珈琲と公費 或る生徒会の問題について
秋風が冷たくなってきた九月の終わりこと。星陽高校は、文化祭後の疲労と倦怠に包まれていた。退屈な授業を終え、生徒たちが校内を思い思いに移動する。
金紗の髪をさらさらと揺らし、青い瞳できょろきょろ周囲を見渡す女子生徒がひとり。
――わたし、竹本美月は、こういう光景を見ると、氷を思い浮かべてしまいます。物体は分子によって構成されています。氷は水分子の集合体です。もちろん水やお湯も、湯気も水の分子の集合体なのですが。
では何が違うのかと言えば、温度に他なりません。分子は、温度が低いほど動かなくなります。0度を下回ると、結晶化して固定されます。そのため、氷は個体なのです。
常温の水は、分子どうしはちょうど砂のようにお互いとくっ付きます。これが液体です。湯気になって水蒸気、つまり気体になると、分子は活発に動き回ります。もうお互いを結びつけることはしません。なので、空気中に逃げていくのです。
授業中の生徒たちは、きっとカチンコチンの氷のように、ルールとマナーに縛られて机にかじり付いています。けれど、放課後になって自由になると、熱を持った気体のようにあちこちへ飛び出すのです。
なぜわたしが氷の例を持ち出したか? それはわたしが理系の人間だからです。では理系のわたしが、なぜ文系クラスにいるのか? それは本編を読んでいただくしかありません。この作者が書いている別の作品を。なぜなら、この小説は、本編のPRにすぎないのですから。
「授業中は氷のようにカチンコチン、ですか。いい喩えですね」
隣に並んで爽やかな笑顔を浮かべる彼は、ノエルくんです。中性的な顔立ちに、子犬のような笑顔。引き締まった肉体。一学年後輩で、わたしがお世話になっている部活に所属している方です。手には青いビニールのようなものを抱えています。
こうして独り言を盗み聞きして、つまらない下ネタをぶち込んでくることを除けば、いわゆる「イケメン」くんなのかもしれません。あ、あとわたしより十センチも身長が低い、残念なチビであることを除けば(でも実際、なんだか彼は年上や同学年からモテるようです)。
「ノエルくん。これから、生物室へ向かうのですか?」
「そうっすよ。一旦離れていたんですけどね、今、部室では俺のスペシャルなコーヒーを淹れているんです」
生物室は、教室がある本棟とは別の特別棟の三階にあります。そこでは、部長の「みよりん」さんとノエルくんが、二人で部活をやっていらっしゃるのです。わたしも時々お邪魔します。
「コーヒー、ですか?」
「そうです。俺コーヒー好きなんですよ。先輩も好きですか?」
「嫌いです」
「あ、なるほど」
彼は苦い顔をしました。ごめんなさい。
「わたし、カフェインがダメなんです」
「まじすか」
日曜日の朝の中〇くんみたいなことを言わないでください。コンプラ違反です。
「先輩にも飲ませたかったです」
「いえ、飲みたくありません。飲むと気分が悪くなるので」
「あ、まあそうなんですけどね。でもいいコーヒーメーカーを買ったんです。直火焙煎ですよ」
ノエルくんはカッコイイとか、話し上手とか、そうおっしゃる女子も多いですが、わたしは特にそう思いません。ペラペラ喋るわりに、中身はペラペラです。やはりわたしには、あの方のお話や、態度や、仕草や、行動が大好きで、目が離せないのです。
「生物室では、今頃コーヒーの匂いが充満してそうなんですが、大丈夫ですか?」
「匂いは平気です。でも、わざわざコーヒーメーカーを学校まで持ち込んだんですか?」
「ええ。だって、コーヒー好きが多いでしょう?」
確かにみよりんさんも、あの方もコーヒー派です。ちなみにノエルくんがどうやってコーヒーメーカーを学校まで持って来たか、知りたい方はやはり本編を読んでもらうほかないようです……(露骨な宣伝行為)。
わたしたちは、生物室のある三階までたどり着きました。ノエルくんが先回りしてドアを開けてくださいます。身の程を弁えた良い心がけです。
言われてみると――いや、言われずともコーヒーの香りが生物室には満ちていました。見慣れた教室と、廊下に比べて温かい室内にほっとします。
「ホットコーヒーだけに、ですか?」
「ノエルくん、うるさいです」
「ほっとけ、ということですね」
そう言ってノエルくんはクスクス笑います。わたしは真ん中の席に座りました。ノエルくんは、先生が立つ教壇の前の机にいきます。見たところ、立派な黒いコーヒーメーカーがずでん、と置いてあります。その横にはコーヒーカップが一つ。
ノエルくんはそのカップを持ち上げました。すると、
「あれ、無い!」
「ノエルくん、うるさいです」
「そうじゃなくて、中身がないんですよ!」
どうやらコーヒーの中身が無くなっていたようでした。
「自分で飲んだのではないでしょうか?」
「いいえ。一口も飲んでいません。用事があって飲まずに抜け出したんです。なんで」
さて、コーヒーはどうして無くなったのでしょうか? わたしにはわかりません。