【コミカライズ】もう戻りません、戻れません
「アマラ、私ねカーシー様と婚約することになったの」
「…………え?」
きらびやかな夜会会場。親友であるシェーナの言葉に絶句してしまう。
彼女の隣に佇むカーシー様はわたしからツイと目をそらし、どこか気まずけな表情だ。
それもそのはず。
彼は――わたしの恋人なんだもの。
(どうして?)
ついこの間まで学園で、恋人として普通に接していたじゃない? シェーナだって、婚約なんてひと言も言っていなかった。むしろ、わたしの恋バナをニコニコしながら聞いて「羨ましい」なんて言っていたはずなのに……。
「婚約? カーシー様と?」
「そうなの。父がカーシー様のお父様と懇意にしていて……お互いの事業で絡みもあったものだから『子ども同士を結婚させよう』って話になったんですって。……ごめんね、アマラはカーシー様のことが好きだったのに」
胸がズキッと強く痛む。全然、悪いと思っているように聞こえない。
第一、カーシー様とのことはわたしの一方的な片思いなんかじゃない。彼だってわたしのことを好きだと言ってくれた。結婚も考えているって。両親に話を通すから少しだけ待っていてほしいってそう言っていたのに。
「――どうして先に言ってくれなかったの? カーシー様との婚約話が進んでいるって。だって、シェーナはわたしとカーシー様が交際しているって知っていたじゃない? わたし……あなたに色々と相談して」
「そりゃあもちろん知っていたわよ。だけど……」
シェーナがふぅとため息をつく。彼女はカーシー様の腕をぐいっと掴み、甘えるように顔を寄せた。
「これは政略結婚だもの。貴族である以上仕方がないことじゃない?」
「え? そ……そうじゃなくて! 婚約って昨日今日の話じゃないでしょう!? もっと早くに言ってくれれば、こんなに傷つかなくて済んだのに……」
「だって、言って途中で邪魔されたら嫌じゃない? 私、アマラのものがほしかったんだもの」
「え?」
シェーナがニヤリと唇をあげる。あまりにも意地の悪い笑みだ。
(どういうこと?)
わたしのものがほしかった? つまり、カーシー様があの子の婚約者になったのは、シェーナの差し金ってわけ?
ふと見れば、周囲から好奇の目が集まっている。今夜はシェーナの家が主催の夜会なうえ、彼女は今夜の主役らしい。
悪者はわたし。
誰も味方をしてくれるはずがない。
「――失礼します」
わたしはたまらず、会場から駆け出した。
(どうしてこんなことになってしまったんだろう)
帰りの馬車に揺られつつ、うつむき静かに目をつぶる。
カーシー様は同じ学園に通っている子爵令息で、金色の髪、ハシバミ色の瞳が綺麗な優しい男性だった。物腰が柔らかく誰にでも親切で、いつでもニコニコと笑っている。そんな彼にわたしは入学してすぐ心惹かれた。
『カーシー様かぁ……アマラが好きになるの、わかるな。うん、いいと思う』
わたしは自分の恋心を、親友のシェーナにだけ打ち明けていた。
シェーナは同い年の候爵令嬢で、金色の髪、青い瞳を持ついかにも深窓のご令嬢といった風貌の女性だ。優雅で儚げなシェーナ。彼女に憧れていたわたしは、はじめて彼女のほうから声をかけられたとき、天にも昇る気持ちだった。しがない子爵の娘であるわたしからすれば高嶺の花だとわかっていたけど、本当に親友だと思っていた。――つい先程までは。
(一体いつから?)
本当はシェーナはわたしのことが嫌いだったのだろうか? うとましく思っていたのだろうか?
それとも、本当は彼女もカーシー様のことが好きだったんだろうか?
わからない。けれど、戻って話をしたいとも思わない。
(カーシー様もカーシー様だわ)
どうしてなにも言ってくれないの? どうして目すら合わせてくれないの?
本当はカーシー様もシェーナとの結婚について知っていて、わたしには隠していたのだろうか?
