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歴史解説 赤壁の戦いその6

 前回は周瑜(しゅうゆ)曹操(そうそう)の両軍が赤壁(せきへき)に到着するところまでを述べた。今回はついに行われる赤壁(せきへき)での決戦の様子とその後の荊州(けいしゅう)ついて述べ、この度の解説を終わりにしたい。



 ◎黄蓋(こうがい)の降伏



 曹操(そうそう)周瑜(しゅうゆ)軍の参戦と疫病(えきびょう)により、身動きが取れなくなっていたが、周瑜(しゅうゆ)軍もまた数万の大軍である曹操(そうそう)軍を前に攻めあぐね、戦線は膠着(こうちゃく)状態となった。


 この状況を打破(だは)したのは、孫権(そんけん)の武将・黄蓋(こうがい)であった。


黄蓋(こうがい)周瑜(しゅうゆ)にいった。「今、敵は多勢で我らは寡勢(かせい)なので、持久戦を行うのは困難です。しかしながら、曹操(そうそう)軍の艦船(かんせん)は互いに密集しており、火攻めをすれば敗走させることができます。」


 そこで蒙衝(もうしょう)(駆逐艦(くちくかん))・闘艦(とうかん)(戦艦(せんかん))数十(そう)を選び、(まき)や草を敷き詰め、その中に油を注ぎ、帷幄(いあく)(おお)い隠して、牙旗(がき)を建てた。そしてあらかじめ曹操(そうそう)に手紙を送り、偽りの降伏をしようとした。』[周瑜(しゅうゆ)伝]


 また、注に引く『江表伝(こうひょうでん)』には、この時の黄蓋(こうがい)曹操(そうそう)へ手紙を送った様子が記述されている。


黄蓋(こうがい)の手紙に()う、「私黄蓋(こうがい)孫氏(そんし)厚恩(こうおん)を受け、武将として取り立てられ、浅からぬ礼遇を(こうむ)っております。しかし、天下には大きな勢いというものがあり、江東(こうとう)六郡に山越(さんえつ)の力をもって中原(ちゅうげん)百万の軍勢に挑むのが無謀なことは、誰が見ても明らかです。()の文武百官も賢愚(けんぐ)を問わず、その無理を承知しているのですが、ただ、周瑜(しゅうゆ)魯粛(ろしゅく)のみが頑固で浅慮(せきりょ)のために納得しないのです。


 私が曹操(そうそう)様に降伏するのはこのような理由からです。周瑜(しゅうゆ)の守るところは簡単に打ち破れます。両軍が戦う時、この黄蓋(こうがい)先鋒(せんぽう)を務めますが、適当なところで寝返ります。それは遠い先の未来ではありません。」曹操(そうそう)はわざわざ黄蓋(こうがい)の使者を引見し、密かに質問をしてから言った。「ただ、この降伏が偽りでないかだけが心配なのだ。黄蓋(こうがい)がもし本当に降伏するのであれば、空前絶後の恩賞を授けるだろう」』[黄蓋(こうがい)伝注江表伝(こうひょうでん)]


 こうして黄蓋(こうがい)曹操(そうそう)へ偽りの降伏を願い出、それを曹操は信じた。何故、曹操(そうそう)はこの降伏を信じたのか。それだけ曹操(そうそう)切羽詰(せっぱつ)まっていたということでもあるのだろう。状況的には一度撤退するのが最善だが、敗戦となれば責任を取らなければならない。かといって時間をかければ劉備(りゅうび)劉琦(りゅうき)軍が参戦してより困難な状況になりかねない。その中で黄蓋(こうがい)の降伏がこの不利な状況の突破口になると判断したのだろう。


 思い返せば官渡(かんと)の戦いも、曹操(そうそう)は不利な状況であったが、許攸(きょゆう)の降伏により状況が打開でき、一転、勝利となった。許攸(きょゆう)袁紹(えんしょう)の古参であったことを考えれば、古参の将・黄蓋(こうがい)の降伏もあり得ないことではない。


