1話 新しい制服と、消えかけた手のひら
目覚ましが鳴る前に、ふいに目が覚めた。
春の朝の空気は、なんだかいつもより透き通っている気がする。カーテン越しにやわらかな光が差し込み、部屋の隅の空気がふわりと揺れた。
布団のぬくもりの中で、俺――神原清透はそっと手を握ったり開いたりしてみる。指先の感覚がやけに生々しい。
今日から高校生。新生活への期待と、ちょっとピリッとした緊張が混ざって、どうにも落ち着かねえ。
布団を抜け出して、制服を手に取る。思ったより生地がしっかりしていて、袖を通すたび、なんだか自分が“ちょっと大人”になったような気分になる。
鏡の前に立つと、見慣れない制服姿の俺がそこにいる。髪型やネクタイの曲がりを直しながら、無意識に背筋が伸びてしまう。
――照れくせえ。でも、ちょっとだけイケてる気分。
リビングに降りると、いつもは遅いはずの俺が一番乗りだった。
母さんが朝食を作っていて、父さんが新聞に目を通している。妹の未咲はキッチンカウンターの上で漫画に夢中だ。
どこにでもある日本の朝の風景。でも今朝の俺だけ、ちょっと違う世界にいる気がしていた。
「今日は早いね、清透」と母さんが声をかけてくる。
未咲がチラッと顔を上げて、「お兄ちゃん、制服似合ってるじゃん」とニヤつく。
家族に、普段と違う俺を見られてる気分で、背筋がゾワゾワする。
けれど、心のどこかにはやっぱ不安が残る。このまま新しいクラスでうまくやっていけるのか、友達がちゃんとできるのか――
家族のやりとりは“いつもの朝”そのものなのに、俺だけ違う場所にいるような感覚も混ざってた。それでも、この当たり前の朝の光景が続いてほしい、とマジで願ってた。
そんなふうにぼんやり考えながら、ふと右手の甲に目をやる。――なんだこれ、変な違和感。
一部だけ、色が薄くてぼんやり曇って見える。「寝ぼけてるのか?」
指を動かしてみても、やっぱその部分だけ不自然。こすっても、手を振っても消えねえ。
仕方なく洗面所に向かい、顔を洗って鏡の前でチェック。今度は右耳の端が、やっぱ薄く霞んでる。
目を凝らして見つめると、ゆらりと普通の肌色に戻るけど、気を抜くとまた曇る。(……幻覚? 俺だけにしか見えない現象?)
自分でも何が起きてるのかわからねえまま、何度も鏡と手を交互に見つめてしまう。
朝食のテーブルにつくと、パンを持った指先がまた白っぽくなってるのに気づいた。
母さんが「顔色悪いんじゃない?」とちらっと見てくるけど、それだけ。未咲も父さんも全然気づいてないみたいで、俺だけが妙な焦りを抱えてる。(新学期早々、こんなネタいらねえって……!)
家族は楽しそうに会話を続けてるのに、俺だけどこか遠い世界に取り残されたみたいな感じがする。
期待と不安、そして“この日常が今日から変わっちまう予感”が、静かに胸に広がっていた。
家を出るとき、通学カバンの持ち手を握った手がまた消えかけた。(通学途中で消えたらどうすんだ俺……)
通りすがりの近所の人や、同じクラスっぽい新入生たちと挨拶を交わしながら、“俺だけ普通じゃない”現実を、じわじわと実感する。
(もしこのまま一生治らなかったら――いや、それはさすがにキツい!)
校門の前で成瀬陸斗、新谷美咲、北野真央と合流する。
「おはよー清透! なんか今日、元気?」
「え、今日のお前、ちょっと変じゃね?」
「びっくりだね、みんな同じクラスになるなんて、神さまえらい」
みんなは何気なく接してくるが、俺は手をポケットに突っ込んで、“曇り”を必死で隠す。
それでも、友達と話しているとほんの一瞬、“いつも通りの自分”に戻れた気がした。
新しい教室。ざわめく生徒たち。担任の先生の初登場。
ホームルーム、そして自己紹介――俺の番が来たとき、指先がうっすらと消えかけているのに気づく。(今ここで消えたら、新入生どころか新生物扱いじゃん!)
慌てて机の下に手を隠して乗り切るが、他のみんなが緊張で汗をかいている中、俺だけ別の意味で冷や汗が止まらなかった。
クラス写真の撮影時、美咲が「ほら、ちゃんと写ってよ」と袖を引っ張る。
慌ててポケットに手を突っ込んで指先を隠す。カメラマンに「もっと笑って」と言われても、頭の中は(消えるな消えるな消えるな!)でいっぱい。
昼休み、購買では「男子は大体カレーパン」「今日のカレーパン、最高!」とみんなで騒ぐ。成瀬や美咲のやりとりに、俺も一応ツッコミを入れるが、ふとまた自分の手の端が透けている。
真央から「どこか呪われてる」と心配され、「たぶん緊張のせい」と笑ってごまかす。
(……見た目だけ消えてる。感触や重さはそのまま。他人には今のところ気づかれていない。けど、これ……いつか絶対バレるやつだろ)
そんなピンチをギリギリで乗り切る自分に、どこか妙な自信も芽生え始めていた。
入学式が終わり、友人たちと桜並木の下を歩く帰り道。成瀬が「なんか、楽しくなりそうな気しかしないな!」と笑う。
真央は「妖精とか出てきそう」と微笑み、美咲も「でも、今日は特別な日だもん」と照れたように言った。
俺だけが少し遅れて歩く。手の甲や耳の端が、ときどき淡く消えては戻る感覚。(このまま誰にも言えず、全部消えちゃったらどうしよう――)
不安と、誰にも知られていない“秘密”を持つワクワクが、胸の奥でせめぎあっていた。
家に帰って制服を脱ぎ、鏡を覗き込む。「やっぱり、普通じゃないかも……」小さな声が、部屋の静けさに消えていく。
夜、ベッドで天井を見上げながら、今日一日のことを思い返す。「明日は普通に戻ってほしい」と願うけど、もし治らなかったら……と、少しだけ覚悟を決める自分もいる。
“もし明日、手じゃなくて耳が消えてたら、そのときはそのときだ”――
半分開き直るような気持ちで、目を閉じた。
春の夜風がカーテンの隙間からそっと舞い込む。
新しい生活と、誰にも言えない小さな秘密。その余韻の中で、静かな夜がゆっくりと更けていった。
おもしろいと感じた方は、「亀の甲より年の功」をクリックして、他の作品もぜひご覧ください。まったく異なるジャンルの物語を書いています。