彼と想いが通じ合ったのは今から三ヶ月前。カーシー様のほうからわたしに想いを打ち明けてくれたのがキッカケだった。
『僕はアマラが好きだよ』
あの日から何度も何度も、彼に愛を囁かれた。好きだと。本気だと。結婚をしたいと言われたことだって一度や二度の話じゃない。
『長期休暇の間に父上に話をするよ。君との結婚のこと。だから、信じて待っていて』
それが彼との最後の会話。その結果があれだ。
裏切られた――そんなふうに感じてしまう。
「うっ……うぅ…………」
シェーナもカーシー様もわたしにとって大切な存在だった。信じていたし、こんなふうに裏切られるなんて思ってもみなかった。
大事なものをいっぺんに失って、わたしはこれからどうしたらいいんだろう?
(わからない)
なにも考えたくない。
それからしばらくのあいだ、わたしは自室に引きこもっていた。
両親にはシェーナの家から報告が入ったらしく――しかもわたしが一方的に悪いという内容だったそうだ――わたしのことをそっとしておいてくれた。
けれど、いつまでもそんな生活が続けられるはずもない。
長期休暇もじきに終わる。そうすれば嫌でもあの二人と顔を合わさなければならない。
(嫌だな……)
会いたくない。……というか無理だ。平常心でいられる自信がないんだもの。
「アマラ、少しいい?」
と、両親から声をかけられる。泣きはらした瞳のまま二人に向き合ったら、母はわたしの手をそっと握ってくれた。
「考えてみたんだけど……あなた隣国に留学してみない?」
「え?」
目を丸くするわたしに、母は優しくほほえみかけた。
「ほら、お母様って隣国の出身でしょう? 母校にね、素敵な先生がいるのよ。あなたが学びたがっていた魔石の加工技術も隣国のほうが発達しているし、あちらのほうが心穏やかに過ごせるんじゃないかなぁと思って」
「…………いいの?」
こんなふうに逃げてしまっていいのだろうか? お母様やお父様に迷惑をかけてしまわないだろうか?
小刻みに震えるわたしの肩を、お父様はポンと叩いた。
「大丈夫。私たちはおまえに、いつも笑顔でいてほしいんだよ」
ズタボロだった心が少しだけ癒やされていく。「ありがとう」と口にして、わたしはまた涙を流した。
***
長期休暇があけると同時に、わたしは隣国に留学した。
「はじめまして」
「仲良くしてね」
「隣国ってどんなところなの? ぜひ教えていただきたいわ」
席につくなり、クラスメイトたちがすぐに声をかけてくれる。
こちらにはわたしの事情を知る人は一人もいない。無闇に傷を抉るような真似はしないはずだ。――そうとわかっているけど、わたしは誰とも言葉をかわさなかった。
心を許して裏切られるのは懲り懲りだもの。
あんなふうに傷つけられるぐらいなら、ずっと一人で過ごしていたい。わたしのことは放っておいてほしい。
最初は物珍しさで頻繁に話しかけてきていたクラスメイトたちも、一人、また一人とわたしへの興味を失っていく。……それでいい。このまま一人でいたい――そう思ったときだった。
「ねえ、どうして誰とも会話をしないの?」
頭上で男性の声が響く。少しだけ顔を上げたら、そのままぐいっと顎を持ち上げられた。
「っ……!」
「みんな君と仲良くなろうとしてくれていただろう? どうして頑なに返事をしないの?」
急いで手を払い除け、男性から顔をふいと背ける。
けれど彼は反対側に回り込み、わたしの目をまじまじと見つめてきた。神秘的な紫色の瞳。クラスで一番目立つ男性だから名前を覚えている。
彼はケネス・ロドヴィック伯爵令息。眉目秀麗、明朗快活な男性で、先生たちからの覚えもめでたい。女生徒だけでなく同性からの人気も高く、彼の周りにはいつも人がたえなかった。
「そういう態度、感じ悪いと思うよ」
