4.
魔力の魔の字も知らなかったド素人が魔法を習得するのは中々に大変で、今日も今日とて空き時間に練習を重ねる。
ニーチカの指先が最後の線をたどり終わるとポゥと魔法陣が淡く金色に浮かび上がった。
「こんなもんか…なと、――あの、パーヴェル様出来ました」
どういう原理かはわからないけど淡く光ったままの魔法陣が書かれた紙を、向かいの定位置で分厚い本を読むパーヴェル様に差し出す。これからこの魔法陣に対して厳しいチェックが入るのだ、正確に均一に魔力が行き渡ってるかどうかを。
魔法陣を覚えるにはひたすら書いて、書いて、書いて頭に叩き込めと言われた。でももっと簡単に、呪文のように唱えれるものはないかと一度尋ねたら、それはどうやら難しいのだと。
「俺がいた世界とこの世界、魔法としての概念は同じだけど、それを発動させる為の『言葉』の条件が違うから無理だろうな」
「…えっと…?」
「言葉が通じないってことだ」
「え、でもパーヴェル様と私きちんと話せてますよね?」
「ああ、会話は成り立つ。けれど――、」
一度言葉を切り「…そうだな」と呟いたあと、部屋を見渡したパーヴェル様は軽く指を振り本棚から重そうな本を取り出す。もちろん座ったままで。
ドサリと私の目の前に本が置かれた。何だかとても難しそうな本だ。
「……?」
「今の俺ではこれは読めない」
「私も読めなそうですけど…」
「そう言った意味でなくだ」
「……」
呆れたように返されて口を噤む。軽口を挟んでみたが要するに『文字』が違うと言いたいのだろう。
「言葉として魔法を発動させるにはそこに込められるものをきちんと理解してなければいけない。…言霊とも言うが」
「コトダマ…?」
「ああ、まあ、そうだな…、例えば小さな火を灯す魔法――《小炎》」
パーヴェル様が呟くと手のひらの上に小さな炎が灯った。そして直ぐに握り潰す。
「――という感じだが、今の言葉をアンタが同じように唱えたとしても発動はしない。 まあだから、炎を灯すっていう概念は同じだとしても、『小炎』って言葉の概念を理解しない限りは無理だってことだ」
「……なるほど…?」
それでも覚えるだけならそっちの方が簡単ではないか? と考えたニーチカに、パーヴェル様は少しだけ目を細めながら言う。
「ちなみに、俺の世界の言語は同じ発音で違う意味を持つものが何通りもある上に、同じ文字でも違う発音をするものもある。そこら辺の流れもきちんと理解出来ればいけるだろが、……どうする?」
「頑張って書かせていただきます」
ニーチカは躊躇うことなく即答する。だって、パーヴェル様が言ってることを噛み砕くと、言語全部を覚えろってことだ。うん、ごめんなさい無理です。
魔法陣なら文字が絡んでいてもそれは図形となるので、その意味を理解していなくてもいけるのだそうだ。
そして、パーヴェル様が言葉もなく魔法を発動出来ることに関しては。
「する必要がないからだ」
と、何となくドヤ顔( に見えた )で返された。
このところ随分と上手く自分の魔力――、らしきものを乗せれるようになってきたと思いながら向かいを見る。だけどパーヴェル様の眉間には小さなシワが浮かぶ。
あれ? 失敗してないと思ったけど。
パーヴェル様は眉間にシワを寄せたままジッと魔法陣を見つめていたが一旦顔を上げてニーチカを見る。何だか複雑な表情だ。
「魔力がこんなに似るって…、アンタ直系か何かか?」
尋ねられた言葉の意味がわかってもニーチカが正しい答えを出せるはずがない。むしろわかるのならこっちも知りたいくらいだ、自分に親族がいるのかどうかを。
「そんなにルーシェンカ様と似てるんですか?」
「似てるな、色々と」
「へえ」
よくわからないけどやはり何となく嬉しい。繋がりのある誰かがいるということは。
何度もパーヴェル様に言われたのでルーシェンカ様の末裔であることを疑うのことはなくなったけど、それでも自分自身ではそんなのわからないわけで。
パーヴェル様が持っている、私の魔力で淡く光る紙を見る。前よりも大分光も強くなってきたとニーチカは自負している。
もう一度視線を紙に落としたパーヴェル様は小さく頷いた。
「…まあ及第点だな」
( やったっ! )
心の中でガッツポーズを作る。パーヴェル様は魔法陣の紙を小さく畳むとニーチカへと戻した。
「これも御守りの袋に同封しとけばいい」
「これをですか?」
「ああ。魔力が消えない限りは有効だから」
「へえ、そうなんですね」
「まあ最終的にはこれをそらで描けるようになれば合格だ」
「……はい…( うん、先は長そうだ )」
「ただ何にせよ、これでここを少し離れられるな」
と、零された声にニーチカは首を傾げる。
「…? どこか行かれるんですか?」
「ああ。最北端の国にルーシェンカの遺物が残されているらしい」
隠すことなく答えたパーヴェル様は「書いてあった」と、持っていた本を指でトンッと小突く。
前は読めないと言っていたのにもう読めるようになったらしい。凄い。
でも、パーヴェル様なら魔法であっという間に行き来できそうなところだけど?
