一炊の夢
今日は休みだ。
仕事もなく、予定もない。
朝いつも通りの時間に目覚め、朝食を作り、食べ終わったら散歩をして、帰ってきたら前々から見たかった映画を見た。簡単なお昼ご飯を食べた後は先日買った本を読んでいた。しばらく読み耽っていたら最後まで一気読みしてしまった。
ふと時計を見上げるとちょうどおやつ時だったのでコーヒーを淹れて棚からクッキーを取り出した。
それを机に置いてまた腰掛けたのだが、どうにもすぐには手をつける気になれず外に視線を向けてみた。
今日はよく晴れている。ベランダには穏やかな昼下がりの陽光が差していて時折小鳥のさえずりが聞こえてくる。窓から見える木々も静かで風もほとんど吹いていないことが伺える。いつもなら聞こえるはずの子供たちの賑やかな声も今日は無く、まるでここだけ別の世界になったかのような気分になった。それはそれで心地よい気もしたのでそのままどうするでもなくただぼんやりと外を眺め続けていた。
「おはよう」
誰かの声が聞こえた気がする。
「ほら、朝だよ」
今度ははっきりと聞き慣れた声がする。
瞼を開ける。
「お、起きたね。おはよう」
声のする方に顔を向けるとそこにはよく知る人物の顔があった。
「おはよう……起こしてくれたんだ」
隣の彼に微笑みかける。
彼も私に微笑み返してくれる。
「何となく起こしたくなっちゃった。もう少し寝顔を眺めてても良かったんだけどね」
そんなことを言う彼が可愛らしくて私は笑う。
私の顔にかかった黒い長髪を彼がかき上げてそのまま頭を撫でる。その手触りは柔らかくて、優しくて、そのまま眠りに落ちてしまいそうになるほどに穏やかなものだった。
「どうしたの?」
「どうもしてないよ。ただかわいいなって思っただけ」
彼はこういうことを普通に言えてしまえるのだ。そこがまた嬉しく、こそばゆく、そしてやはり可愛らしい。
私もベッドから片手を出して彼の顔を撫でる。時折頬や耳をつまんだりしてみる。
「なんだよー」
などと言いつつくすぐったそうにしている彼がこれまた可愛いのでついついいたずらをしたくなってしまう。もう片方の手も出して両手で彼の顔を撫で回しつまみまくる。
「くすぐったいー」
「ふふふふふ」
今度は彼から仕返しとばかりに髪をくしゃくしゃにされる。
「いやーくすぐったーい」
「ははははは」
お互いに頭や顔を撫で回し合い、寝癖の上から更に変な髪型が完成してしまった。
「変な髪型ー」
「お互い様だろー」
こんなくだらないことで笑い合える。それが嬉しい。
「あー面白い」
「そうだなー」
二人で楽しさを分け合える、幸せな一時。
どうやらいつの間にか寝てしまっていたようだ。机に視線を向けるとまだコーヒーからは仄かに湯気が立ちのぼっている。数秒か数分か、寝ていたのはそれくらいの時間だったのだろう。
……夢を見た。
あれは元彼との思い出だ。いつだったかはもう忘れてしまったが、確実に存在した一コマである。
元彼と別れてはや四ヶ月。そろそろ引き摺らなくなってきた頃だと思っていたが。
こうしてふとした時に夢に見るということはまだいくらか彼への気持ちが残っているのかもしれない。
大学時代から数えて五年の月日を彼と共にした。さすがにそれだけ長いこと一緒にいれば自分から決めた別れであろうとそれなりに尾を引くものであるのだろう。
心の奥底のところでは泡沫の夢であろうともまた彼に会いたいと思っていたのかもしれない。
こうして夢に見てしまうともう一度あの幸せだった日々に戻りたいという思いが首をもたげてくる。
しかし過去には戻れない。何も変わることなく元の関係に戻ったとして、結局また同じように終わりの時を迎えるだけだ。それでは何も意味が無い。
未練そのものに意味が無いとは言わないが、私は出来ることならその未練は次の恋でもっと楽しく関係を続けていくための糧にしたいと思う。
失敗があるからこそ学べるものというのもある。失恋とは、未練とはそういうものであるはずだ。
おそらく元彼とのことを夢に見るのはこれが最後だろう。最後は悲しい終わりではあったが彼との関係に後悔はない。とても楽しかったし、幸せだった。
そして別れるという決断をしたことも同時に後悔はない。あのまま関係を続けてもお互いに苦しくなってしまうだけだっただろう。
付き合えて良かったし、別れて良かった。
矛盾しているようだがどちらも紛うことなき私の本心だ。
後から思い返してこうやって思えることは本当に良かったと思う。
願わくは彼にも……いや、他人の心を勝手に語るのは野暮というものだろうか。
今となっては元彼に向けて言えるのはこれくらいか。
今までありがとう。そしてさようなら。どうかお元気で。
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