(知ってます。知っていてやっているんです)
本当はそう言い返してやりたい。けれど、一度口をきいてしまったらそれ以降も対応をしなきゃいけないだろう。
(我慢、我慢……)
「それに、せっかくそんなに可愛いんだから、眉間にシワを寄せていたらもったいないよ」
「え?」
指先にチュッと口づけられ、わたしはカッと目を見開く。
「な! なんなんですか、あなたは!」
怒りではらわたが煮えくり返りそう。これで本当に貴族なのだろうか? おそろしいほど軽い。許可を得ずに女性に勝手に触れるなんて、あまりにも失礼な態度だ。
「ああ、よかった。声はちゃんと出せるみたいだね。もしかしたら、なんらかの理由で話ができないんじゃないかとみんなで噂していたんだ」
「違います。自己紹介はちゃんとしたでしょう?」
「うんうん、そうだった。ごめんごめん」
ケネス様は言いながらケラケラと楽しそうに笑っている。
フイと顔を背ければ、彼はそっと目を細めた。
「よかったらまたお話しようね」
(嫌です。二度とごめんです)
心のなかでそう叫びつつ、わたしは机に突っ伏した。
「魔術の実習をします。二人か三人のグループを作ってください」
しかし、学園という場所は、ときに一人きりでいることを許容してくれない。
(あーー……しまった。そういう機会もあるよね)
こういうとき、友達がいない人間はものすごく肩身の狭い思いをする。
そもそもわたしからみんなを遠ざけておいて、今さら仲間に入れてほしいなんて虫がよすぎだ。絶対に頼めない。
『アマラ、一緒に組もう!』
前の学園にはシェーナがいたから。困ることなんて一度もなかった。
(どうして?)
どうしてダメになってしまったんだろう? どうしてわたしはこんなに……こんなにも弱いんだろう?
「ディレインさん、どうしました? まだ組む人が見つかっていないんですか?」
先生がわたしに声をかける。
目が潤んでいるせいで顔をあげることができない。胸がモヤモヤして苦しい。先生に迷惑をかけたくないけど「います」と嘘をつくわけにもいかない。どうしよう……?
「先生、アマラは俺と組むから大丈夫だよ」
「まあ、ロドヴィックさん」
ポンと肩を叩かれ上を向く。そこにはケネス様がいた。
「え? あの……わたしは一人で……」
「それじゃ実習にならないだろう? 君が一人でいたら先生を困らせることになる。グループを作り直す時間だって必要になるし」
「それはそうですけど、いいんですか? あなたには友達がたくさんいるのに」
「かまわないよ。だけど……そうだね。かわりにアマラがもう少しみんなと会話をしてくれると嬉しいんだけど。ほら、みんなが君のことを気にかけているだろう?」
「え?」
言われてみれば、チラチラと視線を感じる。
(あ……)
留学初日にわたしに話しかけてくれた女の子や、隣の席の人。彼らはわたしが返事をしなかったばかりに、下手に声をかけられなかったのだろう。
(申し訳なかったな)
嫌な思いをさせたかったわけじゃない。自分が傷つかないために、他人と距離をおきたかっただけだ。自己嫌悪に陥りかけたわたしの視界をケネス様がそっと遮る。
「ほらほら、今は実習に集中して。魔術の勉強が好きなんだろう? いつも熱心にノートをとっているし、放課後も一人で勉強している。それなのに、時間を無駄にしたらもったいないよ」
「それは……」
どうして知っているんだろう? わたしのことなんか放っておいてほしい――そう思っているはずなのに。気にかけてもらえていることを嬉しいと思うなんて。
(少しぐらい心を開いても大丈夫なのかな?)
まだまだ誰かを信じるのは怖い。だけど、会話ぐらいははじめてもいいのかもしれない。ケネス様もはじめの印象と違って、案外悪い人じゃないのでは?
