13.
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彼女の願いは違えることの出来ない絶対。
強く請われた願いだったから、側を離れることも仕方ないとし従った。 遠くで、彼女の魂が消えたと気づく、その瞬間まで。
輝く清らかな魂。私たちの愛しい子。ずっと見守って育んで慈しんできたルーシェンカ。
それなのに、人間たちの浅はかな考えから要らぬ厄災を押し付けられ、その厄災のために彼女が犠牲となった。
許さない、許すことなど出来ないのに。私はその手に乗ることを選んでしまった。
ルーシェンカを見失った場で茫然としていた私の目の前に現れた、その厄災であり元凶である男の手に。
『ルーシェンカが…、生きてる…だと?』
『ああ、世界を渡った先にいる』
『世界を、渡った…』
私たちを作った創世神、それは唯一ではないとは知っている。世界は無数にあり、それを統べる神もまた。
そのどこか別のひとつにルーシェンカは生きているのだという。
『お前も連れてってやろうか?』
含みのあるその表情をみれば、ただ純粋な親切からではないことはわかっていた。わかっていたが、もし一縷の望みがあるのなら、何をもってしても縋ってしまうに決まっている。自分の矜持など彼女の存在に比べればないに等しい。比べることさえ無意味だ。
だから躊躇うことなく頷くと、厄災である男、パーヴェルは、随分と荒んで窶れてはいたが精霊である自分が一瞬囚われるほどの凄みのある笑顔を見せ、割れた天に向かって高らかな哄笑をあげた。
喜びを通り越した狂気。
頷いてしまったことをほんの僅かだけ後悔する。
この男はルーシェンカを思うあまりにこの世界を壊し、『勇者』から『魔王』にまで一気に転落した男だ。 そんなやつを、ルーシェンカの元へと向かわせていいのか? と。
けど、浮かんだ迷いは、直ぐに喉の奥へと飲み込んだ。
――ルーシェンカに会えるのなら。
結局、私も魔王と大差ない。
光の精霊の王でありながら、ルーシェンカについて行かずに残った精霊たちが、この世界と共に滅ぼされるのをただ傍観していた。
そして荒野とかした世界。最後に彼女が請うた願い、守ってと言われた人々は、全て死に絶えた。
それを願ったルーシェンカがいないのなら、もう必要がないと思ってしまったから。
パーヴェルは向こうへ渡るための対価として、私がルーシェンカに出会ったとしても己の存在が不利になるような言葉は伝えられないように制限をかけ、もうひとつ求めたもの。それが私を連れてゆく一番の理由。
『お前の持つ光の存在力を一旦借りる』
『何故そんなものを? 今のお前では負担になるだけだろう』
『渡る間だけだ、向こうについたら返す』
『だから何故だと』
『しつこいなお前…。……まあいい、向こうの世界には勇者として召喚されるからだ』
『…は、魔王なのにか』
『それはこちらでの話だ。向こうでは俺は勇者となる。 クソみたいな肩書きなど本当はどうでもいいが。――ああ、それから、俺が魔王に堕ちたことは言えないからな』
『それは、お前が不利になるからか?』
それには答えることなく、話は終わったとばかりに無言で視線を逸らされた。
ルーシェンカに育てられたはずの勇者は、魔王になった、なってしまった。
ルーシェンカがそうならないようにと、頑張ってきた全てを裏切って。
だけどそんなこと言えるはずがない。それは諸刃の剣だ、自ずとこちらにも責任の是非を問われる。私も彼女の願いを無にしてしまったのだから。
ニーチカとして、今はこの世界で生きるルーシェンカ。
次こそは最後まで共にいる。その生の終わりを見届け、新たに幾度生まれ変わろうともずっと。
私が持つこの余りある生命が尽きる、
――その時まで。
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祭りの最終日の夕暮れ、街から少し離れた、国が管理する公園には沢山の人が集まっている。
