1、ある夏の日
じれじれ更新になるとは思いますがお付き合いいただければ幸いです。
暑いのは苦手。
食欲がなくなると途端にダメ。
食べなくちゃと思うほど、胃が受け付けない。
秋にある作品展に出品する作品の製作も進まない。
自分の技量を超えたことを表現しようとしているのではないかと心細くなる。
裕也さんが食事を残した私を見つめている。
怒られる?ってちょっと緊張したけど、何も言われなかった。
怒られるのが怖いなんて子どもみたい。
そう思うと、またちょっと自己嫌悪。
『また』って言うのはさっきも大したことじゃないのに嫉妬してしまったから。
私の夫、中野裕也さんは売れっ子の作家さん。
自宅兼仕事場でもあるこの家には打合せのためにいろいろな人が訪ねてくる。
今日は私が初めて会う綺麗な女の人、名刺に『江戸川出版 加納まどか』となっていた。
大人の魅力満載の才女。
リビングにお茶を出し、私は自分のアトリエに引きこもる。
私、中野 莉桜 24歳。
昨年、美大を卒業して直ぐに結婚したけど、今はフリーのイラストレーターとして細々と絵を描かせてもらっている。
私は子どもの頃に大病をしたからなのか虚弱体質で、ちょっと無理をすると熱を出したり、胃痛を起こしてダウンするような状態だから正社員は無理だと諦めて専業主婦になるつもりだったけれど、裕也さんの担当編集者の方が仕事を紹介してくれた。
単発の仕事が殆どだけど、私のイラストを気に入ってくれて定期的にお仕事をいただけるようにもなってきた。
お小遣い程度の収入だけど、私にとっては大変なこと。
描きたい絵を描くための画材を買うための資金にできるから。
裕也さんに全部甘えたくない。私の小さな自負。
家事を終え、仕事用のイラストを描くことが無い日は描きたい物を描いている。
今は展覧会へ出品用の作品。
今まで単色の濃淡で描くことが多かったのに、今回はとてもカラフルなイメージ。
モチーフは全然別のものだけど、創作のきっかけは散歩の途中で保育園の園庭で見た風景。
小さな子供たちが色とりどりの風船を持って園庭を駆け回っている。
帽子の色もさまざまで私は目を離せなかった。
でも、難しい。
描けば描くほど自分の表現したいものと違ってくる。
この何日かその状態が続いていて、いっそ違うものを描こうかと筆を持ったままキャンパスを見つめていると玄関の方で声がした。
加納さんが帰られるのかな?
そう思って筆を置き、私は玄関へ向かう。
玄関先で会話する二人が目に入る。
「では先生、その線でよろしくお願いしますね」
「加納から先生って呼ばれると変な感じだな」
「昔とは違うのよ。裕也なんて呼べないでしょう?」
「そういうものか?」
「そうよ。可愛い奥様に睨まれても困るから」
親密な感じの会話。過去に接点があったのだとぼんやり思う。
私の姿に気が付いても慌てる素振りもなく
「奥様、お邪魔いたしました」と、にこやかに言い、加納さんは帰って行った。
『昔からのお知り合いだったんですね』と聞けば良かった。
初めに教えてくれれば良かったのにと恨めしくも思うけれど、その時の私は何も尋ねることが出来なかった。
アトリエに戻っても絵を描く気分に戻れずに庭を眺める。
暑そうな日差し。
そのまま時間が過ぎていき、気がついたら夕方だった。
夕食の用意をしようとキッチンに向かうと裕也さんもやってきた。
「今日のメニューは何?」
「えっと焼きナスと後はハムでも焼こうかと……」
スーッと裕也さんの手が私の額に伸ばされた。
「こら、熱がある。朝からどうもおかしいと思っていたら、やっぱりだ」
「えっ、熱?」
少し体がだるくて食欲はなかったけれど発熱してる?
「大丈夫だよ」
自覚がないから、そのまま夕食を作ろうとするとソファに運ばれた。
チェストの引き出しから体温計を出して渡された。
私はちょっと拗ねて体温計を受け取った。
「冷や汁なら食べれそうだろ?」
私の顔を覗き込み裕也さんが言ってくれる。
食欲が落ちても、好物の冷や汁なら口にできた。
九州出身の祖母直伝の味。私が作ってあげたら気に入って、今では裕也さんも美味しく作ってくれる。
私にとっては体調管理も大切な仕事だといつも裕也さんに言われてる。
ピピピッと合図の音がして、小窓には37度6分。だから無理せず甘えることにした。
「干物の入ったのが良い」
ちょっとだけ我儘を言い、冷凍庫に先日貰った鯵の干物があると伝えた。
干物の美味しく焼ける匂いがしてくる。
私は幸せな気分になり、いつの間にさっきのモヤモヤをすっかり忘れてソファで微睡んでいた。
揺れを感じて目を開けると裕也さんがソファの横に座っている。
額に手を置かれたから上目使いに見上げると微笑んでくれた。
「熱は上がってないな。気分はとうだ?夕食、出来たから食べるか?」
胃の重さは変わってないけれど、少しは食べられる気がする。
「ほんの少しなら食べれそうです」
私がそう答えると、裕也さんは立ち上がりキッチンに向かい冷蔵庫から冷や汁を出してくれる。
小さなお椀に軽くよそってくれる。ごはんもほんの少し私が何とか食べられそうな量が用意されていた。
裕也さんは自分用に厚切りハムを焼いている。
二人揃って「いただきます」と声を掛け夕食を食べた。
美味しいと言うと「愛情がこもってるからな」と返されて恥ずかしい。
二人だけだと時々びっくりするようなセリフを口にする裕也さん。その度に恥ずかしくてどうしていいのかわからなくなる。きっと私のアタフタした様子を見たいのだろうと思っている。
食べ終わったら風邪薬と胃薬を飲んだ。これで治るはず。
食後は仕事が詰まっていなければゆっくりリビングのソファで過ごすのが日課。
部屋の明かりは間接照明と読書用のスタンド照明のみ。
読書をしたりテレビを見たりして裕也さんの隣でゴロゴロしている。
少し高台に建っている我が家は窓を開ければ良い風が通り抜けてくれるので、エアコンが得意ではない私にはとても良い。
結婚して直ぐにここに引越してきた。
もともとは父の生家があった場所。
父がこの場所で暮らしたらと提案してくれたのだ。
そのまま古い家に手を加えれば良いと思っていたら、今度は祖母が建て直しなさいと強く言いだして結局そうすることになった。
でも家を建てるって大変。
もうそれだけで小説が1本書けそうだと裕也さんは言っている。
設計の段階からいろいろ要望を聞いてもらえて、本当に暮らしやすい私たちらしい家になったと思う。
小説を書く夫と絵を描く妻の二人暮らし。
街の中心から少し離れて静かな場所。
訪れるのはとても近しい人がほんの少し。
そんな生活を私は楽しみ、夫はのんびり過ごす私を笑みを湛えて見つめている。
幸せをかみしめながら二人で寄り添ってゆっくりと生きていく。
私のささやかな望み。
穏やかな日々が長く続きますように。