「ありがとうございます」
「うん。その笑顔、いいね。すごく可愛いよ」
「なっ……!」
前言撤回。やっぱりケネス様とは関わらないことにしよう。
***
その日の一件から、わたしは少しずつクラスに溶け込むための努力をはじめた。
「あの……このあいだはごめんなさい。わたしの国のこと、よかったら聞いてくれる?」
みんなは一瞬顔を見合わせていたけど、すぐに「もちろん!」とほほえんでくれた。
友人といっても、シェーナのときのようにいつもふたりで一緒に過ごすのではない。必要なときに会話をするぐらいの浅い付き合いだ。けれど、一人じゃないのは存外心が安らぐもので。
(わたし、本当は寂しかったのかな)
急に友人も恋人も失って、誰かに甘えたかったのかもしれない。
けれど、人付き合いをすると避けては通れない話題というのが存在するもので。
「え? 婚約が決まったの?」
それはみんなで談笑をしているときのこと。最近仲良くしている子の一人の婚約話が話題にあがった。
「羨ましい……! お相手は? この学園の方ですの?」
「ううん。私より六歳も年上の方なのよ。家同士の付き合いで、以前から婚約を勧められていたのだけど……」
まずい。この手の話題はやっぱりまだキツイ。ズキンズキンと胸が痛み、息がたまらなく苦しくなる。
「アマラさんは? 婚約者はいらっしゃるの?」
来た。相手はきっと、よかれと思って話を振ってくれたのだろう。けれど、恋愛や結婚について話をすること――考えることすら今は辛い。みんなはわたしの事情を知らないのだから当然だけど、なんてこたえればいいのだろう……。
「アマラ、顔色悪くない? 大丈夫?」
と、上方から声をかけられる。見上げればそこにはケネス様がいた。
「え? あ……えっと……」
「少し風にあたったほうがいいと思う。悪いけど、アマラを少し借りるね」
そのままぐいっと手を引かれ、わたしは思わず目を見開く。
クラスメイトたちは「まあ……!」と顔を赤くしつつ、わたしたちを見送ってくれた。
中庭に降りると、爽やかな初夏の風が頬を撫でる。先程までの鬱々とした気持ちが嘘のようだ。
ケネス様はわたしをガゼボに座らせると、ご自分も向かいの席に腰かけた。
「ケネス様、あの……」
「嫌だったんだろう? 婚約の話をするの」
「え? どうしてそれを?」
あの場にいる誰も、わたしの異変に気づきはしなかった。だからこそ話を振られたのだろうし、そこまであからさまな態度をとったつもりはない。
それなのに、どうしてケネス様は……?
「ずっと見ていたからわかるよ」
その途端、心臓がドキッと小さく跳ねる。
その言い方は本当によくない。勘違いする。
(もう恋愛は懲り懲りなのに)
……もちろん、ケネス様にはそんな気はないだろうけど、誰かを好きになって傷つくのは二度とゴメンだ。恋愛も結婚も一切する気はないし、それでいいと両親も言ってくれた。不必要に心を揺らしたくなんてない。
「ありがとうございます。ケネス様のおかげで助かりました」
「それはよかった。誰にでも話したくないことの一つや二つ、あるよね」
ケネス様はそう言って、ニコニコと楽しそうに笑っている。
(うん……)
今はなにも考えたくないし、事情を話したいとも思わない。けれどいつか、自分の感情に整理がつくときがきたら、誰かにこの話を打ち明けられるときが来るのだろうか?
ケネス様はそのままなにも尋ねず、ただわたしの側にいてくれた。
時折、彼の視線を感じるたびに心臓が小さく跳ねる。だけどわたしは、それを気のせいだと思うことにした。
***
季節が流れ、長期休暇の時期がやってきた。
この時期はほとんどの生徒が領地へと帰るらしい。だけど、わたしは寮に残ることに決めた。
(帰国したらシェーナの情報を嫌でも耳にするだろうし)
現状わたしに届く手紙はすべて、両親が止めてくれている状態だ。もちろん、留学以降一切手紙が届いていない可能性だってある。だけどわたしは、手紙の有無すら知りたいとは思わない。とにかくシェーナとカーシー様とまったく関係のない場所にいたかった。
「お土産たくさん買ってくるね」
