第99話『走ってはいけない』
■ 走ってはいけない
地球一家6人は新しい星に到着し、楽しそうに会話を始めた。ミサがジュンに話しかける。
「旅行中、ちょっと運動不足で心配だわ。太ってないかしら?」
「運動不足? 毎日よく歩いてるじゃない」
「歩くだけじゃ不安なの。走らないと」
「そうだな。旅行中に走る機会が少ないのは確かだ」
「新しい星に、広い野原や海があるといいわね。思いっきり走ってみたいわ」
「よし。新しい星に広い場所があったら、二人で競争しようか」
その時、書類に目を通していた父が話に割り込んできた。
「いいぞ。ミサの希望にぴったりかもしれない。ほら、今日のホストハウスは海から近いぞ。しかも、海岸がものすごく広い」
「いいね。まさにちょうどいい。早く走りたくて足がむずむずしてきた」
そして空港に到着し、外に出るため自動ドアを開けると、HFが立っていた。
「地球の皆さんですね。お疲れ様です。今日のホストを務めさせていただきます」
「ありがとうございます。ホストの方がわざわざ空港まで出迎えてくださるなんて」
父が礼を述べると、HFは声量を少し絞るようにして答えた。
「いえ、ちょっと気になったことがあったもので」
気になること? 何だろう?
HFは、地球一家の先頭に立って歩きながら、説明を始めた。
「皆さんの自己紹介を読みました。その中で、ミサさんは走ることが得意と書かれていたので、早くお会いしてお伝えしないと、警察に捕まってしまうといけないと思いまして」
ミサは、目を丸くして尋ねた。
「警察に? どういうことですか?」
「やはり、ご存じなかったようですね。この星では、走ることは禁止されているのです」
「走ってはいけない? まるで学校の校舎の中のルールみたい。どうして禁止なんですか?」
「交通事故を防ぐためですよ」
「確かに、走らなければ車とぶつかることもありませんね」
「車? この星には車はありません。電車があるだけですよ。決まった線路の上を走る電車があるだけなので、衝突事故は絶対に起きないのです」
「それはまた徹底していますね」
「そうなんです。とにかく、車はないので、私が申し上げた交通事故とは、人と人が路上で衝突する事故のことです」
次に、ジュンが疑問を口にした。
「ますます不思議だ。電車のない所で急いでいる時はどうすればいいんですか?」
「走ることはできないので、競歩で動きます。競歩って知っていますか?」
「地球では、日常生活で競歩をすることはありませんが、一つの運動として知っています。早く歩くことですよね」
「はい。そして、走ることと区別するために、片方の足が着地する前にもう一方の足を上げることは許されません」
「なるほど。地球の競歩の競技と同じルールだ」
その時、タイミングよく競歩で歩く男性が、一同を追い越していった。HFがその背中を指して地球一家に示す。
「ほら、見てください。競歩の人がいますね。何かの理由で一刻を争っているんでしょう」
確かに、速い。地球の競歩の選手よりもはるかに速い。もっとも、地球人が走るよりは明らかに遅い。
「そうか、なるほど。地球の皆さんは競歩に慣れていないから、急いでいてもあれほど早く移動できないということですね。そこは今日一日、我慢してください。皆さんも走ってはいけないのですから」
「わかりました。十分気を付けます」
父はそう言い、家族一同うなずいた。
「まあ、急ぐ必要なんてない一日になると思いますよ」
HFの説明のとおり、自動車もバスも見かけることは全くなかった。そして、競歩で歩いている人を時折見かけた。
ホストハウスに着くと、HFと地球一家はテレビを見て過ごした。ちょうど競歩の選手権大会の番組をやっていた。地球の競歩の選手よりもはるかに早いことに気付き、地球一家は感心して見ていた。
翌朝起きると、HFは地球一家に言った。
「皆さん、早起きですね。空港に行く途中に海岸があります。みんなで海岸を散歩しましょう」
海岸に着くと、HFは事務所のような小さな小屋にいる高齢の男性に話しかけた。
「おはようございます。地球の皆さんと一緒に海を楽しんできます」
「はい、わかりました。もし具合の悪い人がいたら、私の所に来てください。私は医者ですから」
「大丈夫。私も地球の皆さんも、こんなに元気ですよ」
砂浜に出て海のほうまで見渡すと、人影は全くない貸し切り状態だった。父がHFに尋ねる。
「誰もいませんね。泳ぐことも禁止されているんですか?」
「泳ぎは許可されていますよ。そんなにスピードが出るわけじゃありませんから」
ミサは、広い砂浜を展望しながら、走ることができなくて本当に残念だと感じていた。
HFは、服を脱いで水着姿になった。地球一家が、自分たちも水着に着替えたほうがよいのだろうかと迷っていると、HFは安心させるように言った。
「この海は、それほど深くありません。まず、私が泳いでみせましょう」
HFは浅瀬のほうで泳ぎ始め、振り向くと大声で言った。
「ここまで来るとかなり深くなりますから、これ以上先には行かないほうがいいでしょう」
ところが、そう言い終わらないうちに、HFは何か痛みを感じたような表情になった。
「痛い! 足が! クラゲに刺された! 痛い! 痛い!」
HFが溺れ始めた。大変なことになった。泳ぎの得意な父とジュンが、すぐに助けに向かった。