ここには大きな湖があり、そのほとりに集まる人々が手に持つのは紙で出来た四角い箱のようなもの。
「この紙のところに願いを書くんですよ。別に模様でも何でもいいんですけど…」
「へえ」
ニーチカの説明にこれっぽっち興味がなさそうな返事がパーヴェル様から返る。
まあそれは仕方ない。今からするこの催しはルーシェンカ様というよりも空にいるだろう神様への奉納の儀式みたいなものだ。ただ奉納という割には願い事を書く現金さが何とも言えないが、こういうものは大概そんなものだ。
だからパーヴェル様が興味を示さなくともそれはいい、それよりも。
「あの、パーヴェル様」
「ん」
「書き難いんですが…?」
「難いだけで書けるだろ」
「や、…まあ、そうなんですけど…」
背後から私を抱える必要ありますか? 物凄く目立ち……はしないですね、認識阻害のあれですね。
パーヴェル様は肩越しから私の手元を覗き込むと小さく鼻で笑った。
「豚か?」
「猫です!」
「へえ」
今度はちょっと小馬鹿にしたような返事だ。ムッとして後ろを振り向いて固まった。……近い。
そりゃそうだ、背中にピッタリとパーヴェル様の体温を感じるくらいだもの。時期的にむしろちょっと暑い。
ボボっと頬が瞬時に火照る。それは近いというのもあるけれど、主なる原因はニーチカを見るパーヴェル様の眼差しだ。
言葉からでは感じ取れないかったものがそこはある。穏やかで柔らかい、午後の微睡みのような眼差し。
あの突発的事故のような告白のあと、心の中だけで発していた悲鳴は、
『これで晴れて次の段階に進めるな』
とのパーヴェル様の一言で外へと漏れ出て。謎の回避でパーヴェル様の両手を振りほどき逃走したが、結局は五、六歩先で捕まった。
上機嫌なままにパーヴェル様が教えてくれたことによると、ルーシェンカ様とは血の繋がりは確かになく、姉代わりであっただけだと。
…そういうことは、早く言って欲しかった。
でも、早く話してくれたとしても何ら変わることらなかったかと、今はそんな感じだ。
だってパーヴェル様は最初から血の繋がりがないことは知っていたわけで。だからパーヴェル様が途中から私へと向け始めた甘さは、私が持っている感情と同じだったということ。
そう、つまりは『次の段階』なのだ。
そしてある意味私の意識の問題。
姉弟であるのにと悩んでいたことが急に解消されて、「それではどうぞ」と振られたって「ハイそうですか」と切り替えれるもんじゃない。
いや、本当に無理でしょ、そんなの。
何でもないふうを装いながら顔を元の位置に戻す。そしてパーヴェル様に豚と言わしめた猫の絵に視線を落としながら「それより――」と無理やり会話の矛先を変えた。
「スヴェートさんは大丈夫ですかね?」
結局、王様だし美女過ぎて呼び捨ては諦めてもらったスヴェートさんはルーシェンカ様役を全うするために今は城の夜会会場にいる。
流石に勇者と聖女両方ともが私のせいでいなくなるのはマズいとお願いしたら、渋い顔をしながらもスヴェートさんがその役を買って出てくれた。実際本当に役なのだけど。
元から聞く耳を持つ気などさらさらなかった人、パーヴェル様は「大丈夫だろ」と適当に答える。
「でもスヴェートさん凄く美人じゃないですか。夜会には偉い人もいっぱい来ますし、そんな人に目をつけられでもしたら…」
「は? …いや、あいつは精霊だぞ?」
「精霊でも女性ですよね? だったらそこはやっぱり――……、パーヴェル様?」
パーヴェル様が鼻の上にシワを寄せてとても嫌そうな顔をしている。何でだろう?
「言っとくが、あいつは男だ」
「――えっ!?」
「精霊は厳密に言えば性別はないが、スヴェートは男性体だ」
「いや、でも、だって…」
どこからどう見たってスヴェートさんは完璧な美女だ。
確かに、身長はかなり高いな、とは思ったけど、ゆったりとした裾の長いローブを来ていたから、ヒールをはいてるのだと思った。
そして声も少しハスキーだなとは思ったけど、それはそれで色気があって似合っていたし。だから、えーっと、あれ…?