「風邪を引かないよう、あったかくして過ごすんだよ」
級友たちを見送ってから、わたしは小さくため息をつく。すると、背後から「アマラ」と声をかけられた。
「ケネス様……ケネス様は領地にお戻りにならないんですか?」
「うん。今年は寮に残ってやりたいことがあったから」
彼はグッとのびをしてから、わたしのほうをちらりと見る。目があった瞬間ドキッとしてしまい、わたしはすぐに顔をそらした。
ケネス様はあれから頻繁にわたしに声をかけてくれる。仲間内で恋愛の話になったらそれとなく連れ出してくれるし、なにか困っていることはないか、自分にできることはないかと手を差し伸べてくれるのだ。
そんな彼に救われているのはたしかだけど、それと同じだけ困っている自分がいるもので。
「よかったら、休暇中に街に出かけない? ずっとこもってばかりじゃ気が滅入るだろう?」
「え? 街に……? だけど――」
ケネス様はわたしのことなんてなんとも思っていないに違いない。だけどわたしは――わたしは多分、そうじゃない。
(我ながらほだされやすいとは思うけど)
はじめはとんでもない人だと思った。馴れ馴れしく話しかけてきて、無遠慮に女性の体に触れて。……だけどそれは、わたしの心の壁を壊すためだったって今ならわかる。彼はあれ以降、必要以上にわたしの事情に踏み込んでは来なかったもの。
弱っているときに親切にされて嬉しかった。少しだけ救われた気がした。
だけど、これ以上はダメだ。彼に近づくべきではない。このままでは前回と同じ道をたどってしまう。
「ごめん、誘い方を間違えた」
「え?」
「俺がアマラと少しでも一緒にいたいから、街に出かけたいと思ったんだ」
ケネス様がわたしの手をそっと握る。その瞬間、一気に体が熱くなった。
「わ、わたしは、その……」
「寮に残ろうと思ったのも、アマラともっと仲良くなりたいと思ったからだよ。……一目惚れなんだ」
普段のニコニコした表情はどこへやら。今のケネス様はすごく真剣な顔つきだ。きっと冗談なんかじゃない。わかっていても――わかっているからこそ、わたしには受け入れられない。
「やめてください。貴族が恋愛をするなんて馬鹿げているわ。時間の無駄よ。結局は家同士の政略が優先されて、上手くいきっこないんだもの」
カーシー様はわたしのことが好きだと話していた。何度も可愛いと言ってくれたし、わたしだけを想っていると言葉で示してくれた。
それでも彼は政略結婚を選んだ。結局は上手くいかなかった。
政治的な価値の低いわたしみたいな女なんて、選ばれるはずがない。わかっている。
だからわたしは、結婚に夢なんて見ない。いつか誰かと結婚をするなら、愛のない政略結婚一択だ。そのほうがずっと心穏やかに過ごせる。
「そうか……アマラはそんなふうに思うんだね」
ケネス様はそう言って悲しそうな表情を浮かべた。胸がズキンと強く痛む。
(だけど、これでいい)
今ならまだ傷が浅い。わたしはケネス様をその場に残し、寮の自室へと戻った。
長期休暇中の寮にはほとんど人がおらず、誰とも会話を交わすことがない。授業もなく、すること自体がほとんどない。その結果、わたしはひたすらシェーナやカーシー様、それからケネス様のことを考える羽目になってしまった。
考えをそらすために勉強をしてみるも、すぐに彼らのことを考えてしまう。一体どうすればよかったのか、本当にこのままでいいのか、自問自答をしてしまうのだ。
(……なんて、いいに決まっているじゃない)
ケネス様だって、わたしの考えを否定しなかったもの。結局は感情よりも権力や利益、名誉のほうが優先される世の中なんだ。恋愛なんてもう二度としない。好きになったらバカを見る。
そうこうしているうちに二週間が過ぎ、長期休暇もあとわずかになったある日のことだった。
「アマラ・ディレインさん、あなたにお客様がいらっしゃっているわよ」
「お客様?」
寮母から呼び出され、指定された応接室へと向かう。
(誰だろう?)
怪訝に思いつつ扉を開けた瞬間、わたしは言葉を失った。
(カーシー様に、シェーナ……?)
