10.
ニーチカはパチパチと目を瞬かせる。目の前にあるのは見覚えのない天井だ。不思議に思い首を巡らせると視界の隅で扉が開いた。
「起きたか?」
「…あ…あれ…、パーヴェル様? ――あっ!」
……思い出した、そのまましっかり寝ていた。もうびっくりするくらい。
ベッドの上に飛び起きたニーチカを、パーヴェル様は扉に寄りかかり緩い表情で見ている。
( 起こしてくれれば良かったのに… )
しかも――、
「朝食、作ったから」
「えっ! あっ、あー…、…はい…」
私の方がお世話をされるとは。
完全に寝過ごしてしまった上に立場が逆転している。なんてこったいと項垂れていたらパーヴェル様にホラと促され、しおしおとキッチンへと移動して朝ごはんを食べる。文句無しに美味い。おかげで少し持ち直した。
そうだ今は落ち込んでる場合ではない。パーヴェル様を着付けなければ。
食べ終わった後の片付けはするからと先に出来るとこまでの準備をお願いし、食器を全て片付けてからいそいそとパーヴェル様の元へと向かう――と、
( ひ…えぇぇえぇー…… )
扉を開けたニーチカは目と口を大きく開けて見事に固まった。
部屋の中央に立つパーヴェル様は既に着替え終えていて。青系の色を基調とした騎士服に金の飾り細工を付け、ロイヤルブルーのマントを羽織ったパーヴェル様はいつもは無造作に流していた髪の片側をきっちりと固めている。おかげで整った眉目がよく見える。…いや、ホント。
そんな中にあって、深く揺らめく緑琥珀がゆったりと私を捉えた。
「どうした、変な声を出して?」
疑問を呈するというには違和感のある、どこか試すような顔でパーヴェル様は言う。
というか漏れてたよ、心の悲鳴。
「あの、いえ、流石だなぁって。 もう文句無しに素晴らしいです」
「気にいったか?」
「はいそりゃーもちろん」
絶賛です。言う事なしです。見目が良いだけの勇者ってどうなの? と思ってましたが、見た目って大事だと改めて認識しました。
けど、どうして段々と近づいて来るんだろう?
「あの…、パーヴェル様?」
「ん」
『ん』――ではない。
「用意出来たのならそろそろ移動しないと」
「もう堪能出来たのか?」
「堪能?」
「見たかったんだろ、この格好」
「ひえっ!」
確かに、確かに言いました。――けど、近すぎて私の視界にはパーヴェル様のドアップしか映りませんが!?
しかも顎くいする必要ないですよね? 見えてますから、そりゃもうハッキリと!
顔を赤らめ一歩後退るニーチカを見て、麗しい笑みを浮かべたパーヴェル様は大層満足そうに頷く。完全に、遊ばれてる感が半端ない。
取りあえず追撃はそこで終わったようで、離れた体にホッと息を吐いていると「さて着替えるか」とトンデモ発言が出て慌ててマントを掴んだ。
私に見せたからもう必要ないだろうとのことだけど、そうじゃないですから。
そのあと何とか説得して、渋々としながらもパーヴェル様は祭典で設けられた壇上にいる。ただし見事に愛想のあの字もない表情である。この祭典はいわばパーヴェル様の公なる顔見せだというのに。
そして壇上では今まさにパーヴェル様が『勇者』であると国民に紹介されている。
「見た目はね、確かに良いんだけど…」
「そうよね、見た目は。…でも性格が」
「……ねえ…」
キャーキャーと黄色い歓声が上がる中で、密やかな声を零すのは城に勤める女性陣。とてもしみじみとした口調だ。
パーヴェル様は一体何をやらかしたんだと、遠い目になる。
だけどそのやらかしを城の外の人間は知らない。そう、知らなければパーヴェル様はそのままの見た目通りに格好良い。整った顔もスラリとした体格も、今はきちんとした格好である為にそれに余計に磨きがかかっている。
下級使用人は普通出席出来ないが、私は一応『勇者付き』であるので上級使用人が並ぶ列の一番隅から祭典を眺めている。壇上は割りと遠い。けどこの距離感がいい。これぐらいの方が落ち着いてパーヴェル様の素晴らしさを堪能出来るし、ドアップなんてもってのほかだ。
先ほどひっそりと会話をしていた女性たちが後ろにいるニーチカに気づいた。
上級使用人である彼女たちはニーチカが勇者様のお気に入りであると認識している。だからか、とても気不味い顔をして、こちらも同じく気不味い気分となる。
お気に入りであること。
確かに違ってはいない。
