302号室
302号室
青木さくらが聖心総合病院で夜勤を始めてから、もう三週間が経っていた。
看護師になって半年、ようやく慣れてきた日勤に加えて夜勤も任されるようになったのは、
先輩たちからの信頼の証だと思っていた。
深夜二時。病棟は静寂に包まれている。
廊下の蛍光灯は半分ほどが消され、足音だけが響く。
さくらは定時の巡回を終え、ナースステーションに戻ろうとしていた時だった。
ピンポン、ピンポン。
呼び出しブザーの音が響いた。
音の方向を見ると、302号室の表示ランプが点灯している。
「また302号室?」
さくらは小さくため息をついた。
302号室からの呼び出しは、今夜で三回目だった。
しかし、その部屋には誰も入院していない。
空室のはずなのに、毎晩決まって深夜二時過ぎに呼び出しブザーが鳴るのだ。
部屋に向かいながら、さくらは最初にこの現象に気づいた夜のことを思い出していた。
一週間前、やはり夜勤中のことだった。
呼び出しに応じて302号室に行くと、部屋は真っ暗で誰もいなかった。
機器の故障だろうと思い、翌朝、設備担当者に点検を依頼した。
しかし異常はないという報告が返ってきただけだった。
それから毎晩、決まって同じ時間に同じことが起きている
302号室の前に立ち、さくらはドアノブに手をかけた。
部屋の中は暗く、月明かりだけが窓から差し込んでいる。
ベッドは片付けられ、シーツもきちんと畳まれている。
誰もいない。
「おかしいな...」
呼び出しボタンを確認すると、確かにランプは点灯していた。
さくらは部屋に異常がないか確認したあと、ボタンを押してリセットし、部屋を出た。
ナースステーションに戻ると、夜勤のもう一人の看護師である田中主任が書類整理をしていた。
「田中さん、302号室のことなんですが...」
「ああ、また鳴ったのね」田中主任は顔を上げずに答えた。
「機器の調子が悪いのよ。あんまり気にしなくていいから」
「でも、毎晩同じ時間に...」
「さくらちゃん、あの部屋のことは気にしちゃダメ。」
田中主任の声には、いつもの穏やかさとは違う、何か硬いものがあった。
「どうしてですか?」
「理由はいいから。あの部屋には近づかない方がいいのよ」
それ以上は何も教えてくれなかった。
翌日の日勤で、さくらは同期に302号室のことを聞いてみた。
「302号室?ああ、あそこは使ってないよね」
「どうして使わないんですか?」
「さあ...なんでだろう。昔から空いてるって聞いたことがあるけど」
彼女は首をかしげた。
「でも、変だよね。最近は病床数が足りてないって言ってるのに」
確かに、この病院は地域の中核病院で、いつも満床に近い状態が続いている。
それなのに302号室だけは、さくらが入職してから一度も使われているのを見たことがなかった。
その日の昼休み、さくらは病院の図面を見せてもらった。
302号室はあの機器の異常以外は他の部屋と同じ大きさ、同じ設備のはずだった。
しかし、なぜか患者用のベッドではなく、古い備品が置かれていることが多かった。
「何か調べてるの?」
振り返ると、ベテラン看護師の佐々木さんが立っていた。
「302号室のことを...」
佐々木さんの表情が一瞬曇った。
「あの部屋のことは、詮索しない方がいいわよ」
「どうしてですか?みなさん、同じことを言われますけど...」
「昔、あの部屋で...」佐々木さんは言いかけて口を閉じた。
「とにかく、あの部屋には近づかないこと。特に夜中は」
「何があったんですか?」
「このことは言えないの。でも、あなたのためよ」
その夜も、302号室から呼び出しがあった。
深夜二時十五分。いつもより少し遅い時間だった。
さくらは迷った。先輩たちの言葉が頭によぎる。
しかし、看護師としてこの呼び出しを無視するわけにはいかなかった。
部屋に向かう途中、さくらは302号室の扉をじっくりと見た。
他の部屋と変わらないように見えるが、よく見ると扉の塗装が微妙に色あせている。
まるで長い間、頻繁に開け閉めされていないかのように。
部屋に入ると、いつものように誰もいない。
しかし今夜は、何かが違った。
月明かりの中で、ベッドのシーツが微かに動いているように見えた。
風はない。エアコンも動いていない。
さくらは息を止めて見つめた。シーツは静止していた。見間違いだったのかもしれない。
呼び出しボタンをリセットしようとした時、さくらは気づいた。
ベッドの枕の部分が、わずかにへこんでいる。
まるで誰かが横になっていたかのように。
心臓が早鐘を打った。
さくらは急いで部屋を出ようとしたが、ドアノブが回らなかった。
「おかしい...」
もう一度試してみる。今度はスムーズに回った。
さくらは急いで部屋を出て、ナースステーションに戻った。
「どうしたの?顔が真っ青よ」
田中主任が心配そうに声をかけた。
「302号室で...ベッドが...」
「落ち着いて。何があったの?」
さくらは見たことを説明しようとしたが、うまく言葉にならなかった。
枕のへこみ、動いたように見えたシーツ、一瞬回らなかったドアノブ。
どれも曖昧で、確証がない。
「疲れてるのよ。夜勤はまだ慣れないでしょう?」
田中主任の言葉は優しかったが、その目には何か知っているような様子があった。
翌日、さくらは意を決して看護部長に302号室のことを相談した。
「あの部屋ですか...」
看護部長は困ったような表情を見せた。
「実は、あの部屋は使用を控えているんです」
「どうしてですか?」
「設備の問題で...詳しくは言えませんが、患者さんの安全を考えて」
「でも、呼び出しブザーが...」
「ええ、時々故障することがあるんです。業者には連絡してありますから、気にしないでください」
それは明らかに嘘だった。
機器の故障なら、なぜ修理しないのか。
なぜ他の看護師たちは皆、同じような反応を示すのか。
その夜、さくらは302号室の前で立ち止まった。
呼び出しはまだ鳴っていない。
深夜二時まで、あと十分ほどある。
扉に耳を当ててみた。何も聞こえない。
しかし、扉の向こうから微かに冷たい空気が漏れてくるような気がした。
深夜二時。
ピンポン、ピンポン。
いつものように呼び出しが鳴った。
しかし今夜、さくらは部屋に入らなかった。
廊下から、扉の隙間を通して中を覗き込んだ。
月明かりの中で、ベッドの上に人影のようなものが見えた気がした。
それは透明で、輪郭がはっきりしない。
影なのか、光の加減なのか、それとも...
