23.
おかえりなさいってせっかく伝えたのに、パーヴェル様は次の日にはまた遠方へと行ってしまった。今回も戻る日程は未定だ。
「チェムノータの淵かぁ…」
シーツが風になびくのを仰ぎ見ながらニーチカは呟く。
まあいいかと流したことだけど、パーヴェル様もいないしやることもないので何となく考えに耽る。
パーヴェル様は的なと言っていたけれど、『チェムノータの淵』とは、創造神スヴィスタールが己の中の良くない感情を捨てるために穿った大きな穴のことだ。
そういえば、前にパーヴェル様が言っていた、瘴気は人の悪意から生まれるって。つまりは良くない感情。
ならばチェムノータの淵っていうのは神様が作った馬鹿デカい瘴気溜まりってことになるのか?
「…でも、神様が瘴気を生み出すって…?」
小さく吐き出した疑問に、
「おい、何ブツブツ言ってんだ?」
――と、声がかかる。それにビクッと体を揺らすと、寄りかかっていた背もたれもピクリと動いた。
「ちょ…っ、ミハイル、いきなり背後から声をかけるのは止めてよ」
振り返ったニーチカはシーツの隙間から現れた幼馴染を睨む。
アティニアの使節団はとっくに帰ったというのに、汚れが目立ちそうな白い騎士服を着たニーチカの幼馴染ミハイルはまだこの国にいる。
というのも、聖女であり王女であるリディア様が筆頭聖女を降り還俗するという話が何処からともなくあがってきて、向こうとこちらで現在対応に追われているところなのだ。
そして当のリディア様はその事には笑顔で沈黙を貫き、そのためにリディア様を守る神殿騎士団たちもまだここにいるわけだが。
どう考えても原因の一端であろうハイルは、知ってか知らずかその態度にあまり変化は見えない。
「何度か声をかけたんだぞ、そっちが気づかなかっただけで」
それよりも――と、一旦言葉を切ったミハイルは、片眉だけを器用にあげてニーチカの後ろで背もたれとなってる存在を見つめる。
「猫だけじゃなくて、獅子にもなるんだ」
「失礼だな、小僧。猫は取りあえずで、こちらが本当だ」
「わっ、喋った?」
目を丸くするミハイルにニーチカは言う。
「あれ? ミハイルの前では話してなかったっけ?」
「ああ。でも普通に耳で精霊の声を聞けるなんて。ふーん…、何か斬新だな」
「驚くのそこなんだ」
まあミハイルは元々精霊の声を聴ける人だから、話す獅子を前にしても目を丸くするだけ。
…そう、今 私の背もたれと化して地面に伏せているのは聖獣としての本来の姿となったスヴェートさん。直ぐ横にある立派な金色のたてがみをさらりと撫でるとグルルと低く喉を鳴らす。
聖女――と認定されたニーチカに、それが本当だと周知させるための手っ取り早い方法がこれ。聖獣を側に置き精霊の愛し子だということを見せつけること。
そのためにスヴェートさんは光の聖獣である黄金の獅子の姿で、しかも喋れることも解禁となった。
でも、見せつけるってどうなの?と思うのだが、リディア様とパーヴェル様からは抑止になるのでしっかりやれと言われた。…抑止って。
そもそもそんな巨大な獅子を連れ歩けば誰も寄っては来ない。ただしミハイルの目はキラキラしてるから『かっけぇ』とでも思ってるのだろう。
やることもなくシーツの波を眺めている私と、それに付き合うスヴェートさん、そしてその目の前にミハイルも胡座をかいて座った。
望まぬままにランドリーメイドはお役目御免となったけれど、その白いズボンで地べたは凄く気になるんだけど。
そんなニーチカの凝視を気にも止めず、思い出したようにミハイルは言う。
「なあ、ニーチカ。お前さっきチェムノータの淵って言ってた?」
「えっ、ああ…、聞こえてたんだ」
「それってさ、勇者様が何か言ってたから、だったりする?」
「えっ?」
私の驚きを肯定と見たミハイルは「そうか…」と腕を組むが、別に頷いたわけではない。
「ミハイル、私まだ何も言って――」
「聖女様もさ、」
「え?」
「この瘴気の大量発生はチェムノータから溢れたんだろって言ってんだよな」
「えっ、そうなの!? …いやでも、チェムノータの淵なんて、そんなの伝説話でしょう?」
結局そこが一番の引っかかりだ。だって現実味がなさ過ぎる。だからこそ首を傾げるニーチカに、ミハイルはそりゃ当然と言う。
「まあチェムノータってのは隠語みたいなもんだから」
「隠語?」
「目につかない場所で広がりつつある馬鹿デカい瘴気溜まりがあるってこと」
「ああ…」
そこは私がさっき考えてたことと同じだ。神様云々を抜いただけのこと。
だけど、パーヴェル様がわざわざそんな隠語なんてものを使うんだろうか?
