番外!後漢学園文化祭!その7[飲料]
「さて、次はどこに行こうか」
「あら、リュービ君、奇遇ね」
「リュ、リューキョー学園長!ご無沙汰です」
俺に声をかけてくれたのは、スーツ姿の、まだ少し顔に幼さの残る、髪をサイドアップにまとめた二十代前半くらいの女性、現後漢学園の学園長、竜宝協子、通称、リューキョー学園長だ。
彼女は父である前学園長が不祥事を起こして辞職後、トータクにより無理矢理に学園長に就けられ(※第5~14話)、トータク排除後もその残党に襲われそうになったり(※第32話)と不幸な目にあってる人だ。一時期、ソウソウのもとにいた俺と親しくしてくれていたが、それを理由にソウソウに責められ、以降あまり会う機会がなかった(※第43、44話)。
「選挙戦終わったのにちっとも遊びに来てくれなかったから寂しかったわ。せっかくだしお茶でも飲んでいって」
「なんか兄さん、妙に学園長と親しくありませんか」
「アニキ、もしかして学園長ともよろしくやってたのかだぜ」
「そんなんじゃないから!
カンウもチョーヒも落ち着いてくれ。瞳のハイライトを消さないでくれ」
「まあ、あなたたちがカンウさんとチョーヒさんね。あなたたちのことはリュービ君から聞いているわ。さあ、二人も一緒にお茶していって。
えーと、そちらの子はうちの生徒じゃないわね?」
「あちしはリューちゃんの子供なのだ!」
「だからそれやめてってヒミコちゃん」
「ええ!あなたリュービ君の隠し子なの…
でも大丈夫よ、リュービ君。私あなたに子供がいても受け入れるから」
「何言ってるんですか学園長。
この子はヒミコちゃんといってただ一緒に文化祭を回ってるだけですから」
「そ、そうよね。リュービ君の子供じゃないわよね」
「兄さん、受け入れるってどういうことですか…?」
「やっぱりアニキ、学園長と何かあったのかだぜ…?」
「だから二人とも瞳のハイライト消さないでよ!」
なんとか二人をなだめつつ、俺たちは臨時学園長室でお茶をいただくことになった。
「今回、文化祭ということだけど、あいにく私は特に用意していないわ。
でもせっかくですから少しだけ『三国志の飲料』の話をしましょうか」
リューキョー学園長は俺たちにお茶とお茶菓子を出してくれると、解説を始めた。
「まずは『お茶』の話ですね。
お茶の原産はインドや雲南地方(現雲南省)あたりと言われていますが、中国には古くから入ってきていたようで『詩経』(中国最古の詩篇。前九~前七世紀頃の詩を集めている)や『爾雅』(中国最古の辞典。成立年は諸説あるが、春秋時代~漢代頃(前7~前2世紀頃)と言われる)にその名前が見えます。
ですが、お茶は薬としての側面も強く、古代ではあまり一般的な飲み物ではありませんでした。次第に蜀(中国南西部)を中心に広まり、漢の時代頃(前三世紀~三世紀頃)から徐々にではありますが一般的に飲まれるようになってきたようです。
呉の学者の韋曜(韋昭ともいう)はお酒が飲めなくて、宴会では代わりにお茶を飲んでいたそうなので、三国時代にはかなり一般的になっていたようですね。
後漢の名医・華佗が撰したと言われる『食論』には「苦荼(茶の古名)は久しく食すれば意思を益す」とあり、晋の郭璞の『爾雅注』(前述の爾雅に注釈を施したもの)には「煮て羹(スープ)にして飲む」とあるので、この頃のお茶は、茶葉を煮て、そのまま葉も一緒に食していたようですね。
また、魏の張揖の書いた本の『広雅』(前述の爾雅を増補した辞典)には荊州・益州(中国南西部)辺りの飲茶法として、茶葉を餅状にしてあぶり、粉にしたものに湯を注ぎ、葱、生姜、橘子(柑橘類)などを加えて飲むという方法を紹介していて、これなんかは今の抹茶や中国の団茶(粉にした茶葉を固めて湯に溶かす飲み方)に近い飲み方ね。
お茶を賞賛した詩としては早いものだと晋の杜毓(別名杜育とも。魏の杜襲の孫)の『荈賦』(荈=茶の古名の一つ)が有名ですが、やはり中国のお茶文化に最も貢献したのは唐(八世紀頃)の陸羽の『茶経』でしょう。
