第六十八話 起源
日は天高く上り、蒸し暑くなってきた。昼飯時だからだろうか。辺りからいい匂いがしてくる。その匂いを嗅いで、俺の腹が鳴った。
「じゃあ、伊織。また後でな」
「ああ。次は俺が勝つぞ」
そう言って、二人が別れる。木刀を深く握りしめて、俺が腕を大きく上に伸ばした。
別に急いでいるわけでもないはずなのに、俺が全力で走り出す。他の住人にとって見慣れた光景になっているのだろうか、特に注目を集めている訳ではなさそうだ。
その幼い背中を目で追い続ける。こうして走っていれば体力も増えるんじゃないかなどと思って、いつも全力で走り出していた。我ながら、単純な奴だ。
俺も続く。
「ハァ......ハァ......」
全速力で走っていた俺が急停止したのは、見慣れた一軒家。決して広い訳ではないが、一世帯が暮らすには十分すぎるほどの大きさがある。
かつて、俺が育った家が、目の前にあった。
「ただいまー!!!!」
(......ただいま)
俺が靴を脱ぎ捨て、ドタドタと大きな音を立てて廊下へ向かった。
記憶の中の世界だけど、なんとなく気持ち悪くて、靴を脱いで玄関から家に上り込む。
居間の方へ続く廊下。日が差し込む位置にないからだろうか、薄暗く、そこにある箪笥から妖怪でも出てきそうな雰囲気だ。
ふと、視界に入った右側の壁の汚れが、何故だか妙に懐かしかった。ただの壁についた汚れなのに、こんなものを見ただけでも郷愁の念に駆られている。
彼を追いかけて、ゆっくり歩いて居間へ向かった。
居間に入った俺が最初に目にしたのは、座ったまま眠っている妙齢の女性の姿。目を閉じて、疲れからだろうか、こくんこくんと頭を揺らしながら眠っている。目にするのは、三年ぶりになる。この、幸薄い顔つきをした彼女は、俺の母親だ。
「母さん! ご飯にしよう!」
そう言った俺が、肩を揺すって彼女を起こそうとする。きっと疲れているだろうに、瞼をゆっくりと開けた彼女が、目頭を手でこすった。
「ん......あら、もうそんな時間なのね。玄一。ご飯にしましょう」
彼女が台所の方へ立ち上がる。すでに用意していたのだろうか、ご飯茶碗と漬物が出てきた。俺はそれにいただきますと声を上げて、箸で白米を掻き込んでいる。喉に詰まるんじゃないかと心配するぐらいの勢いだ。
それを見た母さんは、にっこりと笑っている。ただご飯を食べているだけなのに、飽きもせずそれをずっと眺めていた。
捨て子である俺と母さんの間に血の繋がりはない。どこに捨てられてたとかそういうのも知らないし、いつ生まれたのかも定かではない。
その事実を知ったのは、まだまだ言葉数も少なかったさらに幼い時。その時は確かにショックだったけど、母さんと父さんが無償の愛を注いでくれたことを知っていたから、すぐに立ち直ることができた。
父さんはシラアシゲの兵隊の一人で、家にあった装備を勝手に触った時に、こっぴどく怒られたのを覚えている。けれど、俺でも扱えそうな木刀をどこかで見繕ってきて、刀の扱いを教えてくれた。その様子を見て、母さんはひどく心配していたが。
俺は今こうして思いを馳せ、自分の起源を再確認している。この故郷を取り戻すために最強を目指すと言ってはいるが、きっとそれは、本質的な動機ではない。
今の俺を突き動かしているのは、間違いなく魔物に対する憎悪。それが兄さんの問いを通して漏れた。タマガキで過ごしている間は、安全だったし、そもそも最近の戦いは対人戦━━血脈同盟との戦いだった。それが出るようなことは少なかったけど、シラアシゲにて熾されたこの烈火は、今も胸の中にある。
あれからの自分を存在させたのは、燃えるこの意志だ。
しかしながら、それは始まりからあった訳ではない。
俺はその以前、何故防人になりたいと思ったんだろうか。
俺が最強を志したのは、剣聖がいたからだろうか。父親が、兵士だったからだろうか。それとも━━━━
「ねえ」
母さんが俺に声をかけて、俺が忙しなく動かしていた箸を一度止めた。それを、壁に寄りかかりながら横目で見る。
「玄一。貴方も父さんのような、戦士になりたいの?」
どくんと、心臓が跳ねる。自分はその場にいないはずなのに、問われているような感覚になった。一滴の冷たい雫が、右頬をそっと伝う。
今の俺とは対照的に、記憶の中の俺は、即答した。
「うん。俺は防人になって、みんなを救いたいんだ」
寄っかかっていた壁から体を起こし離れて、箸を持ったまま決意表明をしている十三歳の少年を見る。彼の背後に立っているため、その表情は見えない。それが見えているであろう記憶の中の母親は、その幼い誓いをじっと見つめていた。
これが......最初に志した純粋な願いなのだろうか。されどその願いは泥に塗れ、傷だらけになり、憎悪に満ちて。今の俺に、その意志を持つ資格はない。復讐を成すためならば、魔物を殺戮するためならば、どんな手段も選ばない。
その過程をこれから見せられることになるのかと思うと、酷く胸が痛んだ。
「防人になるのなら、きっと辛いことがたくさんあるわ。父さんは喜ぶかもしれないけど、母さんはね、玄一に辛い思いなんてして欲しくない。それでも?」
「......うん」
そう短く答えた俺が、深呼吸をした後、食事を続ける。それを会話の終わりだと受け取ったのか、母は一度口を噤んだ。
一度俯いた後、目を開き、真剣そうな表情で再び俺の方を向く。
立ち上がっている俺は、ちょうど記憶の中の俺と重なる位置にいる。母の視線が彼に突き刺さっているように見えて、俺の方を見ているような気がした。
「たくさん失敗すると思う。さっき言ったみたいに、嫌な思いもすると思う。それでも、防人を目指すのなら━━」
「自分の信念だけは、強く持ちなさい。最初から拒絶はせず、実際に色々なことを見て判断して、義を通しなさい。絶対に今母さんが言ったことを裏切らないで。良い?」
俺が静かに頷いた。自信を失い自らを卑下する今の俺の口から、肯定できる言葉は出なかった。




