39.
夢の主が消え再び灰色一色となってしまった世界に佇むルーシェンカは小さく零す。
「貴方は貴方のの思うまま…か」
私は私の思うまま。
そう、選んだのは私。
違う道だってあった。賢く秀麗な養い子は私だけを慕っていた。その子の手を取って正しき場所へと導けばそこにはまた違う未来もあったかもしれない。だけど、私は家族を失った時の絶望を、その復讐を誓った気持ちを、忘れ去ることが出来なかったのだから仕方ない。
未来よりも全てを終わらせる、…いや、終わらせてくれることを選んだ。
もはや消えゆくだけのこの場にふとした風を感じて、ルーシェンカはそちらを振り返り小さな嘆息を漏らす。
「…帰したはずなんだけど?」
「あれで俺を閉め出せるとでも?」
ちっとも悪びれずにそう言い放つのは、先ほど追い返したはずのかつての養い子――パーヴェル。それに対して、ルーシェンカはもう一度息を零す。
「思ってはなかったけど…。でもニーチカが戻ったから、もう直ぐここも閉じるわよ」
「もう少しは大丈夫だ。戻った時に確認してきたから」
「……パーヴェル、貴方…」
ルーシェンカの非難混じりの視線をものともせず養い子であり形式上の弟は不敵に笑った。
「もう遠慮はしないって決めたんだよ。だってニーチカこそが最終的にアンタが神に望んだことだろ? 余剰な力を持たない、だからしがらみもない、全てをまっさらにした自分。憂いも後顧もないアンタ自身。…それに、俺に対しての罪悪感もない」
「……」
「だったら遠慮なくいくさ。何も言われずに失う前にな」
「……グイグイ言ったら嫌われるわよ」
「アンタはそれで俺を嫌うか?」
「……」
無言になったルーシェンカに「ははっ」とパーヴェルは声をたてる。ルーシェンカは額に片手を当てた。
「ホントにもう…。 確かに私の働き…、いえ、贖罪を随分と喜んでもらったみたいで、幾つか望みを叶えてもらったわ。でも貴方はそれを知らないはずだけど?」
「聞いたから」
「誰に」
「神に」
「……何したの?」
パーヴェルは軽く肩を竦めてみせる。
「別に。ただちょっと前に間接的だが要らぬちょっかいを掛けてきたから話をしにいっただけだ。その時に脅……聞いた」
「脅…?」
「…まあ多少強引だったかもしれない」
額に置いていた片手にもう片方も添えルーシェンカは顔を覆う。
「私のせいでパーヴェルがこんな性格に…」
「いや、初めからだから。アンタだって知ってたろ? だから――」
一度言葉を切ったパーヴェルは少しだけ眉を寄せた。
「だからアンタは気にする必要なんてなかったんだ」
手を外し開かれた視界の先の、見目麗しい弟のちょっとふてくされた様子にルーシェンカは思わず笑ってしまう。
出会った頃は表情の乏しい少年であった。そして少しずつだが感情を見せるようになり、私の前では随分と表情が豊かになった。
そう、こんなふうに過ごした日々があった。
だけど終わらせたのはルーシェンカだ。
「……ね、パーヴェル、ニーチカをよろしくね」
私であり私でない少女からは、任せてくれと、太鼓判をもらった。だから次は――、
「そんなの当然だろ」
これっぽっちも迷いのない断言にルーシェンカはやはり笑って小さく頷いた。
そこにあるのはあり得たかもしれない幸福。きっと明るいだろう未来。
「……アンタは馬鹿だ」
「ちょっと…、最後にそれって酷くない?」
「これ以上ないくらい馬鹿だ」
「まだ言う…。…確かにそうかもだけど…」
二人の間に横たわる灰色の世界が、白くぼけてゆく。
「……そろそろ時間だね」
「……」
「じゃあね、パーヴェル」
「……」
「泣かないでよ」
「…泣くかよ」
「そう?」
「……」
「大好きよ?」
「…知ってる、そんなのずっと昔から」
「そう、良かった」
目覚めはもうすぐ。
**
閉じた視界に眩しい明るさを覚え、ニーチカの意識が浮上する。朝が来たのだ。
ベッドの上でまだ目を開けないまま背中を反らし「んん~」と伸びをするとコツンと肘が何かにぶつかった。
「いて、」
「…ん…?」
「…起きた方が寝相が悪い」
「んん?」
パチリと目を開く。えらく至近距離から、と言うよりも私の直ぐ後ろからちょっと掠れた声がした。聞き慣れた声だ。
( …え、パーヴェル様? )
いや、でも、ちょっと、待って…?