ニーチカは傍らに伏せられている大きな獅子の顔を覗き込む。
「………概ね間違ってはないですよ。この地表の下にそれはある。 かといって掘ったって出て来るものではないですけど」
「じゃあ勝手に溢れた? それともきっかけがあると?」
「……」
続きで尋ねたミハイルにスヴェートさんは沈黙で返す。でもそれは別にミハイルだからとかじゃなくて、私が尋ねていたとしてもきっと同じ。よくわからないけど、スヴェートさんは話す内容に制限があるみたいなのだ。
そしてこれまでの話の流れをみるに、その制限はパーヴェル様がしたものでパーヴェル様に関連するものに限る。――ってことは。
( …何かしらパーヴェル様に関係があるってことだよね、今回の件は )
スヴェートさんからこれ以上聞き出すことを諦めたニーチカは視線を外しミハイルを見る。
「ね、ミハイル、リディア様は他に何か言ってた?」
「さあ、どうだろ?」
「どうだろって」
「いや、あー…、うーん…」
「何よ? その微妙な反応?」
「まあ、その…、…今は、あまりリディア様の側にいない方がいいかなって…」
「……それって…」
ニーチカの金茶の目がスッと半眼になる。
この幼馴染は昔から割りと人の機微には敏感だし機転もきく人間だったことを思い出す。ならば当然リディア様の秘めたる想いにも何となく気づいていたはずだ。その上でのこれ。
ニーチカは一言言ってやろうと口を開いたが、しばらくして思い直し口を閉じる。
…まあ確かに、相手が相手だ。筆頭聖女様な上に王女殿下。ミハイルがリディア様に対してどう思っているかはわからないが、どちらにしたって難儀な相手であることは間違いない。
ただそれに私が口を挟むのもどうだ? だって私も大差ない立場であるわけで。
「あ、そうそう、勇者様なんだけど――」
と、話を逸らすためにかミハイルが口にした勇者様こそ私の難儀な相手。
「パーヴェル様? 今はいないけど?」
「ああうん、瘴気のせいで地方に行ってるんだろ、それは知ってる。じゃなくて、勇者様って聖剣を持って行ったか?」
「聖剣…?」
ニーチカは首を傾げる。はて、どうだったろうか?
「…たぶん、持ってなかったと思うけど?」
出て行く時に見たパーヴェル様はとても軽装であった記憶だ。大体そんなキラキラした聖剣を帯剣していれば流石に覚えているだろう。
――というか、最近部屋の中でも聖剣を見てないことにニーチカは気づく。
「で、聖剣がどうかしたの?」
「ああうん、最近さ、町で聖剣らしきものを持った人がよく見かけられるらしいんだよ」
「え? パーヴェル様が?」
「いやそれが、勇者様が町にいない時にも目撃されてんだ」
「え…、何、どういうこと?」
「だから、偽物が出没してるんだろうなーて、思ったんだけど。…勇者様、聖剣持っていってないのか」
「持っていって…というより、ここのところ私、聖剣見てないかも」
「えっ!?」
ミハイルが驚きの声をあげる。
「何よ、そんなに驚くことあった?」
「や…、じゃあ、聖剣は本物なのかな…って」
「本物って……――ええっ!?」
今度は私が大きな声をあげた。
いや、それって……、
( もしかして盗まれたってこと!? )
大変じゃないか!と動揺するが、ミハイルによって直ぐに否定される。
「いや、それはないか」
「…は…」
ニーチカは肩透かしを食らって軽く息を零す。なんなんだ。
「……えーっと、何、それは本物じゃないってこと? それとも盗まれたんじゃないってこと?」
「は? 盗まれたって…。 あの勇者様から何か盗める人間なんているのか?」
「……うん…、いないだろうね」
「だろ? じゃなくて、聖剣って誰もが扱えるものじゃないから」
「そうなの?」
「ああ。普通の人は鞘から抜くことも出来ない」
「へえ」
それではやっぱり両方ともに偽物だということか。だけども、ミハイルの顔は晴れない。
なのでその理由を尋ねてみれば。
「俺の同僚もその偽物を見てんだよ。で、そいつが言うには聖剣は絶対本物だったって…」
「でもその日パーヴェル様は町にいなかったんだよね?」
「そうなんだよ。しかもそいつ変なこと言っててさ」
と、眉を寄せたミハイルは同僚が見たという話をニーチカへと語った。




