37.
そこにいるのは二人の人物、…いや、一方は人と言っていいのか。
雄々しい人の肉体に獣の王の顔、背には翼を、肌には鱗を持つその者は、低く威厳のある声を放つ。
「彼の世界の女よ、此度の件は我が妹神の失態でもある。なのでこの世界にその方の存在を置くことを認めよう」
絶対者による宣言。その声を受けたもう一方、金髪金目の女性――ルーシェンカは、自分の倍はあろうかと思う獣面の神、スヴィスタールに向かい軽く膝を折る。
「ご配慮ありがたく承ります」
「うむ。……がしかし、言ったようにこれは特例であり追って来る者に同様の措置は出来ない」
「追って来る?」
「お前の養い子だ」
「ああ…」
「あれは少々規格外だ、妹神の手には負えんだろう。強すぎる存在力は世界の再構築の邪魔にもなるしな、あの世界にいるには得策ではないのも確か」
「……」
「……だが、あれは確実にお前を追って来るぞ」
どこか憐れむようにも聞こえるスヴィスタールの声にルーシェンカは視線を伏せ、しばし沈黙を落としたあと口を開く。
「もしあの子が追って来るようなら、出来れば時期をずらしていただけないでしょうか?」
「会わないようにすると?」
「…どうでしょう。会えるかもしれないし、会えないかもしれない」
「? ……まあ、よくわからんが、言ったように今回が特例であって次を招き入れることなどない。だからお前の願いを叶えることもないだろうよ」
「はい、ですのでもしもの場合です」
「ふむ」
獣面の神は立派なヒゲを聳やかす鼻面に手を添え、考える仕草をする。
「そうだな、全てが仮定のうちというのもなんだが、その願いに対してのこちらの利点はあるのか?」
「利点、…ですか」
「物事は全てに置いて対価が必要であろう?」
「対価…」
今度はルーシェンカが頬に手を当て、視線を宙に彷徨わせる。そして金の目を一度瞬かせた。
「では、掃除をいたしましょう」
「掃除、だと?」
「はい、こちらに来る時にあちらの世界の神様が一通りこの世界を見せてくれました。――で、そう思ったのです、掃除が必要だと」
「……ふむ、意味がわからんな」
神の表情は変わらない。本当にわからないのか、どうなのか。そこにはそれ以上触れずに、スヴィスタールは鼻面に添えていた手を解くと腕を組み続ける。
「まあ結果があればお前が言う願いは叶えよう。ただし、何度も言うが許可なき者に対しては存分に邪魔をするぞ?」
「それはご自由に」
「うむ。ならば好きにすればよい」
**
話はついたのか獣面の神様はそのまま姿を消して。ニーチカは「は…」と息を吐く。
これはルーシェンカ様の過去で夢の中、私はただの傍観者でありこの場には存在しない。というのに、息を潜めた上に身動きまで止めてしまっていた。
だってまさか神様と会うなんて思わなかったから。
( ってか、神様って本当にいたんだ… )
獣面の神様はスヴィスタール神だ。この世界を作った創造神。
そして話しに出ていた妹神と言うのがルーシェンカ様とパーヴェル様がいた世界の神様なのだろう。しかし話の流れからいくとルーシェンカ様は、その妹神の失態でこの世界に来たようだ。召喚という体で。
しかも今回だけ的なニュアンスだったが、その後も何人もの勇者や聖女が召喚されてるってことは、他の神様も何らかの失態をして、その全部をこの世界で受け入れたってこと? ちょっと失態多すぎない?
それにしたってスヴィスタール神ってばお人好し過ぎないか、いや、神様だけど。尻ぬぐいを全部って…。
( 結局、パーヴェル様だって受け入れちゃってるし… )
まあでもそれに関しては一悶着あったっぽくは感じる。この前の聖剣紛失の件を含めて。
ひとつ息を零して思考の中から浮上したニーチカが顔をあげると、金の双眸と目が合った――、気がしてドキッとする。けどそんなわけない。たまたまこちらの方を眺めただけだろう。
金髪金目のルーシェンカ様とほぼ茶色に近い金茶色の目と髪の私。色の違いが顕著過ぎてぱっと見では直ぐにはわからないが、確かに似ている気もする。私がもう少し歳を取って色を変えれば。
( ……そうか、ルーシェンカ様は絶世美人ではなかったか… )
しみじみとそんなことを考えているとルーシェンカ様の眉が寄った。――え? まさか、聞こえた?
( …いやっ、いやいやいや、そんなまさか )
こっちに気づいてる、だなんてことはないよね。だって声にさえ出してないもの。それにここは過ぎた過去の記憶、私の登場などあり得ない。
だというのに、ルーシェンカ様は完全にこちらを向いていて、ついでのように大きなため息を吐いた。
「…夢にまで干渉出来る術は持ってなかったはずだけど?」
そして零される声。
( ん? え、もしかして私に話しかけてたり? )
戸惑う私に代わり、背後からルーシェンカ様の言葉に答える声が返った。
「こちらの世界の本から学んだ」
「――えっ! はっ!? …パ、パーヴェル様!?」
振り向いたニーチカは直ぐ後ろにいるパーヴェル様の姿にギョッと目を剥く。
( え、え? 何でここに!? いつの間に!?)
