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第84話『癒やしの水族館』

■ 癒やしの水族館


 地球一家6人は、今日のホストハウスを目指して歩きながら、何ともいえぬ平和な空気を感じ取っていた。緑があふれる街を歩く人々の優しい笑顔からは、ストレスの要因がみじんも感じられない。身も心も癒やされて、疲労から解放される一日になりそうだ。


「おじゃまします」

 ホストハウスの玄関前でリコが大きな声を出すと、ホスト夫妻が出迎えてくれた。地球一家はリビングに案内され、ホスト夫妻との歓談を楽しんだ。

「皆さんは、これまでどんな旅行をしてきたんですか?」とHF(ホストファーザー)

「毎日毎日、ハラハラドキドキが多かったです」と父。

「楽しい旅行をしてきたということですね」とHM(ホストマザー)

「楽しいことばかりではありません。つらいハプニングがあったり、時には救急車に乗せられることもありました。後から思い出すと、それもいい思い出です」

 母がそう言うと、HMが少し不安そうに言葉を返した。

「そうすると、今日の予定は皆さんにとっては少々物足りないかもしれません。皆さんを近所の水族館にご案内しようと思っているのです」

 母は、満足そうにHMに言った。

「水族館、いいですね。子供たちも喜びますよ」

「本当にいいんですか? 水族館は私たちの最大の癒やしスポットです。とにかく、心も体も癒やされます。でも、それだけですよ。スリルのある冒険はありませんし、ましてや救急車に乗るなんて考えられません」

「それでいいんですよ。毎日ハラハラドキドキでは疲れ切ってしまいます。たまには癒やされるだけの一日も欲しいです」

「では今日は、皆さんが疲れをとって癒やされる日にしましょう。水族館を存分にお楽しみください」


 HMは地球一家を水族館まで案内すると、入場口で人数分のチケットを購入し、係員に確認した。

「私はここに何度も来ていますが、地球の皆さんにとっては初めてです。安全のための注意事項はありませんでしたよね」

「何もありませんよ。プールに自分から飛び込んだりしない限りは」

「危険な生物なんていませんよね」

「いませんよ。大人しくて優しい生物ばかりです。この水族館では、けが人一人出たことがありませんから」

「よかったわ」

 HMはそう言いながら、地球一家に向かってほほえんだ。


 水族館に入場すると、7人は一緒に歩いて行動した。ジュンは水槽の中を指してHMに尋ねた。

「あれは何でしたっけ? エイ? それともマンタ? 生き物の名前はどこかに書いてないんですか?」

「どこにも書いてありません。私にもわからないんです」

 HMは、部屋の天井に設置されているライトを指しながら、ジュンに説明した。

「生物の名前はわかりませんが、淡水魚か海水魚かはわかりますよ。このように水槽が暗いのは、海水魚の中でも深海魚です」

「深海底の環境に合わせているんですね」

「どちらにしても、人のいる所は水槽よりも暗くして、生物の目から人間が見えないようになっているんです。ストレスがかからないように」

「なるほど」

「それ以上のことは、わかりません。おそらく私だけでなく、ここにいる観客みんなそうです。この水族館は何度も訪れていますが、生き物の名前を気にしたことはありません。でも、それでいいじゃないですか。今日、私たちは知識を得るために来たんじゃないんです。癒やされるために来たんですから」

「そうですね。名前なんてどうでもいいや。とにかく気持ちのいい時間を過ごそう」

 ミサとタクが一緒に楽しそうにはしゃいでいるのが、誰の目にも明らかだった。

「ミサとタクは、今日は異様に仲がいいな」と父。

「二人の共通点は、昔から水族館が大好きだってことね」と母。

「写真撮ってやる。こっち向いて」とジュン。

 ミサとタクが二人そろってピースサインをすると、母が慌てた。

「ちょっと待って」

 母は二人の様子をHMに示し、注意深く尋ねた。

「せっかく癒やされている皆さんの気分に水を差してはいけませんから、念のためお尋ねします。地球では、あのように指を二本伸ばすことが平和の印なんですけど、この星では大丈夫ですか? あのジェスチャーに何か悪い意味は含まれていませんか?」

「大丈夫です。この星でも写真を撮る時にVサインはします」

「じゃあ、安心だわ。みんな、遮ってごめん」

 ジュンはあらためて二人のピースサインの写真を撮った。

 母は、さらに尋ねた。

「この星では、例えば人を侮辱するような、誤解される恐れのあるジェスチャーや仕草は、特にないでしょうか?」

 HMは考え込んだが、やがて笑って回答した。

「特段思い付きません。悪意のあるジェスチャーなど、見ている人を不快にさせるポーズはこの星には一つもありませんよ」

「ならば安心だわ。ありがとうございます」

「そろそろ中央広場に行きましょう。水中に住む動物のショーが始まります」

「水中に住む動物? 名前は?」

「名前は知りません。でも、楽しめればそれでいいでしょ」

「どんなショーですか?」

「動物がビーチボールなどを使って芸を披露してくれます。その後に餌付けショーがあって、最後に産卵ショーです。産卵の季節は一年のうちでも限られていますから、見られるのはラッキーですよ」


