですね」
………なるほど。まあ気を悪くしたようではないな。そして、こんな思考を読まれるのはまずい、話題を変えよう。
「私は気にしてませんけど?」
まあ、いいとして、とりあえず左に進むということで良いかな? 加えて本当に危険はないんですよね?
「ええ、それは確実ですね。気圧の変化もないですから落とし穴があったりすることもないでしょうし」
そんなことまでわかるのか……というか警察犬も気圧の変化なんてわからないはずなんだけど。うん、とんでもねぇ。
熱い。とりあえず熱い。
まあ、空調が聞いているので息苦しさは感じないけど、それでも歩くたびに汗か浮くのを止めようがない。
緋色は平気そうだが、渚ちゃんは息を粗くして完全に無言。犬子さんはスーツのボタンをはずして胸元を開いたり閉じたり……って緋色目が笑ってないぞ。それにそれは誤解だ。俺の身は潔白だということを証明するには、
「私はAですよ?」
「優?」
あの緋色さん俺の腕を掴むのはいいのですが、ミキミキと嫌な音がしているのですが………
「ちなみにボクは八十五のDだよ」
いや、それは知ってるから。って痛ぇ!
あのな緋色、お前の握力は人類の骨くらい軽く砕くんだよ。それに俺はあくまで視線がたまたまそこに向いていただけで、犬子さんの胸元を意図的に覗き込んでいたわけではなくてだな・・・
「少しドキドキした程度です」
ぐわぁ! テメェ余計なこと言うんじゃねぇ! つーか折れる! 折れるから!
「すーぐーるー! ボクは大抵のことには寛容だけど、浮気は許さないかなー!」
誤解だ! 大体健全な男子たるもの、多少のチラッは視線を向けたって仕方ないだろ? それは理性の敗北じゃないんだ!
「・・・もうお嫁にいけません」
ぐわぁ! 悪ノリしてんじゃねぇ! 俺の腕折れる寸前だぞ!
でもって二分後、相変わらずぷんぷんしたままの緋色が俺と腕を組んだまま並んで歩いている。歩きにくい事この上ないのだけど、下手な発言は命の危機なので沈黙を選ぶ賢い俺なのでした。
「ここから先に扉があります。その先には階段があってロビーや食堂などがあります。主な宿泊施設は二階からです」
以外にホテル内の状況に詳しい犬子さんである。とはいえ誰かが居るという警告はない。扉に突き当たった俺はノブに手をかけ、
「待ってください」
どうしました犬子さん?
「扉を開ける前に心を強く持ってください」
どういう意味です?
振り返って犬子さんの顔を伺うが、前髪に隠れた双眸は何を映しているのかわからない。
「その向こうにあります」
なにが? とは問わない。その声に真剣味を感じたからだ。だからこそ、俺と同じように緋色は表情を硬くし、組んでいた腕を解いた。そして、俺は問いかけなおす。
何があるんですか? と。
「・・・死体です」
おいおい、冗談じゃないぞ。少なくともその覚悟だけはしていたけど、確定で向こうにそれがあるというのはさすがに笑えない。しかも、犬子さんが言うならおそらく確実な現実だろう。
だけど、ここで必要なのはビビる事じゃない。むしろ、問いかけることだ。
さあ犬子さん状況を教えてください。
「言いにくいのですが、その扉にもたれかかるようにして誰かが亡くなっています。年齢はわかりませんが身長百五十前後、小柄の女性です」
何でそんなことがわかるのかとは聞かない。だけど、犬子さんは補足してくる。
「身につけている香水が女性向けのブランドの物です。加えて金属の匂いが多いのでアクセサリーなどを身にまとっているのでしょう」
つまり、この扉を開けると女性の死体が倒れ掛かってくるということか。
「そうです」
緋色下がれ。それと渚ちゃんに見せたくない。抱き上げて目を覆ってろ。
「う、うん」
開けた先は階段でしたね?
「はい、ですからもたれかかっているのだと思います」
転げ落ちて死んだのか、ガスで死んだのかはわからない。とりあえず覚悟だけは決めておく。
「多量の血の匂いがします。別の意味での覚悟を決めてください」
嫌な忠告をありがとう。というわけで俺は握ったノブを軽く捻り、
ってもたれかかってたんだよな、扉が開こうとする圧力に、俺は腰に力を入れて対抗する。だけど、扉の隙間はあっという間に生まれて、
ゴトリと。
音を立てて何かがこぼれた。
ってこれは・・・
「っ!」
背後から緋色の息を呑む音が聞こえる。犬子さんも鼻を押さえてうつむいていた。その理由は俺だってわかった。
異臭。圧倒的な腐臭。
ただでさえ滞った空間特有の微妙な空気は漂っていたが、それでもこれは違う。世界が変る。見える風景の色まで変ってしまう。そう思わされてしまうほどの汚泥の如き匂い。絡みつくかのような痛みにも似た臭気に視界が滲んでしまう。そして、滲む視界に映ったのは、
「これは・・・」
腕だった。
隙間からこぼれた一本の腕。血に塗れて仰向けに倒れた女性のものらしき腕。それはどす黒い血に汚れ、長い爪はどれもがはげかかっている。
くそっ、最低だ。室内の気温が高いせいもあって腐敗が始まっているんだ。扉を少し開けただけでこの腐臭。どうしようもないほどの吐き気が催してくる。
なるほど、どこかの本で読んだのは本当だ。人は血を見て吐くのではない。血の匂いを嗅いで嘔吐するのだ。ということをね。
とはいえ、そんな思考に止まっていることはできない。
俺は圧力を殺しながら、ゆっくりと扉を開いていく。くそ、視界に映るそれがたまらなく不快だが逸らせない。逸らすことだけができない。
まずは五センチ。
・・・腕が動きながら肩が見えた。その肩には長い髪が張り付いており、着ているスーツのようなものも血で汚れて元の色をなくしてしまっている。
もう五センチ。
バサリと何かが広がった。