 これに加えてもう一つ、曹操(そうそう)が信じた理由は黄蓋(こうがい)の経歴にもあったのではないだろうか。


 『黄蓋(こうがい)伝』によれば、黄蓋(こうがい)は初め孫堅(そんけん)に仕え、孫堅(そんけん)の死後、孫策(そんさく)(つか)え、そのまま孫権(そんけん)(つか)えたという。だが、彼の孫策(そんさく)時代の具体的な事跡は記録がない。


 また、『孫堅(そんけん)伝』や『孫賁(そんほん)伝』によれば、孫堅(そんけん)の死後、その軍勢は(おい)孫賁(そんほん)が引き継いだという。長男の孫策(そんさく)らはこの時まだ未成年で、戦場には出ていない。孫策(そんさく)が成人して袁術(えんじゅつ)の武将となるのは、孫堅(そんけん)の死から二年後である。黄蓋(こうがい)孫堅(そんけん)死後、しばらくは孫賁(そんほん)軍に所属していたのではないだろうか。


 後に孫策(そんさく)袁術(えんじゅつ)に願い出て、孫堅(そんけん)の兵を返して貰うこととなるが、黄蓋(こうがい)らが移籍したのはこれに伴ってのことだろう。そして、その後の孫賁(そんほん)だが前述した通り、孫権(そんけん)によって失脚し、弟の孫輔(そんほ)曹操(そうそう)と内通したとして幽閉(ゆうへい)された。


 この流れを曹操(そうそう)の視点から見ると、今まで事実上の政権運営者だと思ってやり取りしていた孫賁(そんほん)孫輔(そんほ)孫権(そんけん)のクーデターにより失脚。さらに孫権(そんけん)周瑜(しゅうゆ)魯粛(ろしゅく)口車(くちぐるま)に乗せられ、自分に戦争を仕掛けてきた。そんな中、孫賁(そんほん)に縁ある武将が、周瑜(しゅうゆ)魯粛(ろしゅく)のやり方にはついていけないと降伏を願い出てきた。曹操(そうそう)がその話に耳を傾けてもおかしくない状況である。


 だからこそ、曹操(そうそう)への偽りの降伏の役目に黄蓋(こうがい)が選ばれたのではないだろうか。『正史』では自ら言い出したから、その役目を黄蓋(こうがい)が担当したように読めるが、いくら自ら言い出したからと言っても成功率の低い人物なら選ばれないだろう。曹操(そうそう)がその降伏を信じる人物でなければならないが、相手にされないような小物では意味がない。


 孫堅(そんけん)時代から在籍し、この赤壁(せきへき)の戦いに参戦している指揮官クラスの人物は三人。程普(ていふ)韓当(かんとう)、そして黄蓋(こうがい)である。だが、程普(ていふ)周瑜(しゅうゆ)と共に総司令官なのでやるわけにはいかない。


 候補は韓当(かんとう)黄蓋(こうがい)の二人に(しぼ)られる。韓当(かんとう)孫堅(そんけん)(つか)える以前の経歴ははっきりとしない。だが、(つか)えた当初の扱いを見るに、元々良い家柄の出自ではないだろう。


 対して黄蓋(こうがい)はかつて郡の役人を務め、さらに孝廉(こうれん)に推挙され、三公の役所から招聘(しょうへい)を受けている。孝廉(こうれん)とは当時の役人による人材推挙の方法で、さらに三公(大臣最高位)から招聘(しょうへい)されているので、黄蓋(こうがい)は官僚としてエリートコースを歩んでいたといえる。そんな彼が孫堅(そんけん)軍に加入した詳しい経緯は不明だが、おそらく地元で起きた反乱(孫堅(そんけん)鎮圧(ちんあつ)した)に巻き込まれる形だったのだろう。