 一同が中央広場に到着すると、アシカに似た動物が一匹、プールを泳いでいた。ほどなくして、その動物と係員がビーチバレーを始めた。その背後で、二人の若い男性スタッフが待機している。母が気になってHMに質問した。

「あの二人の男性は何ですか?」

「餌付けをするスタッフですよ。ビーチバレーの次は餌付けショーなので、準備をしています」

「どうして二人いるんですか?」

「二人組でやらないと危ないから」

「危ない? 大人しそうだけど」

「大丈夫。大人しいですよ。事故が起きたことはありません」


 アシカのような動物は、ビーチボールを使ったさまざまな芸を見せた後、水中から出てお立ち台の上に乗った。観客から盛大な拍手が巻き起こると、係員はマイクで観客に呼びかけた。

「さあ、写真撮影タイムですよ。動物と一緒に写真を撮りましょう」

「タク、行くわよ」

 ミサがタクを誘って写真撮影の人々の列に並ぶと、すぐに順番が回ってきた。ミサは、タクに向けていろいろな身振りをして見せた。

「今回はどんなポーズで撮る? ピースサインは、さっきやったし」

「じゃあ、ハイタッチをしよう」

「いいね」

 ミサとタクは、お立ち台に乗ったアシカらしき動物がすぐ後ろに写り込むような位置に立った。そして、ハイタッチでミサの右手とタクの左手を合わせた。ジュンはカメラを持って構えた。

「はい、ポーズ」

 すると、それまで大人しくしていたその動物は、ハイタッチをしていた二人の手に唐突に近づき、大きな口を開けてガブリとかみついた。一瞬の出来事であり、油断していた二人は逃げる余地もなかった。

「痛い!」

 タクが叫ぶと、スタッフは俊足に動物を手なずけ、二人の手はすぐに解放された。タクの手からは流血していた。

「指が動かないわ」

 ミサも激痛を訴えた。見物客の一人が近くの公衆電話に向かって走り出した。

「今すぐ救急車を呼びますね」

 父は二人を心配しながら、HMに尋ねた。

「どうしてこんなことに」

「こっちが聞きたいです。ミサさんとタク君は、なぜあのポーズをとったんでしょうか?」

「地球ではハイタッチといって、写真を撮る時などによくやるんですよ」

「まさか想定外でした。あのポーズだけは、この星ではやってはいけなかったんです」

 HMは、アシカに似た動物を指しながら説明を加えた。

「あのポーズは、『ここに餌があるよ』という意味です。その昔、餌付けのサインをどうするか議論になった時、間違ってかみつかれることを防ぐために、普通の人が絶対にやりそうにないポーズに決めたんですよ。しかも、一人だと偶然そのポーズになってしまう瞬間があるといけないので、二人一組で」

 そういうことだったのか。


 救急車で近くの病院に搬送されたミサとタクは、二人一緒に診察室に入って応急処置を受けた。二人がハイタッチのポーズをしながら経緯を説明すると、男性医師は言った。

「それは餌付けの合図ですね。かみつかれて当然ですが、知らなかったのならば実に不運です」

 ミサとタクがあらためて苦笑いをすると、医師は尋ねた。

「それで、何の動物にかまれたんですか? 毒を持っている可能性があるので、すぐに注射をしないといけません」

 ミサは、医師に答えた。

「生き物の名前ですか? わからないんですよ。水族館でショーをしていたんですけど、誰も名前を知らなくて」

「どこの水族館ですか?」

「あー。聞いてなかったな。生物によって注射の種類が違うんですか?」

「注射は2種類あります。その生物が魚類なのか、それとも哺乳類なのかによって」

 これを聞いて、タクがミサに確認した。

「水中に住む生物でも、クジラやイルカは哺乳類だよね」

「あの動物は、たぶんアシカよ。いや、アザラシかもしれない。どちらにしても、哺乳類だわ」

「哺乳類ということでいいですね」

 医者が注射をしようとした時、タクがミサに言った。

「そういえば、餌付けの後に産卵ショーがあるって言ってたよね」

「そうだ、卵を産むんだ。ということは、魚よ。哺乳類ではありません!」

 医師はミサが断言するのを聞き、別の注射器に持ち替えた。

「魚類にかまれたことに間違いなさそうです。危ないところでした」

 二人の注射が終わった時、父と母が診察室に入ってきた。

「癒やしの水族館と呼ばれるあの水族館で、初めてのけが人だそうだ」

 父がそう言うと、母も続けた。

「結局、私たちは今日も冒険旅行になってしまったね」

 全員で笑い合えるほどに、二人の痛みは既に消失していた。

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