そんな私の不審顔に気づいたパーヴェル様が言う。
「ついでにアンタの他にルーシェンカの末裔がいないか少し探そうかと」
「あっ、なるほど! 見つかりますかね? もし見つかったら私も会いたいです!」
そう言うとパーヴェル様は何とも言えない顔でニーチカを見る。
「………嬉しそうだな、アンタ」
「え、嬉しくならないはずないのでは?」
だって自分の血縁者が出来るのだ。たとえそれがとても遠い存在だとしても天涯孤独よりはいい。
まあよく考えればパーヴェル様も血縁者ということになるのだけど、なんかもう存在がアレなのでノーカウントだ。だからもう少し普通の血の繋がりが出来ればそりゃあ嬉しい。
「…でも、そうなると俺はアンタだけについていることは出来なくなるが?」
「何か問題があります?」
「…いや…」
「もう充分に色々してしてもらってるので全く困りませんよ」
むしろその方が平穏に暮らせると思います、とは流石に言わない。
にっこりと笑ったニーチカにパーヴェル様は胡乱な目を向けるが、でも何も言わずに小さく息を吐いた。
「じゃあ暫く留守にするけど、何度も言うが渡した御守りは絶対に身につけてろよ」
「わかってます、大丈夫ですよ!」
久しぶりに戻ってくる日常に浮かれていたニーチカは完全に忘れていた。パーヴェル様が不在ということは、それこそ完全にフラグが立ってしまったということを。
**
「ニーチカこれもお願いね」
「あ、私のもよろしくー」
「じゃあこれも頼もうかな、ハイ」
「………」
自分の籠の上に次々と乗せられ大きな山となった洗濯物を見て、ニーチカはパチパチと目を瞬かす。
「え、何、不満とか?」
「ええ〜、そんなことあるわけないわよねー」
「そーそー、だっていつもは勇者様に手伝ってもらって楽してるんだから」
確かに、それを言われると辛い。けど仕事的には楽してるといえばそうなるが、そこにはニーチカの心労ってものが配慮はされることはないのも事実。
「じゃあよろしくね〜」と手を振り去ってゆく同僚たち。そこに悪意がないとはたぶん言えない。だけど彼女たちにバチッという静電気は起きない。
置いてきてよかったとニーチカはホッと息を吐く。それはもちろん悪意を弾く、あの魔法陣を書いた紙だ。
もちろん緑琥珀の御守りの方はちゃんと身につけてはいるが、パーヴェル様にバレれば確実に怒られる案件である。だけど私の周りで度々バチンバチンとくれば私自身が静電気な気分になりそうだったから部屋に置いてきた。
一回で運べる量ではなかったので分けて洗い場へと運び、今度はポンプで水を汲み洗濯桶に溜める。今が冬でなくて良かった。
スカートの裾を太もも辺りできゅっと結び靴を脱いで桶へと入る。石鹸は王城の備品であるのでケチらずに遠慮なく使わせてもらおう。
それにしても、今日も良い天気で洗濯日だ。桶から巻き上がったシャボンの玉が青空に舞うのをニーチカは眺める。
パーヴェル様は中央では何もしていないと言っていたけど、こんなにも綺麗な青空があるってことはやっぱり何もしなくても大丈夫だったからなのだろう。…まあ、あのとっても素晴らしい笑顔が気にはなるけど。
( いやー、それにしても眼福だった )
桶の中で足踏みをしながらニーチカが思い返すのは、その時のパーヴェル様の笑顔。もし女性だったなら傾国の――と言われていただろう笑顔。パーヴェル様ならそのままの性別でもいけそうだが、なんせ性格が…。
そして、そういえば、と思う。
ルーシェンカ様とパーヴェル様が姉弟であるのならルーシェンカ様も美女であったってことかと。
ルーシェンカ様のきちんとした絵姿は古すぎて残ってはいない。今出回っているものは金髪金眼の美女として描かれてはいるが、どれも統一性がないのでほぼ脚色だろう。
洗濯をしながらそんなことをぼやっと考えていると、周りの景色が影を落としていたことに気づくのが遅れた。
ニーチカはハッと空を見上げる。そこはいつの間にか分厚い雲が覆っていて直ぐにでも雨が降りそうだ。
「ぅわっ! 大変!」
呑気に洗濯をしている場合ではない、今干しているものを取り込まねば。
ニーチカは慌てて桶から飛び出すと裸足のままシーツの波の間を走り出す。走りながら乾いてるかどうかを確認して次々と籠に放り込み、また次の場所へと移動して。