 いくら黄蓋(こうがい)韓当(かんとう)に武将として戦功があったといっても、遠く離れた江東(こうとう)の地での活躍では曹操(そうそう)は知らない可能性もある。しかし、孝廉(こうれん)に推挙されたとなればそれなりに名が知られている可能性が高い。さらに言えば、黄蓋(こうがい)の出身は荊州零陵郡けいしゅうれいりょうぐん荊州人士(けいしゅうじんし)を吸収した曹操(そうそう)陣営なら彼を知っていてもおかしくはない。


 おそらく、この偽りの降伏者には、孫賁(そんほん)(つか)えたことがあるという経歴と、中央における知名度を考慮(こうりょ)して黄蓋(こうがい)が選ばれたのではないか。


 なお、『演義(えんぎ)』ではこの時の黄蓋(こうがい)から曹操(そうそう)への使者には闞沢(かんたく)(本編未登場)という人物が行っている。闞沢(かんたく)黄蓋(こうがい)の降伏を疑う曹操(そうそう)に、(たく)みな話術で信用させることに成功した。また、後の話ではあるが、実績の乏しい陸遜(りくそん)(本編未登場)を大都督(だいととく)に推薦し、周囲を納得させる役で再登場している。この二つの逸話(いつわ)は共に『演義(えんぎ)』の創作ではあるが、()としては珍しく優遇された人物といえる。


 『正史』での闞沢(かんたく)だが、彼は代々農民の家の生まれで、貧しかったが、苦学して名声を得た人物であった。彼の作成した(こよみ)()の正式な(こよみ)として採用され、また、孫権(そんけん)の息子の先生も務めた。だが、孫権(そんけん)の側近くに(つか)えるようになったのは219年以降のことで、彼の主な活躍は()が建国されて以降の出来事であった。そのため、彼の生年は不明だが、実際の闞沢(かんたく)の年齢は『演義(えんぎ)』の想定より一世代ほど若いと思われる。


 なので、本編ではコウガイの使者の役目は与えず、登場自体させていない。今のところ予定は特にないが、もし登場するとしたら、来年度の入学生となるだろう。



  ◎赤壁(せきへき)での勝利



 黄蓋(こうがい)曹操(そうそう)へ投降する(うま)を伝え、それを信じさせると、ついに曹操軍への攻撃作戦を実行に移した。


 ついに赤壁(せきへき)の戦いのクライマックスである。この時の様子は『周瑜(しゅうゆ)伝』に詳しい。


『(黄蓋(こうがい)は)あらかじめ走舸(そうか)(快速艇(かいそくてい))を用意して、それぞれ大型船の後ろに(つな)ぎ、ともに曹操(そうそう)陣営に向けて出発した。曹操(そうそう)軍の官吏(かんり)・兵士はそろって首を伸ばして観望し、指し示して黄蓋(こうがい)が投降してきたと言い合った。


 黄蓋(こうがい)は(先に(まき)を敷き、油を注いだ)船を切り離し、それと同時に火を放った。時に風は勢い盛んに(たけ)(くる)い、ことごとく対岸にある曹操(そうそう)陣営は焼け落ちた。やがて、煙と炎は天を(おお)い、人馬らあるいは焼け、あるいは(おぼ)れ、その死者はおびただしい数となった。曹操(そうそう)の軍はついに敗退し、荊州(けいしゅう)南郡(なんぐん)へと引き返して立て()もった。劉備(りゅうび)周瑜(しゅうゆ)らとともにこれを追いかけると、曹操(そうそう)曹仁(そうじん)らを江陵(こうりょう)の守備に残し、自身は北へ帰った。』[周瑜(しゅうゆ)伝]


 また、この戦いの様子は注に引く『江表伝(こうひょうでん)』にも詳細に(つづ)られている。


『戦いの日、黄蓋(こうがい)は先に軽快(けいかい)な軍船十(そう)を選び、その中に()れ草を敷き詰め、魚油(ぎょゆ)を注ぎ、赤い幕でこれを(おお)い、(はた)(のぼり)艦上(かんじょう)に建てた。時に東南の風が吹き、十(そう)の船を先頭に立て、長江(ちょうこう)の半ばで()を上げると、黄蓋(こうがい)松明(たいまつ)(かか)げ、将校(しょうこう)・兵士たちに大声で「降伏」と叫ばせた。曹操(そうそう)軍の兵士たちは皆、営舎(えいしゃ)から出てこの様子を見守った。


