32.
「……………は?」
男はポカンとした顔をする。
「聞こえなかったか? だからこの国がどうなろうがどうでもいいと言ったんだ」
「は? …いや、でも…、国がなくなればお前も勇者としては――」
「成り立たない、って?」
パーヴェル様は器用に片眉をあげて小さく笑った。
「それも全くどうでもいいな。大体お前、その体になってから色々と噂を聞いてたろ?」
「…噂?」
「俺の一番はニーチカだ、ってことを。あとは勇者だろうが国だろうが何だろうがどうでもいい」
あまりにも潔い回答にニーチカは目を剥いた。だって、その引き合いの対象が私なのだから。
これは流石に男も引いてるだろうとそちらを見て、違う意味でニーチカはさらに大きく目を見開く。
「……お前は、…本当に…」
脱力したように肩を落とし、力なく声を零した男。こうまでして男が求めたものはパーヴェル様にとっては何の価値もないものであり。
パーヴェル様の緑琥珀の双眸に一瞬憐れみのような色が浮かんだが直ぐに消え、淡々とした声で告げる。
「時間切れだな」
「…時間、…切れ?」
「ああ。残念ながらお前は国を滅ぼすことは出来ない」
「は…、はは…、何故? まだ聖剣はこの手にある。まだ始まったばかりだ」
「いいや、終わりだ。自分の体を見ろ」
「…は?」
パーヴェル様に言われてチラリと視線を落とした男は驚愕に目を見開く。
「何故っ!?」
「当然だろ、たかが一本の剣で防げるほどチェムノータの悪意は浅くない」
男が驚いた理由、そして私がさっき驚いた理由。
いつの間にか下半身を黒泥に飲み込まれた男は驚き藻掻くが既に遅く。パーヴェル様は静かに告げる。
「お前はこの場で負の感情を露わにし過ぎた。取り込まれるのは当然だ」
「だが聖剣がっ」
「言ったろ? その剣にそこまでの力はない。しかも使い手が悪意に染まれば尚さら」
「使い手が悪意…」
自覚したからか男を飲み込む黒泥の勢いが増す。
「…はは、ははは…、結局…俺は最初から勇者にはなり得なかった、てことか…」
徐々に体を黒く染める男に「そこがお前の間違いだ」と答えたのはパーヴェル様。
「自分は自分、それをわかっていてこそ他のものになり得る。お前は初めに勇者ありきとしたことで失敗したんだ」
男は軽く目を瞬いた――後、くっと頬を歪める。
「………ふ、はは…、最初から全て持っている奴に言われてもな…」
嫌みと言うにはそこにトゲは見えず、パーヴェル様も会話を返すことなくスルーして。男の視線がふいと逸れニーチカの前を過ぎる。
つきものが落ちたようなその顔は、当然だがアントンさんであり。
だからとて「助けてあげて」とパーヴェル様に願うのはどちらに対しても違うと思った。
そして、ただ見守るニーチカの目の前で、アントンさんだった男は黒泥の中にあっさりと消えた。
鼻の奥をツンとした痛みが抜ける。
今の男より、アントンさんであった彼との思い出が多いのは当たり前で、ニーチカは俯きそうになる。――が、今はそんな場合ではない。
黒泥の中、持ち手を失い沈みゆく煌びやかな剣にニーチカは慌てる。
「――パ、パーヴェル様、聖剣が!」
「ああ…」
「『ああ』、じゃないですよ! 早くしないと沈んじゃいます!」
「その方がいいだろ」
「えっ!? …いや、…え?」
パーヴェル様の言葉にニーチカはぱちりと目を瞬く。
え、どいうこと? 沈めちゃうってこと?
「いやいやいや、駄目ですよ!」
「何故?」
「何故って…、だってあれは勇者の証で、希望じゃないですかっ」
「希望の象徴が欲しいなら別に剣でなくてもいいだろう? 別に勇者と言う存在自体が希望でもいいはずだ」
「でもそのためには聖剣が――」
「成鳥が先か、卵が先か」
「――え?」
尚も言い募ろうとしたニーチカの声に割り込ませパーヴェル様が言う。
「自分の世界のことは自分たちの世界で解決するのが当然だろ? 他世界から人を呼び寄せ聖剣でもってして勇者に仕立て上げるなんてことの方がおかしい」
そうだろ?とパーヴェル様。
「聖剣なんてなくても、己の力と意志があれば勇者にはなれる。聖剣に選ばれたってだけの勇者よりは、世の中を真っ当に正せるさ」
「それは…」
それは確かに一理ある。いや、一理だけじゃなく、最初の部分においてはその通りだ。召喚なんてものはとても傲慢で他力本願なものだ。
それでも、『だけど』とも思う。
誰もパーヴェル様ほどに強くないって。意志を貫けるのだって強さがあればこそだ。
私の何か言いたげな顔を見て、その理由をきちんと理解して、パーヴェル様はちょっとだけ皮肉げに笑う。
「だからこそ勇者なんていらないんだよ。個人の突飛した力がないなら集団で行えばいい。そのために騎士団があってそれを束ねる者がいて、そしてその全てを纏め上げる王がいるんだろ」
なのに――、とパーヴェル様は続ける。
「それだけの頭が揃っていて考えた結果が召喚だなんて、……まあ、滅んでも仕方ないな」
急に強引な結論きた!