そして新たなシーツに手を掛けたところで、突然隙間から出て来た手がニーチカの腕を掴んだ。
「きゃっ!? えっ!?」
ニーチカの腕を掴んだ手のその先、あまり人相のよろしくない男二人がシーツを払い除けるように現れて、確認するようにこちらを覗き込む。
「――こいつか?」
「茶色の髪に金茶の目、…ああ、間違いなさそうだな」
「や…、え…?」
「で、どうする?」
「そこらのシーツにくるんで持ち出せばいいんじゃねぇか?」
「それなら暴れられるとまずいな」
唖然とするニーチカを置き去りに、とても不穏な会話をする男たち。何だかとてもまずい気がする。
「――あ、あのっ、腕、放してください!」
掴まれた手を放そうと腕を振り声を上げると、男たちの視線がニーチカへと降りた。
男性下級使用人の格好をしてはいるが使用人らしくない筋骨隆々の、濁った目をした彼らはニーチカを見下ろしニィっと口の端を上げる。
「今の話聞いてたろ? 放すと思うか?」
「…っ」
「そーそー、放してやりたいのは山々だけどこれも仕事でねぇ。お嬢ちゃんを出来るだけ遠くにやらないといけないんだ。国境を接しない国くらいまでは」
「わ、私を? どうしてっ!」
「さあ? それは俺らが関与することじゃない、言われた仕事をするだけだ」
「――そ、そんな…」
同僚の…、誰かが、雇いでもしたのだろうか。
ニーチカは流石に悲しくなった。そんなことをされるほどに嫌われたのかと。
目の前にいる男二人、彼らにニーチカ自身に対する悪意はないのだと思う。だけどその先に存在する悪意が積もり積もってここまで届いた。断ち切れることもなく。
ニーチカの悲しみに誘われたかのように、空からポツリポツリと雨が降り出す。
今、私があの魔法陣の紙を持っていたら彼らは弾かれるんだろうか?
視線を伏せたニーチカは掴まれてない方の腕を彼らから見えないようにさり気なく背に隠す。
「……雨か。雨脚がキツくなりそうだな」
「むしろその方がいいだろ、紛れられる」
降り出した雨空を鬱陶しそうに眺めていた男たちの視線が、俯くニーチカへと再び戻る。
「…さてお嬢ちゃん、大人しくしてくれてるのなら丁度いい。俺たちも手荒な真似はしたくな――…っぅ!?」
バチッ!! ――と、鋭い音がして男の手が離れた。
( 成功した! )
ニーチカは素早く距離を取り、唖然とした顔をする男たちを見る。
『悪意を弾く』魔法がきちんと発動出来た。言われたように毎日何度も書いてた甲斐がある。これで免許皆伝だ。
「……は? …なんだ、魔法か? …お前魔法が使えるのか?」
「もっ、もちろん!」
もちろん嘘だ。でもハッタリは強気でいくに限る。
男たちは顔を見合わせる。
「どうする? 魔法を使えるのなら分が悪い」
「…いやでも、それならこんな下級使用人などしているか? 普通なら引っ張りだこだろ」
「確かにそうだな」
「……もしかして、あれだけじゃないか?」
「あ?」
「使えるのが、だよ」
「ああ…」
二つの視線がこちらを向き、ニーチカはビクリと体を揺らす。
男たちのやり取りをのんびり眺めてる場合ではなかった。直ぐにバッと身を翻したニーチカの腕をもう一度男の手が捕らえる――が、再びバチッ!と音がなり、男は手を放す。
魔法はきちんと効いている、だけどそこは想定済みだったのだろう、放すと同時に突き飛ばされニーチカは地面に転んだ。
「――きゃっ!」
「おお、痛。……はは、でも耐えられる痛みだな、別に死ぬわけでもねぇ。意識を奪えば魔法も発動しねぇだろ」
「だな。 多少手荒になっても絶対に殺すなよ、なんせあの化け物みたいな勇者のお気に入りらしいからな」
「しかもそのせいでこんな目に合う。可哀想にな、嬢ちゃん」
「――っ」
やはりパーヴェル様絡みであるらしい。まあそんなことだろうとは思っていた、じゃなきゃ私を連れ去る意味はない。たかが下級使用人など。
それにしてもパーヴェル様不在によるコレ、見事なフラグ回収である。
うっすらと笑いこちらを見下ろす男たちから後退りながら距離を取り、タイミングを見て――走る。
ぐっと体が後ろに引っ張られる感覚に夢中で体を捻ると、首元からブチッと千切れる音がする。
( ――あっ! )
パーヴェル様から身につけるよう言われた御守り袋が地面へと落ちる。