 曹操(そうそう)の陣営から二里余り(約830m強)のところで、黄蓋(こうがい)は一斉に船に放火した。火の勢いは激しく、強風は吹き荒れ、矢のように船が突き進んでくると、火の粉は飛び、炎は赤々と燃え、曹操(そうそう)軍の船をことごとく焼かれ、その火は曹操の陣営にまで及んだ。周瑜(しゅうゆ)らは軽装の精鋭部隊を率いて延焼(えんしょう)を追うように攻撃を仕掛け、太鼓(たいこ)を鳴らして攻め込んだ。これにより曹操(そうそう)軍は壊滅し、曹操(そうそう)は敗走していった。』[江表伝(こうひょうでん)]


 他に『英雄記』にも記載がある。


周瑜(しゅうゆ)江夏(こうか)を守っていた。曹操(そうそう)赤壁(せきへき)より長江(ちょうこう)南岸に渡ろうとするも、船が無く、(いかだ)に乗り漢水(かんすい)を下る。浦口(ほこう)(涌口(ゆこう)の誤りか)に到着し、まだ長江(ちょうこう)を渡らずにいた。周瑜(しゅうゆ)は夜密かに軽快(けいかい)な船や走舸(そうか)百数(そう)で攻め込んだ。一(そう)ごとに五十人が(さお)()ぎ、松明(たいまつ)を手に持った数千人の兵を船の上に立たせて、火を放たせた。火が燃え移ると、船はすぐに引き返した。火が起こると、たちまち曹操(そうそう)軍の数千の(いかだ)を焼け、その火の明かりは天を照らすほどであった。これにより曹操(そうそう)は夜中に敗走することとなった。』[英雄記]


 三つの書を読み比べると、黄蓋(こうがい)の攻め込んだ時に使用した船団が蒙衝(もうしょう)闘艦(とうかん)数十(そう)の後ろに走舸(そうか)(逃走用)を(つな)げたもの(『正史』)と、軽快(けいかい)な軍船十(そう)(『江表伝(こうひょうでん)』)、軽快(けいかい)な船・走舸(そうか)百数(そう)(『英雄記』)という違いがある。


 さすがに長大な曹操(そうそう)陣営をことごとく焼き払った船団がわずか十(そう)で行ったとは考えにくい。おそらくは『正史』や『英雄記』の記述が実数に近く、数十〜百ほどの船団だったのではないか。あるいは『江表伝(こうひょうでん)』の十(そう)(原文『輕利艦十舫』)の前に「数」の字か、なにか数字が入っていたのが欠落したのかもしれない。


 その他の記述はいくらか違うところもあるが、大きな食い違いや、矛盾(むじゅん)というほどのものはない。また、『三国志演義(えんぎ)』でお馴染みの東南の風も『江表伝(こうひょうでん)』に記述がある。


 黄蓋(こうがい)はあらかじめ船に(まき)を敷き、油を注いで幕で(おお)い隠し、夜、東南の強風の吹く中、百前後の蒙衝(もうしょう)闘艦(とうかん)を率いて曹操(そうそう)陣営に降伏。しかし、岸に近づくと船に放火し、曹操(そうそう)軍の船や営舎(えいしゃ)に向けて突っ込ませ、これを焼き払った。


