欺瞞と思い出
全身が熱い。そして、痛い。
特に左の膝が燃えるように痛い。
暗闇に落ちていた視界の中で俺はぼんやりと考える。
俺、何してたんだっけ?
記憶が繋がらない。
寝た記憶がないのだから……ああ、そうか。
俺はしくじったんだ。正確に言うなら思い通りにならなかった。だから、抵抗したんだ。
犬子さんを助けるという抵抗を。
その結果がこれか。
まぶたを閉じたまま指と手足を動かしてみる。皮膚が少し引きつれるような感触はあったけど問題はないみたい。少なくとも安静にしていなければならない重体ではないらしい。
だけど、膝は違うようだ。少なくとも痛みの大合唱が膝を襲っている。まあ、記憶の中では皮膚が引き剥がされていたから仕方のないことだろう。むしろ、この程度で済んだことに感謝したいくらいだ。
とはいえ、俺も甘いよね。他人助けるためなんかにこんな怪我まで負って。ホントそんなキャラじゃないっていうのに。
というわけでまぶたを開ける。そして、口を開く。
知らない天井だ。
「突っ込みませんよ?」
意外な声に寝たまま首を傾ければ左隣にあったのは犬子さんの横顔だった。
・・・おい。どういうことだ?
「極端な話し、怪我人は一箇所に集めておいた方がいいですからね。前からいた怪我人の方の部屋は埋まっていますし、結果として、私と優さんが同じ部屋で同衾ということになりました」
見れば犬子さんの右頬には大きなガーゼが貼り付けてある。多分地面に横たわっていた時に火傷したのだろう。
「ええと、その・・・」
見えない視線を天井に向けたまま犬子さんが口ごもっている。なんというか珍しい。
「助けてくださったそうで、ありがとうございました」
なんというか、犬子さんに感謝されるなんて新鮮な響きに感じてしまう。これは・・・たまらないですね?
「・・・感謝、取り消していいですか?」
それはさておき、怪我はどんな具合ですか? というかなんで倒れていたんですか?
「………わかりません」
それはどちらの意味ですか?
「倒れた理由です。事故現場に近づいた時、突然気が遠くなって、気がついたらここで眠っていました」
・・・一酸化炭素中毒ですか? だけど、そうだったら今頃生きてはいないはずだし。
「だから、理由がわからないのです。一応優さんが助けてくださったお陰で命だけは助かりました」
それは良かった。といっても怪我はしてますもんね。
「怪我は大したことないのですよ。地面に少し触れてしまった頬を火傷したのと、むき出しだった手と足が重度の火傷を負ったくらいでたいしたことはありません」
十分大怪我ですよ?
「重要なのは、今現在の私から嗅覚がなくなってしまったということです?」
どういうことです?
「意識を失っていたため肺が焼かれるようなことはなかったのですが、それでもわずかにしてしまった呼吸のために、鼻の中の粘膜が火傷を負ってしまっているようです」
つまりは、
「今の私はあなた達の役にも立てなくなった雌犬です」
うわ、良い響きだな。
いえ、そんなこと言わないでください。
「本音と建前が逆になっていますよ」
おっと失敬。とはいえ、嗅覚がなくなったということは・・・
「ええ、私は事実上のリタイアです。少なくとも爆発の理由もわからないし、これから何が起こっても傍観者でいることしかできません」
それを緋色は知っていますか?
「ええ、さっきまで緋色さんもここにいまして、その時お伝えしました」
まあ、なんにせよ怪我人なんですから無理しないで寝ているのが一番ですよ。
「それはあなたも同じでは?」
俺は少なくとも、重症ではないですからね。いやまあ、膝は大層痛いですけど、それでも、動けないほどじゃない。
そう言って上体を起こすと、途端に全身が痛んだような気がするけど、それは無視。
「どうするつもりなんですか?」
とりあえず緋色に会って話でも聞きますよ。それに今後の相談もしなければなりませんしね。
脱出のための通路。炎越しの視界だったためにはっきりとは見えなかったが、それでも崩れていると思って間違いないだろう。なんせ「爆薬」なんてものを使用されているのだ。十中八九意図的な破壊・・・イコール脱出路が無事なはずもない。
「今の内に言っておきますが」
立ち上がった俺が肩越しに振り返れば、犬子さんは見えない視線を俺に向けていることに気づく。恐らく音で位置関係を割り出しているのだろう。
「瀬川さんを殺した犯人は
………です」
傑作だ。最高に傑作だよ。殺人理由なんてわからないけど、それでも理由さえ陳腐ならこれほど傑作な駄作芝居はありゃしない。むしろ三文小説だ。こんなシナリオは渚ちゃんだって書かないような愚作にして愚策。少なくとも俺には笑いを求めているとしか思えない。
「ああ、そうかい」
なら、さっさと終わらせよう。だけど、それでも、万全を期して完全を求めて、因縁を観念させることによって、抜刀を罵倒して、爆破を暴露しよう。それは俺の役目であって役所であるなら観察し完遂し駆逐して挫いて破壊して破戒して放火を放置して他を暈かして虐殺を逆鎖して見せよう。
さあパーティータイムだ。
「優起きて平気なの?!」
犬子さんにも言われたけどとりあえずは大丈夫だよ。もっとも、激しい運動はできないだろうね。まあ、本来だったら歩くのも厳禁なのだろうけど、そこはご愛嬌。
「むー、優は言っても聞かないからあまり言わないけど、それでも無理したらダメなんだからね!」
わかってるよマイハニー。
とここで俺は部屋にいる一同、緋色、港 善治さん、美代子さん、渚ちゃんに笑みを向ける。
なにやら心配をおかけしたようですみません。
「いやいや、無事とは行かなくとも、命があっただけ良かったよ」と善治さん。
そういえば善治さん、今は何時かわかりますか?