これは最古の茶の専門書で、お茶の品質や種類、お茶の淹れ方や技術などを紹介し、これにより一層お茶文化が盛んになり、現代では中国にとってお茶文化はなくてはならないものとなりました」
「リューキョー学園長…なんか先生みたいですね」
「リュービ君、失礼ですね。私だって先生ですよ」
リューキョー学園長は頬を膨らませ、そっぽを向いてしまった。
「す、すいません…
そうだ、お茶以外にはどんな飲料を飲んでいたかも教えてくれませんか」
「仕方ないですね。
周の時代(前十一~前三世紀頃)に宮中の飲み物とされたのはまずはお酒、それ以外ですと水、漿、醴、凉、医、酏が定められていました。
水はそのままお水ですね。
漿は重湯(粥の上澄み液)のことです。漿は特によく飲まれていたようで、既に周の時代(前十一世紀~前三世紀頃)にはこれを専門に売る店もあったようです」
「そういやさっき飲食店エリアに「漿」って書かれた看板の店があったな。これのことだったのか」
「醴は黍粥に麹を加え発酵させた甘酒で、凉は氷水、医は今の酸梅湯、梅などを煮てつくる清涼飲料水で、酏は飴の水割りです。
三国時代には他にも異民族を通じて酪、つまりミルクやその加工品なども入ってきていたようです」
「学園長、お酒はどうだったんですか?」
「リュービ君、未成年なのにお酒の話を聞きたがるのは感心しませんよ」
「い、いや、流れ的にその説明もした方がいいかなと…
高校生が話すよりは学園長が話す方がいいかなと」
「そうですね…この作品、成人済みの登場人物他にいませんしね」
「そんな真顔でメタなことを…」
「では、お酒にも触れておきましょう。ですが、お酒はとても歴史のあるものですから触りだけ簡単にいきましょう。
何しろお酒は新石器時代には既にあったようですから。伝説によると神農(神話時代の人物)の料理人杜康や夏(伝説時代の王朝)の始祖・禹に仕えた儀狄らがお酒の創始者と言われています。
ちなみに現代、お酒造りの職人のことを杜氏といいますが、一説にその名前は、この杜康に由来するそうです。
殷代(紀元前十七世紀~紀元前十一世紀頃)に麹(糱、麯)が発見されました。
周代(前十一世紀~前三世紀頃)には事酒、昔酒、清酒の三種類があったと言われ、事酒は祭祀の時の世話人が飲んだ通常のお酒、濁り酒、昔酒は長い年月の経った古酒、清酒は更に長く貯蔵し、滓が沈殿し澄んだお酒です。つまり保存期間の違いでその種類が別けられ、清酒といっても、日本の清酒とは違うものですね。
お酒は昔から祭祀に用いられてきたので社会的にも重要な飲料でした。
しかし、嗜好品としての需要も高まり、周の末期、春秋戦国時代(前八世紀~前三世紀頃)あたりには既に酒屋が出現し、漢(前三世紀~三世紀頃)代には地名を冠した地酒のようなものも作られるようになりました。
また、漢代(前三世紀~三世紀頃)にはシルクロードを渡って葡萄酒も入ってきていたようです。
三国時代のお酒だと、魏の曹操が献帝に奏上した九醞春酒法が知られていますね。これは郭芝という方が伝えていた酒造方法で、九醞とは九度醸造するその製造方法から、春酒は正月(旧暦では正月は春)から作り出すことからこの名前がつけられました。
しかし、六世紀の農法書『齊民要術』ではよく似た酒造方法として舂酒(麹をついて粉にして仕込む酒)が紹介されているので、九醞“春”酒法ではなく九醞“舂”酒法である可能性もありますね。
お酒に使われていた原料は黍、粟、米など多くの穀物が利用されていました。先程の九醞酒には米が、晋の孔羣にはもち米(秫米)をお酒の原料にする話が出てきますから、この時代にはお米やもち米が特によく使われていたのかも知れませんね」
「しかし、曹操って酒造りにも出てくるのか。何でもやる人だなあの人」
「そうですね、曹操は他にも『魏武四時食制』という料理書も書いていたそうなので、料理とかそういうのも好きな方なのかも知れませんね」