「いやいやいや、駄目ですって!」
二回目の駄目出しをしてから、私こそ完全に他力本願…いや、パーヴェル様本願ではあるが、ニーチカはぐっとパーヴェル様に詰め寄る。
「一旦この瘴気を何とかしましょう!」
「何とかと言っても、聖剣を取り込んだから満足したろうし、放っといても収まるだろ」
「え? 聖剣を取り…――あ!」
思い出して聖剣があった場所を見るがそこにはもう何もなく。ニーチカはガクリと肩を落とす。
「ああぁ…、聖剣が…」
「だからいいんだよこれで。 聖剣には浄化作用もある」
「…浄化? 瘴気が浄化されるってことですか?」
「されるだろ、何れ。一応神が創ったものだ。でも瘴気の規模に対してあの剣一本じゃあ何百年かかるか」
「何百年…」
「ただしそれを上回る勢いで悪意が増えりゃあそれさえも叶わないだろうけどな」
「……なるほど」
どちらにしたって今ではなく。さしあたりの問題は。
「聖剣はもう仕方ないですけど…、これ…、放っといたら収まるっていうのはいつ頃です?」
ニーチカのその質問に、今は勢いを落とし地表をうごめく黒泥へとパーヴェル様は視線を向けた。
「……まぁ一月ほどかな」
「えっ! 一月!? 」
「ああ、アンタは気にしなくても移動は――」
「あ、いえっ、私じゃなくて、ここはこのままってことですよね?」
「そうなるな」
途端ニーチカの眉尻が勢い良く下がる。
黒泥が湧き出たここはニーチカの一等好きな場所。ランドリーメイドを辞めたあとでも暇を見つけては来ていた、シーツがはためく広場。
こうやって黒泥に覆われていては当然洗濯ものなんて干せないし、一ヶ月も瘴気にさらされていれば元に戻るのなんて更に先になるだろう。むしろ、半永久的に立ち入り禁止となりそうだ。
しょんぼりとしたニーチカの隣で「…はあ」とパーヴェル様が深く息を吐く。
「…仕方ないな」
「え?」
「消してやる」
「え、消す? …――ちょっ、パ、パーヴェル様!?」
突然スタスタと黒泥へと向かっていくパーヴェル様に、ニーチカはぎょっとして慌てて止めようとするが、振り向いたパーヴェル様がピシッと指を突きつける。
「アンタはそこにいろ」
「いやでもだって」
「大丈夫だ」
そう言ってまた足を進めるパーヴェル様にニーチカは追いすがろうとしたけれど、逆にこちらの足が進まない。パーヴェル様が何かしたのだ。
「パーヴェル様!? …っパーヴェル様!」
ニーチカは大きく声を張り上げる。
パーヴェル様は大丈夫だと言うけど、パーヴェル様がくれた耳飾りと腕輪でも駄目だと本人が注意をした上に、聖剣だって飲み込まれたのだ。大丈夫だと思える要素がひとつもない。
パーヴェル様に自己犠牲っていう選択は確実にない。それはこれまでの付き合いで断言出来る。けど、傷を負っても死ななければいいとは、自分自身にも思ってそうで。
「パーヴェル様!!」
さらに声をあげたニーチカは、でも――、その先に見えた光景にしばし言葉を失う。
黒泥の中に躊躇いなく一歩足を入れたパーヴェル様、瞬間にその周りの黒泥に空間が開く。一歩、一歩、進むごとにポッカリと開いていく空間。
( 黒泥がパーヴェル様を避けてる? )
…いやでも何か違う。と、じっと目を凝らせば。避けてるのではなくその逆で。
黒泥はパーヴェル様へと吸い込まれて、そして消えているように見える。
( ……確かに、『消してやる』とは言ったけど…? )
足取りを緩めることなく揺らめく黒い大地の真ん中へと進むパーヴェル様を、取り囲むように黒泥が高さを増しその姿を飲み込んだ、――ように見えた。
「……パ…、パーヴェル様?」
明らかに絶体絶命的な状況であるけれど、さっきまでの光景を見てるだけにニーチカが呼びかける声には心配よりも戸惑いと疑問が大半を占める。
たぶんだけど、本当に大丈夫だ。
恐らく何とも微妙な顔をしてるだろうニーチカの目の前、大きな黒い壁と化した黒泥は瞬き繰り返す間に徐々に小さくなり。周りの景色が見えるようになる頃には、人の形をした黒い影となり、それもひとつの瞬き後には見慣れた姿になった。
当然結果は何となく予測していたけれど、ニーチカの口から零れ出た声は、
「……………えぇ…?」
今見た事実を受け入れ損ねた戸惑いの声。
そんな小さな声を聞き取ったパーヴェル様が振り向く。このゴタゴタですっかりと意識の外にやっていた正装のパーヴェル様はひとつの乱れもなく。
「――な、大丈夫って言ったろ」
そこは割りとどうでもいいことを自慢げに言う、その眩しい正装姿に、ニーチカは「……そうですね」と答えることしか出来なかった。