と、まだ少しボヤけた頭の中でニーチカは考える。
ここはどう見ても私の部屋、そしていつも寝ているベッド。そこに後から聞こえたパーヴェル様の声と、心なしいつもより温かく感じる背中。
「……………――はっ!? え、――わっ、ぶっ!」
一連の謎の奇声は、ビックリして慌てて起き上がろうとしたがお腹辺りに妨害があり、つんのめるように再びベッドに突っ伏した――である。
「なんだ…? 寝ぼけてるのか?」
とは背後から。ついでに言えば起き上がるのを妨害した、私の胴体に絡む腕の持ち主。
ニーチカはシーツにぶつけた顔をゆっくりと声のする方へと向ける。はたしてそこには緩やかに微笑むパーヴェル様。たぶん、きっと、そちらも寝起きだろうにそんな気配が一切見えない、朝から素晴らしいご尊顔。ニーチカはグググと眉を寄せた。
「……おはようございます、パーヴェル様」
「ああ」
「あの…、ところで、どうして私のベッドにパーヴェル様がいるんですかね…?」
私の硬い声なぞまるっと無視して、「そんなの、」とパーヴェル様は軽く片眉をあげる。
「さっき夢の中で会ったろ? つまりはそういうことだ」
「…や、そういうことだ、って…」
毎回それで片付けるのはどうかと思う。
が、やはり先ほど会ったパーヴェル様はそのまんまパーヴェル様であったらしい。
そう言えば夢に干渉する術とかなんとかと、ルーシェンカ様が言っていたな、と。
だけどだ。
「別に一緒に寝る必要はないのでは?」
「あるな、術の施行中は対象者に触れてなきゃならない。…って、言わなかったか?」
「あ、ああ…。…や、そこは聞いてないです」
「そうか。まあ実際アンタが気持ちよさそうに寝てたからつられたってのもある」
「つられ…」
いや確かに、本来の私は物凄く寝つきがいい。その上に、眠りも深いので一度寝たらちょっとやそっとでは起きない。孤児院のルームメイトからも良い眠りっぷりだとはよく言われた。とは言え。
「同じベッドはダメでしょう!」
「何でだ?」
「何でって! そりゃあ、お――、…お年頃なわけですし!」
「お年頃…」
「そう、お年頃です!」
ベッドの上で肩肘を付いたパーヴェル様が何言ってんだこいつ? って顔をするけど、こっちだって何言ってるかわかってないから突っ込みはなしで。それにしたって近いし近いし近い! パーヴェル様と違ってこちらの寝起き顔なんて見せれるもんじゃないっていうのに。
「ふ〜ん…」と小さく鼻を鳴らしたパーヴェル様は、赤らめた顔のニーチカをしばし眺めてから口を開く。
「でも恋人なら別に構わないだろ」
と、パーヴェル様はまだ腰に回していた手で私を引き寄せ、鼻先がパーヴェル様の胸にぶつかる。だから近いって!
これでは完全に抱きしめられてる形で、しかもベッドの上。
「ひょえっ」
「ふ、なんだその声」
「だだだだだってっ」
パーヴェル様が体を少しずらし、額を合わせてきて。いたずらに光る緑琥珀がニーチカを覗き込んだ。
「そんな挙動不審にならなくても、まだ何もしてないだろ?」
「だ――っ、や、わ、ま…、まだ……っ!?」
「ああ、まだ…だな」
甘く掠れた声、鼻先が触れ、近すぎる距離に全てがボヤけ認識出来るものはパーヴェル様の緑琥珀だけ。
これは、たぶんキスされる。
だけど、今、それを受けてしまうとちょっとダメな気がする。
この場所と状況、でも恋人同士なのだから別にダメではないのだけど、主に私の心臓が終わる。きっと。
「ちょっ! あの、パーヴェ――…、……わっ!」
これはマズいと止めようとしたところ、突然――、二人の僅かに空いていた隙間に金の光が飛び込んできて私の顔にペタリペタリと張り付いた。
「――え、え、なに!?」
視界は眩しい光に覆われて何も見えず、直ぐ近くでは「……燃やすぞ、この羽虫ども…」とパーヴェル様のとても物騒な声が聞こえる。そしてそこに、新たに加わったのは。
バンッ!と扉が開かれたような音がして、
「ニーチカ様!!」
慌てたスヴェートさんの声と、「…は」と息を呑む気配。その後直ぐに怒声が響いた。
「貴様! 何でニーチカ様のベッドにいる!」
「は、恋人なんだから不思議じゃないだろ」
「うるさい!私の目の色が黒いうちはそんなことは許さん!」
「お前いつから目の色黒くなったんだ?」
「これはただの慣用句だ!」
「……は…、面倒くさ。こいつも羽虫どもと一緒に燃やすか…」
相変わらず物騒な言葉を零すパーヴェル様だが、スヴェートさんの登場で意識が少しだけ逸れ、その隙にベッドから転がるように降りると金の光――精霊さんたちも私から離れた。
一応守ってくれてたようだ。その守ってくれた内容と状況が何とも複雑ではあるけれど。
まあ、私の心臓の平穏を守ってくれたことに変わりはない。




