22.
再開します、全十二話です。
自分がいるべきだった場所を、自分が受けるはずだった恩恵を、掠め取るように奪い去った者がいる。
しかもそいつは、その位置にただ甘んじているだけで努力もしなければ率先して動くこともない。
それが当然にまかり通る理不尽さ。
そしてもし今そのことにこちらが何かを言ったとしても、嫉妬や単なる言い掛かりだと捉えられるだろう。
心の中にドロドロとした淀みが増えていく。
今のなにものでもない自分では、全てを奪い去った簒奪者までは遠い。
力や立場、その他諸々が、遥かに遠いのだ。
ただ、それでも切り札はある。
足元にある深淵のような黒い大きな穴を見下ろす。光も通さない黒ぐろとした穴だ。
もし落ちたら二度と這い上がってはこれないだろうと思わせる闇。ジッと見つめていると吸い込まれそうになる。
だけど――、
その感覚は間違ってはいない。
これは神が己の中の要らぬものを廃棄した穴で、この世のあらゆる負の感情を飲み込む。
だからこそ、自分の中にある淀みもまたこの闇に惹かれるのだ。
そして溜まりに溜まったそれらの行く末は?
神の見積りはどこまで正確だろうか?
真っ黒な平面がトプンと揺れ波紋が広がる。
小さな輪は徐々に大きくなり、その様子に「フ…」と堪えきれず息が零れた。
「……それじゃあ、ひとつずつ返してもらおうとしようか」
**
こんにちは、いつの間にかランドリーメイドから聖女になってしまったニーチカです。
だけども、今は絶賛職なし中の身の上だったりする。
というのも。
「――ね、スヴェートさん。あの、パーヴェル様は大丈夫ですかね?」
「ニーチカ様、あの男に心配など無用ですよ」
「うーん、そうかもしれないですけど…」
しれっとそう言い放つスヴェートさんは、ソファーに座る私の膝の上で。その背を撫でながらニーチカは眉尻を下げる。
今いるこの部屋の主、パーヴェル様は一昨日から不在である。
そして私はと言うと、聖女という名を授かった、…いや、ほぼ強制的に押し付けられてしまったわけだが、それは勇者あっての聖女であって。
パーヴェル様がいなければ私はただの職なしなのである。
「…でも、なんで急にそんなに沢山の瘴気が湧き出したんだろ」
「それはあいつがサボってたからでしょう?」
「え、…あ、あー…」
私の零した呟きに対して「自業自得ですよ」と答えたスヴェートさんは撫でる手に合わせて気持ちよさそうに尻尾を揺らめかす。そのスヴェートさんの姿は現在金茶猫で、私の癒しのために猫の姿になってもらっている、…はずなのだが、偉く寛いでますよねスヴェートさん。
ニーチカは「うーん」ともう一度唸る。
スヴェートさんが言った言葉は確かにパーヴェル様本人が口にしたことだ。だって私自身が耳にしたことだから。
それでも、地方の結界に関して前にパーヴェル様は言ったのだ、――余程のことがない限りは大丈夫だと。
なのに。
今パーヴェル様がここにいない理由が、その地方で瘴気が湧いて出たからだということ。しかも、パーヴェル様が補強したという結界内で。
だからこそ、何か大変なことが起こってるんじゃないか? って思ってしまう。
あまり芳しくないニーチカの反応に、スヴェートさんが身を起こしこちらを振り仰ぐと、ピンと張っていたヒゲが僅かに下げられる。
「ニーチカ様…、あの男に関しては本当に思い詰める必要はありませんよ?」
困ったような口調だ。当然、私よりもスヴェートさんの方がパーヴェル様の力量を正確に把握しているだろう。
「うん…、パーヴェル様が凄いってのはわかってるんですけど」
それでも、絶対なんてない。それは世の道理。
晴れぬニーチカの顔を見てスヴェートさんが更にヒゲを下げ、仕方ないと口を開く。
「契約上、私が口に出来る範囲は限られるのですが」
「契約上…?」
「あ、いえ、そこはお気になさらずに。…そうですね、まぁあの男はいうならば、人間しかなり得ない『勇者』というカテゴリよりは更にその上の――」
「おい、俺は勇者以外の何者でもないぞ」
スヴェートさんの声を遮ると同時に、なんの予告もなく突如現れた人影が横からニーチカの体をさらった。
「えっ! わっ、パーヴェル様っ!?」
「戻った」
「えっ、…や、はい、おかえりなさい?」
「ああ」
( じゃなくて… )
隙間なく、でも苦しくなく、ニーチカの体を絶妙に拘束するのはパーヴェル様。