けど正解ともまた違うとニーチカは思う。
パーヴェル様にとってはこの関係性が明白であろうとも、私はまだ色々なものが拭いきれていない。「…はぁ」とこっそりため息を零していると、黄色かった歓声にどよめきが加わった。
( …なんだろう? )
視線を壇上へと戻すと、パーヴェル様の横に人がいる。長い金色の髪を持つ人物だ。なるほど、今年のルーシェンカ様役の女性が登場したのだろう。
金髪の女性は壇上で優雅に手を振り、そしてその顔がニーチカがいる方向へと向いた。
「――あっ…」
と、声が零れる。
それは金髪金目の女性で、街でパーヴェル様といた人物だ。
「うわぁー、凄く綺麗な人ですね!」
「――えっ、…あ、はい、そうですね」
横にいた男性が興奮したように話しかけてきたのでニーチカも取りあえず相槌を打つ。
「勇者様もお綺麗な方ですからお似合いですよね、あのお二人」
「まあ…、ですね」
「ルーシェンカ様もあんなに綺麗な人だったんですかねぇ」
「………」
それは流石に、ちょっと返事が出来ない。
前にいる女性たちはニーチカの無言を違う意味にとらえて、マズいという顔でこちらをチラチラと確認するけれど、最初にした返事は本当ですから。二人は確かにお似合いだし釣り合っていると思っている。ただちょっとモヤッとするだけだ。
そんな前方に気づくことなく「そう言えば――」と男性は続けた。
「君、見たことないよね?」
「…ええ、まあ」
そうでしょう。だって上級使用人ではないのだから。
ただ今の私はランドリーメイドの服装ではなく、この場にいるにあたって上級使用人の服を着用させられている。だから間違うのも仕方ない。
けれどもだ。私本人の意思とは関係なく、上級の人たちにとってニーチカの顔を覚えておくことは勇者対策においての必須であるらしい。
……うん、それも正直どうかと思うんだけど、そこはまあ置いといて。つまり彼はそれを知らない新人さんなのだろう。
「僕さ、最近城勤めになったばっかりで、今皆んなの顔を覚えてるとこなんだ」
「ああ、やっぱり」
「やっぱり?」
「…いえいえ、何でもないです」
「そう? でさ、僕の名前はアントン、駆け出しの下っ端文官なんだけど、君は?」
「あー…えっと」
さて、尋ねられてしまったけどどう言おうか?
ランドリーメイドであることを伝えればここにいることや服装に矛盾が出てきてしまうが、とはいえ、実際それが正解なので別に隠す必要はない。それで向こうがどう出ようともそれは向こうの勝手だ。
「あの、ニーチカと言います。ランドリーメイドをしてます」
「へえ、なるほど。それは確かに接点がないかも。 じゃあこれも何かの縁だよね、よろしくニーチカ」
パッと片手を出される。何の気負いもなく自然に。それは彼が城勤めになったばかりでまだ偏見がないからなのか、彼自身の性格がもたらすものか。
指摘もなく嫌悪も浮かべることなく握手とは。差し出された手を見てニーチカは目を瞬く。
「…あの、握手は苦手だったりする?」
「えっ、いや、そんなことは。 あ、こちらこそよろしくお願いします、アントンさん」
あまりにもニーチカがジッと見ているものだから男性はまごつき手を引こうとし、慌ててこちらからも手を伸ばした。
ホッとした表情でアントンさんは私と手を重ねて、再び「よろしく」と笑顔で言う。
城勤めについてから親しい友人など出来ずに、パーヴェル様が来てからは更に人が離れてしまった。それを寂しいと思ってはなかったけど、こうやって気兼ねなく笑顔を交わせる関係を何だかいいなと思う。
ほんわかと握手を交わしていると、「ヒッ!」と息を飲むような短い悲鳴が前の方から聞こえた。
( …ん? )
気づいたら祭典会場の雰囲気が変わっている。立ち込める空気がどこか重々しい。それはアントンさんも感じたようだ。
「何だか静かだね」
「そうですね」
そう言えばパーヴェル様は? と視線を向けてニーチカはビクッと背筋を伸ばす。
当のパーヴェル様が凄い重圧感を漂わせてこちらを見ていてる。その目付きはかなり鋭い。
( …ああ、さっき聞こえた悲鳴はこれか )
前方の誰かに流れ弾が当たったんだろう。城内の人間であればパーヴェル様の凄さは知っている。
でもこれは完全に私に向けられたものだ。だとしてもその鋭い視線の意味はわからない。
怪訝な顔で見返していると、パーヴェル様の口元が動いた。
『手を離せ』