さくらは目を擦った。もう一度見ると、何もなかった。
ただの空のベッドがあるだけだった。
しかし、呼び出しボタンの光は点灯し続けている。
まるで誰かが、必死に看護師を呼んでいるかのように。
さくらは震える手で呼び出しをリセットした。
扉を開けようとはしなかった。
翌週、さくらは古い資料を調べる機会があった。
病院の過去の記録を整理する作業の手伝いだった。
十年前の記録の中に、302号室についての記載を見つけた。
そこには、ある患者の名前と、「夜間、容体急変」という記述があった。
詳しい詳細は記されていなかったが、その後の記録が途切れていることから、
その患者がどうなったかはある程度察することができた。
しかし、それ以降の記録では、302号室は「設備点検中」「改修予定」といった理由で
使用されていないことになっていた。
実際は何の改修も行われていないのに。
その夜、さくらは302号室の前を通り過ぎようとした。
深夜二時。いつもの時間の五分前。
あと数分で、いつもの呼び出しが始まるはずだった。
足を止めて振り返ると、部屋の中から微かな光が漏れているのが見えた。
それは蛍光灯ではない。
それは蛍光灯なんかもっと柔らかく、温かい光だった。
さくらは扉に手をかけた。しかし、なぜか開ける気にならなかった。
本能で何かが、開けてはいけないと告げているような気がした。
深夜二時。
ピンポン、ピンポン。
いつものように呼び出しが鳴った。
しかし今度は、音が続いた。
普通なら数秒で止まるはずの音が、延々と鳴り続けている。
他の看護師たちは気づいていないようだった。
いや、もう気づかないふりをしているのかもしれない。
さくらは廊下に立ち尽くしていた。
扉の向こうから、微かに声が聞こえるような気がした。
助けを求める声のような、しかし、はっきりとは聞き取れない。
呼び出し音は、やがて止んだ。部屋の中の光も消えた。
さくらは、その場に立ち続けた。
翌日、さくらは夜勤のシフトから外された。
「しばらく日勤専属で」
看護部長は理由を説明しなかった。
それから一ヶ月が経った。
さくらは時々、夜勤の看護師たちに302号室のことを聞いてみた。
「最近、あの部屋から呼び出しはありますか?」
「最近はもうないわよ」
という答えが返ってくる。
しかし、彼女たちの目には、嘘をついているような様子があった。
ある日の夕方、さくらは遅番の仕事を終えて帰ろうとしていた。
病院の廊下は薄暗く、日勤のスタッフたちは帰宅していた。
3階の廊下を通りかかった時、302号室の前で足が止まった。
扉の隙間から、微かに光が漏れている。
そして、中から小さな音が聞こえてくる。
ピンポン、ピンポン。
呼び出し音ではない。もっと弱く、断続的な音。
まるで誰かが、力なくボタンを押し続けているような。
さくらは扉に手をかけた。
開けるべきか、開けないべきか。
扉の向こうで、音が止んだ。
さくらは手を離し、その場を去った。
翌日、302号室は改修工事のため封鎖された。
扉には「立入禁止」の札が貼られ、工事業者が出入りしていた。
しかし工事は三日で終了し、部屋は再び「設備点検中」という理由で空室のままになった。
さくらは、なんとなくその部屋を避けて通るようになった。
それでも時々、夜遅く病院に残る時がある。
そんな時、3階の廊下を歩いていると、302号室の方向から微かな音が聞こえてくることがある。
呼び出し音なのか、何か別の音なのか。
もう、さくらは確かめようとはしない。
ただ、足早にその場を立ち去るだけだった。
そして今夜も、誰かが静かに看護師を呼び続けている。
【完】