 この黄蓋(こうがい)の火攻めにより、曹操(そうそう)の陣営は焼失し、劉備(りゅうび)周瑜(しゅうゆ)らの追撃の中、敗走することとなる。


 なお、命がけの攻撃を行った黄蓋(こうがい)であったが、この時の戦いで流れ矢を受け、冬の長江(ちょうこう)に落水し、味方の兵士に助け出された。だが、助けた兵士はそれが黄蓋(こうがい)だとわからず、便所の中で放置された。黄蓋(こうがい)は力を振り絞って同僚の韓当(かんとう)を呼ぶと、韓当(かんとう)がこれに気づき、黄蓋(こうがい)の姿を見て涙を流し、衣服を着替えさせて一命をとりとめた。後に黄蓋(こうがい)はこの赤壁(せきへき)の功績で武鋒中郎将ぶほうちゅうろうしょうに昇進した。[黄蓋(こうがい)伝]


 黄蓋(こうがい)は救助されたが、名のある武将と気付かれずに便所に放置されたということは、おそらく周瑜(しゅうゆ)らの追撃戦も決して一方的なものではなく、自軍に多数の死傷者を出し、そのために治療が追いつかない状況だったのだろう。たまたま近くに韓当(かんとう)がいたために発見されたが、韓当(かんとう)の方も行方のわからぬ黄蓋(こうがい)を探していたのかもしれない。


 ここで少し当時の船について解説しておこう。この時代の船は基本的に木造で、移動には()を用いられることもあったが、あくまでも補助的なもので、主動力は多数のオールを使った人力である。


 蒙衝(もうしょう)(艨衝(もうしょう)とも書く)は矢や石の攻撃から守るために装甲を牛皮(ぎゅうひ)(おお)った船で、前後左右に()の発射口や(ほこ)を突き出す穴が設けられている。小型船が多く、速度と防御力を重視した船で、楼船(ろうせん)闘艦(とうかん)といった大型船の支援等に使用された。今で言う巡洋艦(じゅんようかん)駆逐艦(くちくかん)のような船。


 闘艦(とうかん)(ただ単に(かん)と書かれることもある)は水上戦闘の主力となる重武装船。多数の兵士を乗せることが出来、また女牆(じょしょう)(低い(かき))が設けられ、船上での戦闘が可能な大型船。今で言う戦艦(せんかん)にあたる。なお、「(かん)」という漢字はこの船が監獄(かんごく)のようであったことから生まれた字である。


 走舸(そうか)は小型の高速船。その高速を生かして大型船の支援や非戦闘艦の保護等に用いられた。乗れる兵士は多くないので、比較的精鋭が搭乗した。今で言う駆逐艦(くちくかん)のような船。


 この他に大型船では楼船(ろうせん)、小型船では游艇(ゆうてい)等がある。


 楼船(ろうせん)闘艦(とうかん)と似ているが、船の上に楼閣(ろうかく)(複数階建ての建築物)が建てられているのが特徴。移動要塞(ようさい)というべき船で、輸送力・防御力・攻撃力においてはトップクラスの大型船。ただ、移動速度・機動性は悪く、暴風雨等の天災に弱いという欠点があり、必ずしも最強の船ではなかった。


 游艇(ゆうてい)は防壁を持たない小型船で、今で言うボートに近い。戦闘力はほぼないが、その速度や機動力を生かし、偵察や通信、将校(しょうこう)の移動に用いられた。


 その他、三国時代に突入すると、さらに大型船が建造されるようになるが、赤壁(せきへき)の戦いには投入されてないであろうから、ここでは割愛する。



 ◎敗走する曹操(そうそう)



 曹操(そうそう)赤壁(せきへき)から撤退する様は『武帝紀(ぶていき)』にひく『山陽公戴記(さんようこうたいき)』及び『太平御覧(たいへいぎょらん)』に引く『英雄記』に詳しい。


曹操(そうそう)戦艦(せんかん)劉備(りゅうび)によって焼かれると、軍勢をまとめて華容道(かようどう)から徒歩で帰った。途中、泥濘(でいねい)(はば)まれ道は通らず、また、強風が吹いていた。弱り()てた兵たちを総動員して草を運ばせ、道を埋め、それによりようやく騎兵が通行することができた。弱った兵たちは人馬に踏みつけられ、(どろ)の中に(しず)み、多くの死者を出した。