パーヴェル様の顔が今度は残念な子を見るような表情になる。
「だって、あんなに綺麗な人が男性だなんて…」
「ついでに言えば普通の人間程度では精霊に手なんて出せない」
「へえ、スヴェートさんって強いんですね」
「俺の方が強い」
「……」
そこで急に張り合われても。
スヴェートさんを褒めたことが不満だったのかお腹に回った腕がきゅっと締り、ニーチカの頭の上にパーヴェル様が顎を乗せる。重いし苦しいし更に書き辛くなった。
そうこうしてるうちに周りでワッと大きな歓声が起き、四角い箱が一斉に空へと上がり出した。
いつの間にか日の落ちた紺碧の空へと、オレンジ色に染まった箱が沢山昇っていく。それは、中に熱源を入れて熱せられた空気で箱が上がっていく仕組みなのだが、もたもたしてたせいで思っきり出遅れた。
「――あっ、ほらっ、もう皆んな始めちゃったじゃないですか! パーヴェル様は願い事とかないんですか? まだ間に合うので書きますよっ」
慌ててそう尋ねれば、頭上からは「…願い事ねぇ」とどうでもよさそうな声が降る。
「何かないですか?」
「俺の一番の願いは叶ったからな」
「そうなんですか? でも、他にはないです? こういうのは言ったもの勝ちですよ」
「言ったもの勝ちねぇ」
軽く鼻を鳴らしたパーヴェル様は何か思いついたのか「…ああ」と声を零すと、ちょっとだけ体を離して、また肩越しから私を見る。
何だか、あまりよろしくない表情の気がする。
少し身構えたニーチカにパーヴェル様はゆるりと笑う。
「それじゃあ、」
「…それじゃあ?」
「『もっと恋人としての自覚をもってもらいたい』と書いてくれ」
「――こっ…、…恋人…」
「そう」
「…自覚…」
「だな」
影を落としたパーヴェル様の緑琥珀に、周りのオレンジの明かりが灯り悪戯げに揺れて。
「でないと、これ以上手が出せない」
甘い囁くような声と共に上がった手が、ニーチカの頬をするりと撫でた。
「――!!!!!」
「おっと…」
見事に固まったニーチカの手から白い箱がポロリと落ちる。それをすんでのところで受け止めたパーヴェル様がそのまま今度は箱を高く掲げた。
まだ熱源を入れていないのに、箱はパーヴェル様の手を離れゆっくりと空へと上がってゆく。
それは夜空を飾る大量の明かりにいつしか紛れて、どれが自分のものだったのかなどもうわからない。
ニーチカは「…ハッ」と息を零す。
そしてびっくりするくらいの激しい動悸に、あれ? 私、今、心臓止まってた? などと思っていると、「ニーチカ様!」と呼びながらこちらへと向かってくる金髪な美女が視界に入った。
「ああ…、もう上げてしまったのですね…」
スヴェートさんは私の手元にない箱に気づき空を仰いで残念そうに零し、再び顔をこちらに向けると二、三度目を瞬かせた。
「ニーチカ様…? お顔がかなり赤いけど…、大丈夫ですか?」
「えっ!!」
「体調が? 熱とかは…」
動揺してる間にスヴェートさんの手が私の額に触れて、形の良い眉がきゅっと寄った。
「…おい小僧、何でニーチカ様の体調をちゃんとみてないんだ?」
「は?」
「あ、いえっ、全く全然大丈夫ですから!」
「だそうだぞ」
「でもニーチカ様、少し体温が高いようですが? それにやはり顔が赤い」
「いえっ、あの、これはちょっと違うくて…」
しどろもどろになるニーチカを、今は少し離れて背後に立つパーヴェル様がククと愉しげに笑う。ニーチカはムッと顔をしかめた。
誰のせいだと思ってるのか。
睨むニーチカをパーヴェル様は涼しい顔で見下ろす。それでも、目元は通常よりも柔らかくて、口元が音を刻まずに動く。
『自覚したか?』と。
スヴェートさんが「本当に大丈夫ですか?」と尋ねるのに、大きく頷いた勢いでバッと視線を空にやる。
たぶん生存本能が働いた。このままじゃマズい、目を合わせてたら駄目だって。
…本当は嬉しいって気持ちもあるのだけど、それを上回る戸惑いと気恥ずかしさが消えない。
視線の先でどんどん小さくなってゆく明かりに、ニーチカは今さらながら願いを馳せる。
( どうかもっとゆっくり穏便に、…いや、穏やかに進めれるようお願いします )
恋人と定義されてしまったこの先の日々訪れるだろうことを思い、ニーチカは割と切実にそんなことを願った。
一旦終わります。続き書き終えたらまたアップします。