「ん? そうだね大体十六時半といったところかな」
左手首に巻きついたオメガに視線を落としながら告げられた時間に多少驚く。
俺、そんな寝てたんだ。起床時間が大体十時くらいで犬子さんを助けたのがお昼だ。うわ、四半日は無駄にした計算になる。とまあ、そんなことが確認したかったわけではないので構わないんだけどね。
しかし、四時か。ずっと寝てたせいか腹は減ってるんだよね。
「あっ、ボクご飯取って来るよ。優お昼食べてないから取って来るね!」
悪いね。
「あらあら、なら私も付き合うわね。いいわよねアナタ?」
「ああ、私達の夕食分もついでに頼むよ」
「ママいくなら、渚もいくー」
なるほど、残されるのは怪我人の俺と善治さんということか。まあ、この際は適当に歓談とて時間を潰すとしよう。というわけでリビング中央気味で対に置かれたソファーに腰を下ろし善治さんと向かい合う。
「優それじゃ行って来るねー」
いってら。ついでに犬子さんのも頼む。
緋色は頷くと渚ちゃんと美代子さんを連れ、扉の向こうに旅立っていった。
扉が閉じる音を皮切りに俺は苦笑する。
蒲原さんと砂皿さんはどうしました?
「二人とも部屋に戻ったよ。しかし、不謹慎だが若い女性が多いから気持ちが華やぐね」
奥さんに刺されない程度に懸想して下さい。
もっとも、場合によっては殺されるかもしれないから、別の意味で気をつけて欲しいものだが、そんな余計な事は口にしない。
それからしばらくは雑談だ。善治さんがどんな仕事をしているのかなど、渚ちゃんのおねしょ癖が直らないなど他愛のない話だ。
だけど、この次の台詞は違った。
「そういえば優くんの苗字は真だったね?」
確かめるというよりも確認するかのような口調。俺は嫌な予感を感じつつも、曖昧に笑って頷く。
「失礼がなければ教えて欲しいのだけど、君のご両親は………」
ええ、亡くなってますよ。珍しい苗字ですし、あの『テロ』に巻き込まれた民間人ですからね。
「・・・そうか」
今から遡ること十年。1999年 二月十四日。世界が恋人達のために赤く染まる日に、とある要人を目標とした大規模自爆テロが発生した。
死者の総計は百七十一名。戦後最大の被害者を計上した、警戒は怠っていなかったと声高らかに叫んだ、日本政府最大の汚点とされる大事件。生存者はたったの八名。その内の一人が俺だった。
大したことではなかったと思う。いや、正確に言うなら、生き残った後の俺がそう思ってしまった。そういうことだ。
つまり、あの日俺は死んでしまった。感情がなくなったとかそういう単純なことじゃない。世界は優しいなんて幻想を持っていた俺が死んだのだ。無償の愛も優しさも、真の友情も何もかもが嘘っぱちだということを知ったのだ。
だから、俺はあいつに感謝している。
あいつがいなければ俺はとっくの昔に自身を殺していただろう。ゆえに、善治さんが口にした言葉は笑みを持って受け止めることができた。
「あのテロは、当時も今も最大の規模を誇っている大企業、紅グループを狙って起こされたテロだと………」
知っていますよ。
「っ」
あのテロが紅グループを……その直系の家族を狙った、紅 緋色達を狙ったものなんてことは、この俺自身が誰よりも深く知っている。口上を叫び目の前で弾け飛ぶ肉と骨の塊、それの連鎖が周囲の暖かい世界を、アミューズメントパークに変えてくれた。
そして、彼女達だけが無事だった。薙ぎ倒されて千切れ砕けた肉の壁に守られ、緋色に染まった少女。
両親のお陰で助かった俺は意識を失った。だけど目を覚ました時、彼女は俺の手を握っていてこう言った。
『助けに来たよ』
俺は忘れない。あの時の胸の高鳴りを。
だから、紅一家のために俺の家族は根こそぎになった。だけど、あの時感じた思いは嘘じゃない。
だからこそ、俺は緋色の隣にいるんですよ善治さん。
「そうか・・・嫌な事を聞いてすまなかったね」
別に気にしてませんよ。ぶっちゃけ、天涯孤独になったとはいえ、お金には困ってませんし。
そうこうしている内に、食事を持って帰って来た緋色達が笑顔でレトルトのカレーが入った器とウーロン茶のペップボトルを手渡してきてくれる。
しばらく善治さんが俺に対して気まずそうな視線を向けてきていたが、それも最初だけ。最終的には俺達五人は明るく笑いあって食事を共にした。
そして、思った。思ってしまった。
こんなのも悪くない。と。
不覚にも思ってしまった。
家族なんてとっくの昔に忘れていたのにも関わらず・・・思ってしまったのだ。
そんなものは欺瞞だと理解しながら。