私が癒しとしてスヴェートさん(猫)と触れ合うように、最近のパーヴェル様はこうやって私を囲い込むことで癒し(?)とするのが日課となった、…のだけど。
……慣れない、慣れるわけない。
皆がそれだけは認める、パーヴェル様の大層見目のよろしい尊顔が私の肩に寄せられ、否応もなく目の端に捉えてしまう。
しかも一昨日ぶりだ。一旦跳ねた心臓が戻る気配はない。確実に私の寿命を縮めにきてる。
なので――、前にちょっと控えて欲しいと訴えてみたのだけど。
「アンタの温もりと鼓動をこうやって直接感じれることが俺の糧となり癒しとなるんだ」
――と。
そんなものが?と思うが、本人からそう言われてしまえば色々と飲み込まざるを得ない。
私が硬直してしまうため、恋人同士のハグというよりも拘束とか囲い込みという呼び方が相応しくも見える若干一方的な抱擁を経て。
満足出来たのか少しだけ体を離したパーヴェル様は、現れたと同時に私の膝から払い落とした――そこは猫なので無難に着地した、スヴェートさんを見やる。
「あまりおかしなことを話すなよ」
「まだ何も話してはないだろう。そもそもお前がニーチカ様を心配させるのが悪い」
猫の姿から金色を纏う麗しき男性へと戻ったスヴェートさんはちょっとだけ眉を寄せて「それで、」と続ける。
「今回これだけ戻るのが遅かったということは調べてきたのだろう? 原因がわかったのか?」
「……え?」
調べて? 原因?
それはもしかしてとパーヴェル様を見上げる。
「…は、別に大したことじゃない。今さらに修正しようとでもしてるんだろ」
「修正? それはどちらがだ? された方か、した方か」
「動いたのは、されるべきだったヤツだな。…まあ結局はどちらも、というか」
「…おい…、話がついていたからこそ、お前は『勇者』として召喚されたのではなかったのか?」
「はっ、そんなこと知るか。俺はやれと言っただけだ」
「お前…」
呆れたため息を吐いたスヴェートさん、それで話を終えようとする様子にニーチカは慌てる。
「やっ、ちょっと待って下さい! 私、全然わからないんですけど?」
そう訴えればパーヴェル様の緑琥珀な目が私にへと下りた。その目は完全に、別にわからないままでいいだろう、と語っている。
けど、そうはいくか。
二人の今の会話は現在パーヴェル様が忙しくなっている原因、瘴気が彼処で湧き出した件のはずなのだ。
「パーヴェル様、私、割りと心配してたんですけど」
「でもちゃんと戻ったろ? 俺がたかが瘴気ごときでどうにかなるとでも?」
「思いませんけどっ、…それでも絶対に安全だとは言い切れませんよね? ちょっとしたことで怪我だってするし、その怪我が大きな過失に繋がるかもしれないじゃないですか」
「…っ」
一般的な常識として何気なく放った一言だったけど、思ったよりもパーヴェル様の心を抉ってしまったらしい。…いや、スヴェートさんもか。
何故だかわからないけど酷く沈痛な面持ちとなってしまった二人。
暫くして「はあ…」と息を吐き、私を囲い込みから解放したパーヴェル様はソファーに背を預けた。
「……前に、アンタが話した穴の話があったろ?」
「えっ?」
「『チェムノータの淵』ってやつ」
「あー、はい、…話しましたね?」
ただしパーヴェル様には軽くあしらわれたと記憶してる。でも覚えてるってことは一応ちゃんと聞いてくれていたようだ。それよりも。
( 説明してくれると思ったのだけどなんで急にその話? )
ニーチカは怪訝に眉を寄せるが、パーヴェル様は気にせず続けた。
「まあ、あれ的なものが実際にあって」
「えっ!?」
「そこから溢れ出たものが今回の瘴気だ」
「ええっ!!」
…そんなさらりと。
どこから突っ込めばいいのか。
神話な話が急に現実として出て来たことか。それともさっきの二人がしていた会話とは全く関係なくない?ってとこか。
「あの…、えっと…、」
寄せた眉毛が今度はハの字に変わる。
実際、私が知りたかったことは知れた。けれど知りたかったのはそれじゃあないってこともわかった。
「…取りあえず、パーヴェル様は大丈夫ってことですね?」
「あれぐらいでは」
「怪我、とかもありませんよね?」
「そんなヘマはしない」
「ヘマ…」
言い方…、と思うが。パーヴェル様が大丈夫で怪我もない、そして今、いつもと変わらない姿でここにいる。
――だからいいかと。
私が気にするのは結局のとこそれだけ。
ニーチカはやっと表情を綻ばせて、もう一言う。
「おかえりなさい、パーヴェル様」