あの物騒な御守りこそニーチカの最後の切り札だっのだが。けど、拾ってる場合ではない。とにかく逃げないと。
「おっ、追いかけっこか」
向こうは余裕のある声だ。体つきからして普通の一般人ではなく、こういう荒事に慣れた男たちなのだろう。
雨音に負けぬようニーチカは声を張り上げる。
「誰かー! 助けてっ!!」
「はは、叫べ叫べ。…無駄だと思うがな」
「誰かぁっ!!」
「おい、そっちに行ったぞ」
「ああ」
「……っ」
シーツの間を逃げ回るが相手は二人。しかも向こうはありありとした余裕を見せるが、声を上げたことでこちらの息は切れ、裸足の足の裏には小石が刺さり既に満身創痍だ。
男は無駄だと言った。確かに雨が降っているのに誰も洗濯物を取り込みに来ないのはきっとそういうことだ。
再び襲う悲しい気持ちに呼応したように雷までなる。見事な効果音。今なら静電気などでなく電撃でもよかった。
どう考えたって幸せから遠退いてる現状をパーヴェル様にはきちんと訴えなきゃいけない。そう心の底から思いながら逃げる。
――突然、 バチリと耳元で音がなり、体が飛んだ。
泥濘んだ地面にドサッと倒れる。
頭の中がくらくらと揺れ、頬が熱い。
…何が起こった?
状況を読めないままのニーチカを男たちが囲んだ。
「鬼ごっこは終わりだな、お嬢ちゃん」
「……?」
「強く殴り過ぎたか。 …まあいい、手間が省ける」
耳の中でキーンと音が反響していて男たちの声が聞こえにくい。ハッキリと聞こえるのはドクドクと脈打つ音、まるで頬に心臓があるみたいな感じだ。
呆然としているニーチカに男たちが濡れて冷たいシーツを被せる。言ってたように簀巻きにして連れ出すつもりだろう。
抵抗もなくなすがままのニーチカ。だけどシーツに包まれた体が一瞬強く発光して、被せたはずのシーツが解けるように消えた。
「は…?」
「え…?」
男たちとニーチカの声が重なる。
けど、別にこちらが何かしたわけではない。
「なんだ…? 新しい魔法か?」
「…でも、嬢ちゃん自身も驚いてるみたいだぞ」
男の言ったようにそれはその通りで。
ハッタリを掛けれる、これは絶好のチャンスだったのに無駄にしてしまった。だけど今のニーチカはそんなことにも気づかない。目の前をふわふわと飛ぶ小さな金の光に釘付けだったから。
( …なんだろう、これは? )
「…まあいい。もう一度だ」
「ああ」
男たちはシーツを手にニーチカに近づくが、やはり、手にしたはずのシーツは直ぐに消える。
「っクソ、またか! 何だってんだ、ちくしょう!」
大きな声で悪態をつく男。ニーチカは軽く目を瞬かせる。彼らには見えていないのか? 今のはこのふわふわした金の色の光がしたこであったのに。
金の光がブワッと広がりシーツを包みこんで消えた。ニーチカはそう見えた。上げた手のひらに金の光がちょこんと乗る。なんだか温かい。
もしかしてパーヴェル様がつけてくれたのだろうか、と考えると、ふるふると揺れる。まるで違うというように。
そんな場合ではないとわかっているが思わず和んでしまうニーチカを、男の声が現実へと戻す。
「もういい!まどろっこしいことは止めだ!」
「おい、どうする気だ?」
「要するに意識を失わせりゃいいんだろっ」
男は直ぐに行動に移した。へたり込んだニーチカの腕を掴み引き上げる。バチッと音がするがそんなの気にすることなくだ。
やはり静電気では鍛えられた人間の前ではあまり意味をなさない。
ニーチカの背後を取った男の太い腕が首に回る。所謂絞め技だ。
「抵抗すんなよ、直ぐに落としてやるから」
などと言われて、ハイそうですか、なんて頷けるはずなく。さりとて、抵抗できる程の力もない。代わりに金の光が男の周りをあっちこっちと飛び回るがそれもやっぱり意味はない。
静電気がバチバチと音を立てているのが聞こえる。だけど男の力は緩まずに、ニーチカの視界が狭くなっていく。
( ―――あ…、…無理、かも… )
そう思った――、瞬間、
急に体の拘束が解けた。
ニーチカは、ハッと大きく息を吐き出して、直ぐにぎゅっと温かいものに包まれる。
浮かんだのは安心。もう大丈夫だ、というような。
だけど。
「……何やってんだ? お前ら」
低い低い、安心とはほど遠い、剣呑な声がニーチカの側で落ちた。