一体どうして二人がここに? 心臓がドクンドクンと嫌な音を立てて鳴り響いた。
「久しぶりだね、アマラ」
と、カーシー様がわたしに声をかけてくる。なんと返事をすればいいかわからず、わたしはその場に立ち尽くした。
「会いたかった。手紙も何度も出したんだよ? 本当はもっと早くに会いに来たかったんだけど……」
「――そんなこと、頼んでない。この数カ月間、わたしは一度だって二人に会いたいと思わなかったわ」
なんなら今すぐ帰ってほしい。わたしは二人から視線をそらした。
「君の気持ちはよくわかるよ。だけど、僕は今でもアマラのことが……」
カーシー様はそう言ってチラリとシェーナのほうを見る。それから彼はグッと拳を握った。
「ごめん、アマラ。君を傷つけるつもりはなかったんだ」
「傷つけるつもりはなかった?」
復唱し、ついつい笑いがこみあげる。
「本当に? あんな形で二人の婚約を知らされて、わたしが傷つかないって本気で思っていたの? だとしたら、おめでたいとしか言いようがないわ」
「待ってくれ! 僕だってシェーナとの婚約については、直前まで知らされていなかったんだ。僕はアマラと結婚したいと父に伝えていたのに……」
「だったら、あの場でそう言ってくれたらよかったじゃない! 今さら弁明されたってなんの意味もないわ!」
「それは……」
あとからならなんとでも言い繕える。
あの場でカーシー様はわたしの味方をしてくれなかった。目すら合わせてくれなかった。わたしにとってはそれがすべて。今さら謝られたところでなんの意味もない。おそらくは懺悔をすることで、カーシー様自身が楽になりたいだけ。わたしのための謝罪ではないに違いない。
「ねえ」
と、それまで黙っていたシェーナが静かに口を開く。彼女はわたしのことをじっと見上げながら、グッと眉間にシワを寄せた。
「いつになったら戻って来るの?」
「え?」
一体なにを言っているんだろう? 目を丸くすれば、シェーナはズイと身を乗り出した。
「いつまでこんなところにいるつもりなのかって聞いてるのよ」
「いつまで?」
こたえつつ、わたしは思わず吹き出してしまった。
「シェーナはわたしがあの学園に――あなたたちのいるところに戻ると本気で思っているの?」
「え?」
すると、シェーナはなぜか傷ついたような表情を浮かべる。わたしは呆れ返りつつ、首を横に振った。
「戻るつもりなんてない。わたしはこのままこの国に残るつもりよ」
「そんな……! だけど、いつかは戻って来るでしょう? 卒業をしたあとは――?」
「お祖父様とお祖母様の屋敷で暮らすわ。こちらで仕事も見つけるつもりよ。すでに両親の承諾は得たし、そのための準備も進んでいるの」
「嘘よ。そんな……」
愕然とした表情のシェーナを見つめつつ、わたしはそっと首を傾げる。
(どうしてあなたがそんな顔をするのよ)
わたしがいなくなって清々しているんじゃないの? そのためにカーシー様を奪ったんじゃないの? わからない……わかりたいとも思わない。わたしは静かに踵を返す。
「それじゃあ、わたしはこれで……」
「待ってよ、アマラ!」
シェーナがわたしにすがりついてくる。ぐちゃぐちゃになった泣き顔。わたしは思わず顔をしかめてしまう。
「私、あなたがいなくちゃ一人ぼっちなの。嫌なの。寂しいの。戻ってきてよ……!」
(はい?)
まったくもって意味がわからない。わたしは大きく首を傾げる。
「なにを言っているの? この状況を作ったのはあなた自身でしょう?」
「だって、羨ましかったのよ。あなたが大切に思っている存在が。だから、どうしてもほしかったの! カーシー様が私のものになったら、アマラは私を一番に考えるって思ったの。本当に、それだけなのよ!」
シェーナの言葉にわたしとカーシー様は目を丸くする。
まさか、そんなことのためにわたしとカーシー様の仲を引き裂いたのだろうか? シェーナは大きな瞳からポロポロと涙を流しつつ、わたしのことを見あげている。
「ごめんなさい、アマラ! 戻ってきて! 戻ってきてよ」
「……そんなの無理よ」
失ったものがもとに戻ることはない。わたしにとって、シェーナに対する親愛の情は戻りようがないものだった。
「どうして? カーシー様ならあなたに返すわ! そうしたら戻ってきてくれるでしょう?」
「いい加減に……!」
「失礼」
