珈琲と公費6 幸せは歩いてこない、タクシーに乗ってくる嫌なやつだ
「コーヒーカップは洗われていたか?」 どういう意味でしょう?
「さっきの疑問から、誰かが『こぼした』という線は非情に薄くなった。『一』は選外だな、うん。残る『二』の『飲み干した』、『三』の『捨てた』、『四』の『別の目的に使った』だが、コーヒーカップが洗われていないならば、どれが正しいか判別できる」
そ、そうなのですか? シュータさんは相変わらず言葉足らずです。わたしに対する愛の言葉も、いつも全然足りませんし。
「コーヒーカップをもう一度よく観察しよう。もしカップからコーヒーを飲んでいたとしたら、カップにはどんな跡が残るだろう。カップは一度も洗われていないんだよ」
シュータさんはカップを持ち上げました。わたしはそれを眺めながら考えてみます。カップから飲んだら、残る跡ですか? ああ、なるほど。
「飲み口ですね。コーヒーを飲んだら、カップには唇の形にコーヒーの跡が残ります。コーヒーは色のついた液体ですから」
「そう。まさか、コーヒーカップに口を付けず、喉に直接流し込むやつはいるまい」
「そして、カップに口を付けた跡は残っていないわけですね?」
ノエルくんが確認します。シュータさんは「そうだ」と答えました。では、飲まれてはいないのですね。
「もちろん口を付けた場所を拭き取った可能性は当然ある。そうする合理的理由があれば、の話になるが」
「他の容器に移して飲んだ可能性もありますよね?」ノエルくんの質問。
「あるな。だけど、まあ『飲んだ』可能性については、ほとんど潰して良いだろう。誰も、勝手知らない他人のコーヒーを飲み漁ったりしない。もしそんなやつがいたとすれば、そいつは瀕死の脱水症患者だから許してやれ。よほど喉が渇いていれば――学校の水道や自販機の存在を忘れて、利尿作用のある他人のコーヒーを飲むこともあるだろう」
「教室には、俺が持って来た天然水の2Lペットボトルもあったんですがね」
ノエルくんが生徒用の机に載っている自分のバッグを指差しました。バッグの横には水の入ったペットボトルがあります。あれでコーヒーを淹れたのでしょうね。
「もう一つ、コーヒーカップを見ることでわかることがある。コーヒーがどこを濡らしたか」
シュータさんは、カップの内側を人差し指で触ります。「濡れているな」と呟きました。
「俺は一度も飲んでいません。したがって、一度も傾けていませんよ」
「だろうな。なら上部の一方向だけ内側が濡れていて、うっすらと茶色が残っているのはおかしい」
どうやら、カップの内側では中身の液体を傾けた跡があるようです。
「美月、このことから何がわかる? ちなみに、他にコーヒーの跡は見当たらない」
「傾けた跡があるんですよね? でも口は付けていない。でしたら、中身をこぼしたか、別の場所に注いだということがわかります」
シュータさんは優しく微笑みました。子供の面倒を見るお父さんのような表情……。馬鹿にされていますね。
「普通、カップを倒してこぼしたならば、カップの外側にもコーヒーの染みが付く。カップが揺れてこぼれても同様に」
言われてみれば、そうです! でも外側だけはテーブルが汚れないように拭いたのでは?
「考えがたいな。外側だけ拭いて、内側は拭かない。それはあるとしても、さっき確認したように外側を拭くためのものが無い。ゴミ箱がないからティッシュペーパーは使いにくい。じゃあトイレットペーパーか? わざわざ?」
シュータさんは顎に手を当てて喋り続けます。普段は無口な人なのですけど。
「雑巾や布巾は、生物室に備え付けのものを探せばあるだろうが、それを乾いたまま押し当てたらコーヒーの染みが、布にもカップにも残る。じゃあ布巾は濡らして使ったか? いいや、布を水で濡らすんだったら、最初から水道でカップまるごと洗う方が手っ取り早いじゃないか。仮に濡らした布巾で拭いたとしよう。だが、現在は外側に水気が残っていないってことは、その後さらに乾拭きをしている。馬鹿だ。――そうしてカップを拭く作業をして、さらにテーブルや床にこぼしたコーヒーも拭き取ったのか? 大変非合理だ。そんな時間がどこにあった」
ということは、ですよ。「こぼした」も「飲んだ」もほぼ否定されるのですよね。すると、残りは「捨てた」か「別の目的で使用された」になります。そんなことって……。
「意外と厄介な話になるかもしれませんね」
ノエルくんが不敵に微笑みました。