元々の時間軸でもここにいた――なんてことは、これまでのパーヴェル様の言動からすればないだろうし、そもそもルーシェンカ様は今『夢にまで』と言った。つまりはこの状況をそうだと理解しているってことだ。
( え? てことはこれはただ過去の一片を切り取ったものではないってこと? )
混乱するニーチカの頭にパーヴェル様はポンと軽く手を置くと、そのまま横を通り過ぎてルーシェンカ様の元に向かう。そして対峙した二人。
今から起こるだろう感動の再開劇を想像してニーチカの胸にチクリとした痛みが走る。だって、パーヴェル様が本当に望んだ正真正銘のルーシェンカ様が目の前にいるのだ。
同じであっても同じでない。人を形取るには記憶は不可欠で、二人で過ごした記憶を私は持ち得ない。だから真実に私はルーシェンカ様にはなれない。
だけど感動というには余りにも静か過ぎる声がパーヴェル様の口から零された。
「ルーシェンカ、アンタの望んだ通りになったよ」
「……」
「気づいてないとでも思ったか? 俺はアンタしか見てないのに気づかないはずないだろう?」
「……」
ルーシェンカ様は詰めていた息を吐き出すよう短く嘆息する。
「…知られたくなかった、って言えば信じる?」
「言って欲しかったとは思う」
「ふふ…、答えになってないわね」
「こんな回りくどいことしなくたってアンタが望めば俺は――」
「知られたくなかった」
パーヴェル様の言葉を少し強い声が遮る。緩やかに微笑むルーシェンカ様。
「それが、本当に、本心よ」
「ルーシェンカ?」
「――さ、パーヴェル、貴方はさっさと戻りなさい。どうせ本人の許可なくここに来たでしょう。それは流石にいただけないわ」
「おい、待てルーシェンカ!?」
ルーシェンカ様がスイと腕を伸ばす。どうやら動けないらしいパーヴェル様はギリリと歯を鳴らした。
「何をしようとしても無理よ、この場に貴方の主導権はないもの。だから早く戻りなさい」
「待て、まだ話が!」
「話なんてないわ、私はもう過去の人物よ。だから――、」
伸びた指先がトンとパーヴェル様の額を突いた。
「さよなら、パーヴェル」
何かを言おうと、パーヴェル様の口元が動いた。けれどそれは音にならずにとても憤った表情だけを残してパーヴェル様の姿は消えた。
……いや、パーヴェル様がこんな簡単にあしらわれるなんて。
「ルーシェンカ様すごい…」
思わず漏らした感想にルーシェンカ様がパチリと目を瞬かせる。
「あら、だってここは貴方の意識下の世界だもの邪魔者は排除出来るわ」
「邪魔者扱い…」
「言い方が悪かったわね。余計なもの?」
「変わらないのでは」
とっても自然に会話してるけど、ルーシェンカ様はやっぱり私の存在を認識していたのだ。私を見つめる金の目が緩く細まった。
「それで、私であるけど私でない貴方、名前を聞いていいかしら?」
「えっ、あっ、ニーチカといいます、はじめましてルーシェンカ様」
「うん、はじめましてニーチカ。たった一度の邂逅でしかないけど、貴方に会えて良かったわ」
「えっ、たった一度…きり、…ですか?」
続いた言葉にニーチカは瞬時に眉を下げ、その反応にルーシェンカ様はきょとんとした顔をする。
「だって私は貴方だもの。同時に存在することの方があり得ないわ」
「え、や、それは…」
さっきからも度々そうとは言われてたけど、『私は貴方』と本人からはっきり言われてしまうとちょっと動揺する。でもそれはよくて。
「あの、でも今、こうやって顔を合わせてますよね…?」
「ええそう、貴方の思いが強ぎて引きずられてしまったわ」
「私の思い?」
頷いたルーシェンカ様は少しだけ困ったような表情を作る。
「たとえ同じであっても貴方はニーチカでニーチカでしかないの。だから私のことなど気にしなくて良いのに」
「ああ…」
なるほど。私が何度も『ルーシェンカ様は――』『ルーシェンカ様が――』と心の中で問いかけていたからか。
ルーシェンカ様はピンと人差し指を立てた。
「なので、さっきも言ったようにこれは一度きりのチャンスよ」
「チャンス…?」
「そう。それで、貴方は私に何を聞きたい?」
そう言ってルーシェンカ様はニコリと笑い。その笑顔は、確かによく見慣れたものだなと、ニーチカは改めて思った。