と、ノックとともに応接室の扉が開く。
「あ……ケネス様」
「揉めているようだから様子を見てきてほしいと頼まれて……大丈夫かい、アマラ?」
ケネス様はそう言ってシェーナを私から引き剥がしてくれた。緊張の糸が途切れたせいだろうか? 眉間がグッと熱くなる。
「あの、あなたは……? 今は取り込み中です。こちらは大丈夫ですし、関係のない方にはご遠慮いただきたいのですが」
そう口にしたのはカーシー様だった。彼はソファから立ち上がり、ケネス様をじっと睨みつける。
「俺は――」
ただのクラスメイトだと――てっきりそう言われるものと思っていたのに、彼が次に口にしたのは思いがけないことだった。
「彼女の両親に結婚を申し込んでいる。だから、無関係じゃない」
「え?」
聞き返したら、彼はそっと目を細めた。
「アマラの母方の実家は我が国の名家で俺の実家――ロドヴィック伯爵家とも親交があるし、他国と縁を結べるのはありがたいことだ。ディレイン家の事業は我が家にも関連があるし、俺たちの政略結婚には双方メリットがある」
彼はわたしに一枚の封筒を手渡した。実家の――ディレイン家の封蝋がされた手紙だ。うながされて中身を読むと、そこには両親がわたしを労る気持ちと、結婚を申し出てくれたケネス様への感謝の想いが綴られている。もしもわたしが望むなら、この結婚を受け入れるとも……。
「そんな、そんな結婚の決め方って……」
カーシー様がそう言って顔をしかめる。ケネス様はふっと目元を和らげ、わたしのほうへと向き直った。
「――とまあ、ここまでが建前。ねえ、アマラ……恋愛だけじゃなく政略を絡めたら、君は俺の気持ちを受け入れてくれる?」
「え?」
ケネス様の言葉に心が大きく震える。
「感情や言葉だけじゃ信用に足りないと言うのなら、俺はそれを埋めるための努力を喜んでするよ。口先だけじゃなくて行動で、君への想いを示し続けると誓う。アマラがもう一度きちんと前を向けるように。人を好きになれるように。……どうか俺を信じてほしい」
もう誰も、なにも信じられないと思っていた。感情や、口先だけの言葉になんの意味もないって。けれど、もしもそれ以外のものをくれるというのなら……。
「待ってよ! あなたと結婚なんてしたら、アマラが帰ってこないじゃない!」
シェーナが再び悲痛の声をあげる。ケネス様は「そうですね」と言って目を細めた。
「そうですね、じゃないわ! ねえ、アマラ! アマラはカーシー様のことが好きなのでしょう? だったら、戻っていらっしゃいよ。私、今度は間違えないから。あなたの邪魔をしたり、傷つけたりしないから。ねえ……」
「シェーナ」
わたしは言いながら大きく首を横に振る。
「今さら無理。もう戻れないし、戻らないよ」
シェーナは呆然とこちらを見つめたあと、ガクッと膝から崩れ落ちた。
***
あれから数日が過ぎた。
シェーナはカーシー様に引きずられるようにして母国へと帰っていった。
去り際、カーシー様はもう一度『ごめん』と言ってくれたけど、やっぱりわたしには彼の謝罪を受け入れることはできなかった。
『さようなら』
もう二度と、二人に会うことはない。……わたしの決意を悟ったのだろう。カーシー様はとても寂しそうにほほえんでいた。
それから、ケネス様との関係はというと――
「アマラ、今日こそ返事は決まった?」
「……ケネス様、そんなに毎日尋ねられても返答に困ります」
わたしはまだ、彼との結婚について結論を出せていない。
ケネス様は一応、わたしの感情をおもんぱかって、政略結婚の体をとってくれた。
しかし、その実態は恋愛感情に基づくもの――すんでのところでひっくり返ったり、傷つくことがあるかもしれない。相手を好きであればあるほど、裏切られたときの悲しみは大きい……それは十分すぎるほど身にしみている。慎重になってしまうのは無理もない。
「好きだよ、アマラ。俺は君のことが好きだ」
それでも、人は恋をしてしまう生き物なのだろう。何度傷つけられても。……誰かを信じて、幸せになりたいと願ってしまう生き物なのだろう。
(いつか)
自分の心に整理がついたら――そうしたら、彼の気持ちに本当の意味でこたえられる日が来るのだろうか? 笑顔で『わたしも』と返事ができるだろうか?
(そうだったらいいな)
心のなかでそうつぶやきながら、わたしはそっとほほえむのだった。