届くはずのない距離で声が届いたのはたぶん魔法によるもの。
( ん? 手を? )
と自分の手を見て、まだアントンさんと握手したままだったことに気づいてパッと離す。多少感じが悪くなってしまったけど仕方ない。ただ、周囲の空気は確実に軽くなった。
なのでもう一度パーヴェル様を確認してみると、鋭さは消えたけれどもその表情は然程変わっていない。
( あー…これは…、 )
ニーチカは半眼になる。
これはアレだ、孤児院の子どもたちの間でもよくあった、「〇〇ちゃんは僕の!(私の!)」とかそういうの。パーヴェル様の拗らせからくるやつ。はっきり言って、横にいる金髪女性の方がよっぽどルーシェンカ様らしいと思うのだけど。
ただ、このままではどちらにしたってアントンさんの方が被害が大きくなる予感しかない。なのでここは速やかに撤収した方が良さそうだ。
「あの、アントンさん、私ちょっと用事を思い出したので先に失礼しますね」
「えっ、あ、ニーチカっ!?」
せっかくお友達になれそうな人を見つけたけたのだけど背に腹は代えられない。
アントンさんの声を背中に聞きながら、ニーチカはそそくさと会場を後にする。
ただひとつ。ルーシェンカ様役の金髪美女も、パーヴェル様と同じ表情でニーチカを見てたことが気にはなったけど。
( …まあ、今後関わることなんてないだろうからいいか… )
ニーチカは会場から離れて廻廊に出た。外から差し込む太陽の光がアーチを通して廻廊の床に連続する影を作り、その中で、光の精霊たちがふわふわと遊ぶのをボンヤリと眺める。
蒼天祭が執り行われるようになってから二百年、祭りの日は毎年晴れだ。それを象徴するかのような青空には夏特有の高い雲が聳えてはいるが、この日に限っては夕立さえも降らない。まさに絶好の洗濯日和。
だけども。今日はランドリーメイドの仕事はない。
洗濯広場も祭りの一部として使用されてる為にシーツを棚引かせるわけにはいかないからだ。
つまりは今日、ニーチカにはやることがない。
部屋に戻ろうかと思うけど、何となくそんな気にもなれずニーチカはあてなく廻廊を歩く。建物内は祭りで人が出払っているからかいつもより静かで。
だからか、要らぬ思考がポンポンと浮かんで来てしまう。
パーヴェル様と金髪美女のこと。
パーヴェル様がさっき見せた態度のこと。
パーヴェル様が私に向ける感情のこと。
パーヴェル様が――……、
――ニーチカの顔がくもる。
浮かぶ思考全部が、パーヴェル様についてだなんて。
「ニーチカ!」
そこに声がかかった。
今、一番聞きたくなかった声。
ザワザワする心を抑えニーチカはゆっくりと振り向く。
跳んで来たのか足音も気配もなく、息も乱すことなく現れたパーヴェル様。その表情は険しいまま。
だけどよく考えれば、そんな顔を向けられる理由はニーチカにはない。だってそれはパーヴェル様の問題で、事実、私自身にはわからないものだ。
「なに…、してるんですかパーヴェル様、まだ祭典の途中ですよね?」
「そんなのどうでもいい」
「どうでもよくないですよ、パーヴェル様とあのルーシェンカ様役の方が今日の主役なんですから」
「だからそんなのどうでもいいって言ってる。アンタが…、ニーチカが出ろと言ったから出ただけだ。だからアンタが見てないならもう出てる必要はないだろ」
「それは…っ」
ちょっと違うだろうと思うのに、その言葉が出てこない。
ニーチカは詰まったものを吐き出すようにひとつ大きく息を吐く。
わからないもの、私にはないもの、それなのに、パーヴェル様のそんな発言に、ニーチカの心には喜びに似た何かが浮かんでしまう。
モヤモヤやザワザワを押しのけて。
――本当に、なんて厄介な、ままならない心。
今どんな顔をしてるというのか、ニーチカを見下ろすパーヴェルは一度目を瞬かせたあと小さく苦笑を浮かべた。
「…変な顔」
と、中々酷い発言をしたパーヴェル様は苦笑を緩い笑みに変えてこちらへと手を伸ばし。パーヴェル様の手袋に包まれた指先がニーチカの頬に触れようとした。
するりと――、そこに白い手が絡められる。
まるでニーチカに触れることを引き止めるかのように。
「酷いですわ勇者様、私を置いていくなんて」
そう言って、パーヴェル様の腕に自らの腕を絡めたルーシェンカ様役の金髪美女は、視線をニーチカに固定したまま金の目をゆるりと細め妖艶に笑った。




