第二章 誰も知らないはずの歌
三日後。
ヴェルハルト教官の提出した戦略レポートに、一行の注釈があった。
*「アシュベル・レンの行動による損耗計算の逸脱を確認。要因不明。再発防止のための感情制御プログラムの強化を推奨する」*
レンは生きていた。
理由は、まだ誰にも説明できなかった。
「無貌の王」は消えた。それは確かだった。村は無事だった。それも確かだった。だが「どうやって」という問いに、魔法理論は答えを持っていなかった。
王国の情報管理局は素早く動いた。目撃証言は「混乱による幻視」と処理された。レンは「軽度の精神異常による暴走事案」として、謹慎処分になった。
それでよかった。
王国にとっては、そちらのほうが都合がよかった。
なぜなら王国には、もう「英雄」がいたからだ。
「聖騎士」シリウス・ヴァレン卿。
三十歳。完璧な容姿。国王の腹心。公式記録では「A+級魔力保有者・連続魔獣討伐記録保持者」。民衆の前では常に輝かしい鎧をまとい、専属の映像魔術師が彼の「戦闘」を記録・編集して全国に配信する。
子供たちは彼の名前を呼び、女性たちは彼の笑顔に熱狂し、老人たちは「久しぶりに英雄らしい英雄が出た」と喜んだ。
レンは謹慎室から、配信映像を見ていた。
シリウスが魔獣を一刀両断する場面。スローモーションで、完璧なアングルから撮影されている。
「……」
レンは何も言わなかった。
ただ、古い教典をめくった。そこに書かれた英雄たちの姿と、映像の中のシリウスを、交互に見比べた。
何かが、違った。
形じゃない。輝きの——*質*が。
謹慎が明けた翌週、首都エスタリアで、大規模な魔獣の群れが出現した。
シリウス卿が出陣した。国民が広場に集まり、大型の映像水晶で「英雄の戦い」を観戦する、いつものセレモニーが始まった。
最初の十分間は、完璧だった。
シリウスが舞い、魔獣が吹き飛び、歓声が上がった。
十一分後、魔獣の群れの中心から「王級」が出現した。
シリウスは、三秒で後退した。
映像が、突然途切れた。
沈黙が広場を支配した。
やがて、本物の悲鳴が聞こえてきた。
「王級」が、市街地に侵入してきていた。
逃げ惑う民衆。崩れる建物。「英雄は?」「シリウス卿は?」誰かが叫んだが、答える者はいなかった。シリウスの鎧は、どこにも見えなかった。
その広場の中心に、一人の男が歩いてきた。
豪華な鎧ではない。魔術的なエフェクトもない。くたびれた外套と、一本の錆びた剣。それだけだった。
誰も知らない顔だった。
だが——*空気が変わった*。
「……なんだ、あれ」
誰かが呟いた。
その男が歩くたびに、空気が震えた。重力が変わったような感覚。押し潰されそうな圧力が、なぜか恐怖ではなく、*信頼*として伝わってくる奇妙な感覚。
男は立ち止まった。
「無傷の王級か」
低い声が、広場に静かに通った。「……久しぶりだな」
「奇跡が見たいか?」
男が錆びた剣を持ち上げた。その刃に、光がなかった。魔力もなかった。ただの鉄だった。
「——なら、瞬きするなよ」
その一撃は、見えなかった。
剣閃が走ったわけでもなく、魔法が発動したわけでもなく、ただ——*王級が半分になっていた*。
空間ごと、斬られていた。
魔法理論では、説明がつかない。
「意思の力」などという言葉を、この国は何百年も前に笑い飛ばしてきた。数値化できない概念は戦略に使えない。そんな常識を、その一撃が、静かに、完全に、塗り替えた。
「……これが」
広場の誰かが呟いた。老人だった。膝から崩れ落ちながら、泣いていた。「これが——俺たちがずっと待っていた——本物の、勇気だ」
サーシャは、その場にいた。
情報収集の任務で来ていたサーシャは、男の背中を見た瞬間に、三日前の夜の光景を思い出した。
*——計算が、合わない。*
「……あなたは」彼女は走り寄った。「あなたは、何者ですか」
男が振り返った。
その顔を見て、サーシャは言葉を失った。
見知った顔だった。
謹慎が明けたばかりの、学院最下位の、みっともない絶叫で「無貌の王」に立ち向かった、あの少年の——顔ではなかった。
全く別人だった。
だが目だけが、同じだった。
「……英雄を育てる側の人間は」と男は言った。「いつの時代も、表には出ないものだ」
「英雄を——育てる?」
「レンに伝えろ」男は踵を返した。「**お前が泣きながら叫んだあの夜から、世界は変わり始めている。**——次は、一人じゃなくていい」