HFはすぐに陸に助け上げられたが、意識が戻らない。医者を呼ばなければ。
「海岸の入口にいたおじいさん、医者だと言っていたよ。あの人の所にすぐに行こう」
ミサがそう言うと、父がHFの胸骨を圧迫しながら叫んだ。
「ジュンとミサ、頼むぞ」
ジュンとミサは走り出そうとしたが、ジュンが一瞬止まった。
「そうだ、走っちゃいけないんだ」
「こんな命に関わる非常事態なのに?」
「でも、下手に警察に捕まったりしたら、僕たち地球に帰れなくなるよ」
「周りを見回して。誰も見てないわ」
「監視カメラが見ていたりして」
「カメラもどこにもないわよ。さあ、走りましょう」
「そうだな。クラゲの毒が回ったら、命に関わる。アナフィラキシーショックの恐れもある。一分でも早く対処しないと」
ジュンが腕時計を見ると、10時5分過ぎだ。遅くとも10分以内には医者に診てもらいたい。ジュンとミサは、走り出した。
海岸線に沿って走ると、医者のいる所にたどり着いた。ジュンが再び時計を見ると、10時8分だ。3分でたどり着けたのだから、やはり競歩ではなく走ったのは正解だ。
ミサが医者を見つけて叫んだ。
「早く来てください。ホストのおじさんが、クラゲに刺されたんです」
「何? それは大変だ。救急隊を呼ぼう」
「そういえば、この星に救急車なんて走っているんですか?」
「この星の救急隊は、全てヘリコプターでやってきます」
なるほど。車がないことが徹底しているな。
医者は救急に電話をかけ、場所を伝えた。
「さあ、患者の所へ行って、救急隊の到着までにできる限りのことをしましょう」
医者は、競歩を始めた。
「走らないんですか?」
「走ろうと思えば、走れるよ。でも、これがルールだ」
医者は、かなりのスピードの競歩で海岸に向かった。ジュンとミサは、かなり遅れて競歩で医者の後をついて行った。
医者がHFに応急処置を施したところ、すぐに意識は取り戻せた。
やがて、救急隊のヘリコプターが到着し、HFを乗せて飛び立った。
その後、連絡を受けた警察官が来てジュンに尋問を行った。
「けが人の命に関わるので、覚えているかぎり正確な時刻を答えてください。まず、彼を助け上げたのは何時何分でしたか?」
想定外の質問だったが、ジュンは腕時計をしっかり見たので、時刻ははっきり覚えている。命に関わる以上、正直に答えるべきだろう。ジュンは尋問に即答した。
「10時5分です」
「では、医者の所に着いたのは?」
「10時8分です」
「あの距離をたったの3分で? それは我が星の競歩の新記録かもしれません。本当にそんな早かったんですか? ちょっとここで歩いてみてください」
ここまで問い詰められると、言い逃れできない。逃げてしまおう。
「ごめんなさい」
声を合わせて謝罪すると同時に、ジュンとミサは出し抜けに走り出した。
「おい、こら。待て」
警察官は二人を競歩で追いかけたが、走って逃げる二人に追いつけるはずがなかった。
「そこの男性の方、彼ら二人を捕まえてください」
警察官は、ジュンとミサの至近距離にいた男性に指示を出した。男性は競歩で追いかけたが、二人との距離は広がるばかりだ。男性は、別の女性に追跡の指示を出した。
「警察からの命令です。その二人を捕まえてください」
相手は競歩とはいえリレー形式となり、ジュンとミサはさすがに疲れてきた。追い手側は、さらに女性から別の女性に交代している。もう少しで追いつかれそうだ。それでもなんとか広い公園まで追いつかれずに逃げることができた。飛行機の離着陸が見える。空港までそう遠くはなさそうだ。
「ジュン! ミサ!」
タクの声が聞こえる。公園の中でタクは二人に向かって手を振っており、その横には、父母とリコの姿も見えた。
「お父さん! お母さん! タク! リコ! 追われているの。一緒に逃げて!」
ミサが走りながら必死で叫んだ。ジュンも走る。そしてその後ろには、競歩ながらも必死で追いかけてくる若い女性の姿。
「走ったらまずいだろ」
父は眉をひそめたが、ジュンとミサがスピードを緩めずに走り続けるので、父母とタク、リコも、走ってはいけないなどと考えてもいられず、みんなで走り出した。
競歩で追ってくる女性は、6人まであと1メートルの所まで迫ってきた。いつ捕まってもおかしくないと観念した地球一家だが、追いつかれそうで追いつかれない。不思議に思いながら逃げていると、競歩の女性は初めて声を出した。
「皆さん、しっかり逃げてください。私は絶対に追いつきませんから」
いったい、どういうことだ?
「地球の皆さんは、危険な状態の人を助けた恩人です。警察に捕まってはなりません。変えなければならないのは、この星の法律です。その思いは、住民みな同じです」
事情がわかって、ほっとした。地球一家は振り返り、返事代わりに軽くほほえんだ。
そして6人は空港入口までたどり着き、ゲートを通過した。競歩の女性がゲートを通ろうとすると、空港の係員男性に制止された。
「ここから先は、立入禁止ですよ。空港の規則に従ってください」
女性はそれ以上入ることを遮られた。係員男性は、地球一家に目配せをして見せた。彼も自分たちの味方なのだ。
6人は無事に搭乗口まで逃げ切り、肩で息をしながら苦しそうな表情で万歳した。
「ミサ、たっぷり走れて十分満足だろ?」
ジュンにからかわれ、ミサは笑う元気もなく首を横に振った。




