雨の日の二重丸
先に他界した父に続いて 翌年に母が他界して
実家の後片付けをするために 私と三人の姉たちが実家に集まった。
玄関にある靴箱の中を片付けていた私は
その一番奥に立てかけられた一本の小さい傘を見つけた。
「赤い傘…… 私のだ」
自分が小学校低学年の頃に使っていた傘だと すぐにわかった。
赤い持ち手を握ってみると その小ささに驚く。
傘を広げて 大人になった自分がその中に入ってみる。
頭の上に広がる赤い空間を見上げたら
遠い昔 その光景を初めて見たときの記憶が蘇った。
小学校1年生のとき…… 入学して初めて雨が降った。
朝は降っていなかったから 家を出るときには傘は持って来なかった。
下校口で周りの様子を見ていると
次々と母親が小さい傘を片手にやって来て 自分の子供を探している。
目の前を帰って行く二つの傘。
大きい傘と小さい傘が並んで その二つの傘の僅かな隙間に
両側から伸びた手が繋がれているのが見える。
「傘と傘が繋がってる――」
繋がった二つの傘が いくつもいくつも続いている光景を
私はしばらく一人で見ていた。
その傘たちの後姿の間を 逆方向に歩いて来る黒い大きな傘が見えた。
前に倒して傘を差しているから 本当に黒い大きな丸い傘だけが近づいて来るようだった。
目の前近くまで来て 黒い傘が持ち上がった。
「あ――」
まさか…… と思ったその傘の下の顔を見て驚いた。
「お父さん!」
父親は左官業を営んでいるため 雨が降ると仕事にならない。
朝から本降りの日は仕事が休みになるし 途中からの雨は早く帰宅する。
「お母さんが持っていってやってくれと言うからな」
それだけを言うと 手に持っていた傘を私に渡してくれた。
「新しい傘だー! 赤いの!」
入学時に用意してくれた真新しい赤い傘を 父の大きな手から受け取った。
きっと そのときの私は 満面の笑みで
自分の頭の上で その赤い傘を開いていただろう。
普段いつも使う物ではないというだけで 嫌な雨も特別なものに変わっていた。
上を見上げると 頭の上一杯に 真っ赤な世界が広がっている。
そのときの自分の顔も 真っ赤な傘の色の反射で同じ色に染まって見えていたに違いない。
そんな私の顔を見ることなく 父の大きな黒い傘は さっさと歩き出していた。
私は そんな黒い傘を追いかけるように走り出した。
追いつきたい…… いや 横に並びたかった。
父の大きな黒い傘と 私の新しい赤い傘とが並んで繋がるんだ――
でも 普段から子供の私と過ごすことが少ない父は
私の歩幅も気にすることもなく 私はいつまでも父の傘の後ろを追っているばかり。
さっきまで見ていた他の親子の大小並んだ傘の繋がりが 急に羨ましくて仕方なかった。
何だか寂しくなって 私の足が止まる。
目の前の信号が変わりそうになって やっと父が振り向いた。
その場で一瞬立ち止まった黒い傘が近づいて来る。
「どうした? どこか痛いか?」
そう言って 父は少ししゃがんで私の傘の中を覗き込む。
傘と傘がぶつかる……
今度は父が 自分の傘を少し高くして私の顔を覗き込む。
私は 自分を見ている父の顔じゃなく
自分の頭の上を見上げて
ついさっきまでの半泣き顔から 一気に笑顔になった。
赤い小さな傘の上に 大きな黒い傘が 一回りも二回りも外側に重なって見えて
まるで傘の二重丸のようだった…… しかも色付きの!
「お父さん!」
「どうした?」
「傘持ってきてくれて ありがとう」
私がそう言い終わったとき 目の前の信号が変わって 父が渡り出した。
もう 羨ましくも寂しくもなく
私は目の前の大きな黒い傘を見ながら 父の後ろを歩いていた。
そんなことを思い出した今は もう 父の黒い傘はなかった。
でも 今は
あのときの傘のように 私の外側を包み込むような父の存在を感じていた。
「ずっと 二重丸作って 守っていてね」
そうこころの中で祈るように 私は その傘を持って帰った。