「本当に何でもやるなあの人…」
「後、お正月に飲むお屠蘇の起源は、名医・華佗が曹操に授けた処方をもとにしているという伝承があるようですね」
「そしてどこにでも顔を出すな…曹操は…
でも、三国志には酒にちなんだエピソードも多いよね。張飛とか」
「待ってアニキ。
オレは飲酒なんてしてないんだぜ」
「いや、これは張飛の話であってチョーヒの話ではないんだよ」
「だからオレのことだろ?」
「ふふ、仲がいいのね、あなたたちは。
さて、三国志のお酒の話というと、お酒での失敗も多い張飛を連想しますが、彼のお酒での失敗は小説の演義の作り話で、歴史書の正史には出てきません。
お酒の席だと、曹操は上機嫌で大笑いし、頭を杯や器の中に突っ込み、お料理やお酒で汚してしまったこともあったそうだから、なかなかの酔っ払いぶりね」
「曹操ってなかなか酒癖悪いのか」
「でも、もっと酒癖悪いのは呉の孫権ですね。
孫権は宴会の席で酔い潰れた家臣がいると、水をかけて起こし、「今日は存分に|飲み、酔っ払って台から転げ落ちるまでやめないぞ」と言うと、重臣の張昭は黙って退出してしまいました。
孫権は呼び戻して「皆で楽しく酒を呑んでるのに、何を怒っているのか」と聞くと、「殷の紂王の酒池肉林(紂王は酒の池や肉の林を作り贅沢三昧をして国を滅ぼした)も本人は楽しみのつもりで、悪事とは考えていませんでした」と張昭は答え、孫権はその日の宴会は止めたそうです。
また、別の宴会で、孫権自ら家臣にお酌をして回ると、家臣の一人の虞翻は酔い潰れたふりをして酌を受けませんでした。
しかし、この酔いが演技だとばれると孫権は激怒し、剣で彼を斬ろうとしますが、家臣の劉基(孫策に滅ぼされた群雄・劉繇の子)に止められ、虞翻は命拾いしました。以後、孫権は酒の席で自分が殺すと命じても絶対殺してはならないと命じたそうです」
「酔っ払って人を殺そうとするなんて、孫権ってひどいやつだぜ!」
「チョーヒに言われるとなんか引っ掛かるけど、確かに孫権にはあまり関わりたくないなぁ」
「兄さん、多分ですが、今後たっぷり関わることになると思います」
「孫権の孫の孫皓も酒乱であったそうなので、遺伝なのかもしれませんね。
さて、最後に当時のお酒の飲まれ方についての話をしておきましょう。
漢(前三世紀~三世紀頃)の時代の法律では、庶民が三人以上集まって飲酒することが禁止され、特別な許可が必要でした(身分の高い人は例外とされた)。
また、後漢末から三国時代にかけては、飢饉のため、しばしば禁酒令が出されることとなりました。酒造りには穀物が大量に必要になりますからね。ただでさえ食べ物がないのに酒造りに回す余裕はないわけです。
しかし、あまり厳格には守られていなかったようで、清酒を聖人、濁り酒を賢人と隠語で呼び、隠れて飲んでいたようです。
魏の徐邈は禁酒令を破り、飲酒したのを聖人に当たったと言い、曹操を激怒させ、後に息子の曹丕から、相変わらず聖人に当たっているのか、とからかわれたそうです」
「禁酒令が出ても飲みたいものなのか、お酒って」
「お酒は身分の上下を越えて愛される娯楽でもあるわけですね。
魏の文人・阮籍は軍の料理人には酒造りの上手なものがいると聞くと、軍に入り、思いのままお酒を飲んだということなので、食料事情が安定した時には兵士にもお酒が振る舞われていたようです。
また、当時の宴会の様子ですが、先ほどの話で孫権がお酌をして回ったように、当時は身分の高い者がお酌をするのは珍しいことではなかったようですね。
また当時のお酒の席では歌や舞がつきもので、皆で歌ったり、舞を披露していたりしていたようです。
しかし、一方でお酒のおかわりや、歌舞を相手に強要してトラブルになることも多かったようですね」
「いつの時代にもパワハラする人はいるんだなぁ」
「全く、酒の席でパワハラするなんて最低の行為だぜ!」
「…そうですね、チョーヒ」




