序章 灰色の世界で
「英雄譚を読んでいた者は、前に出ろ」
教室の沈黙が、鉄のように重かった。
アルダ王立学院・戦略科の教室。窓の外には、鉛色の空が広がっている。壇上に立つのは、この国で最も優秀な魔法戦略家と謳われるクラウス・ヴェルハルト教官だ。三十代、端正な顔立ち、無表情。彼が黒板に書き記した数式は、今日も「最適損耗率」を計算するためのものだった。
誰も立たない。
一秒、二秒——。
「……ッ」
一番後ろの席から、ゆっくりと立ち上がる影があった。
クラス全員の視線が、そこに集まる。
レン・アシュベル。十七歳。入学試験の成績は最下位。魔力量は平均値の三割。体力測定では最後尾。唯一の特記事項は「旧時代の英雄譚を所持していた」という報告書の一行だけ。
「アシュベル」ヴェルハルトの声は静かだった。「英雄譚を信じているのか?」
「……はい」
クスクスという笑いが、波のように広がった。
「信じて、どうする。数値に変換できない感情は戦略に組み込めない。英雄の物語は娯楽として消費されるか、政治的に悪用されるか、どちらかだ。——お前は何年も、役に立たないものに時間を費やしてきた」
レンは何も言わなかった。
俯いていた。
だが、その手がそっと、制服の内側で何かを握りしめているのを、誰も気づいていなかった。