 曹操(そうそう)軍がなんとか窮地(きゅうち)を脱すと、曹操(そうそう)は大いに喜んだ。諸将がその訳を聞くと、曹操(そうそう)は答えた。「劉備(りゅうび)は私と同格だが、ただ少しばかり計略を思いつくのが遅い。もしもっと早く放火していれば我々は全滅していた。」劉備(りゅうび)は追って放火したが間に合わなかった。』[山陽公戴記(さんようこうたいき)]


曹操(そうそう)赤壁(せきへき)より敗走した。雲夢沢(うんぼうたく)(いた)り、大霧(たいむ)に遭遇し、道に迷った。』[英雄記]


 曹操(そうそう)華容道(かようどう)を通って退却した。華容道(かようどう)の場所については諸説あるようだが、雲夢沢(うんぼうたく)を経由して江陵(こうりょう)を目指したルートであろう。おそらく、行きに通過した道とほぼ同じ道だろう。広大な湿地帯である雲夢沢(うんぼうたく)を通過したので、その帰路は困難を極め、(きり)により道に迷い、疲労を加速させた上に、騎馬を通すためにその疲労した兵士にさらに無理をさせ、より多くの死者を出してしまったようだ。


 雲夢沢(うんぼうたく)を抜けたあたりであろうか、曹操(そうそう)は大いに喜び、劉備(りゅうび)が火を放つのが遅かったことを指摘した。おそらくこれは劉備(りゅうび)らの追撃の遅さを指摘したものだろう。


 おそらく、この時点で劉備(りゅうび)はまだ赤壁(せきへき)に到着しておらず、続く江陵(こうりょう)戦でようやく周瑜(しゅうゆ)軍に合流した状況だったのだろう。また、孫権(そんけん)が今後独立を周囲に納得させるには自力で曹操(そうそう)を撃破する必要があった。そのために周瑜(しゅうゆ)劉備(りゅうび)到着前に単独で、急ぎ曹操(そうそう)を討ったのだろう。周瑜(しゅうゆ)軍が先行して曹操(そうそう)を追撃するためには長江(ちょうこう)を渡る必要がある。それも曹操(そうそう)軍に気づかれないように大きく迂回(うかい)して渡らねばならず、それだけの時間がなかったのだろう。結果的に曹操(そうそう)撃破には成功したが、先回りして追撃する余裕はなかった。そして、これにより曹操(そうそう)劉備(りゅうび)周瑜(しゅうゆ)連携(れんけい)が決して取れているわけではないことを察して喜んだのだろう。


 なお、『演義(えんぎ)』では伏兵(ふくへい)が無いことを曹操(そうそう)が笑ったところへ趙雲(ちょううん)張飛(ちょうひ)、さらに関羽(かんう)と次々に襲いかかられ、最後には関羽(かんう)に、かつて千里行(せんりこう)曹操(そうそう)の武将を斬っても許したことを思い出させ、情に訴える形で逃してもらうという内容になっている。


 本編ではカンウ・チョーヒ・チョーウンの三人が同時にソウソウ軍へ追撃を仕掛け、ソウソウ軍の将・シカンによって足止めされるという展開にしている。これは舞台が校舎内で、廊下に陣取るソウソウ軍をすり抜け、先回りして待ち構えるという展開は構造的に無理があるという判断からこのような形となった。(まあ、校舎外に出てしまえばどうとでもなる気はするが)


 この『学園戦記三国志』では、必ずしも『演義(えんぎ)』の内容に沿うとは限らないので、ご了承のほどよろしくおねがいいたします。まあ、関羽(かんう)千里行(せんりこう)とか色々やってないので今更ではあるのだが。



 ◎曹操(そうそう)の敗戦処理



 曹操(そうそう)は道中、多数の死者を出しながらも、江陵(こうりょう)へ撤退した。曹操(そうそう)族弟(いとこ)曹仁(そうじん)行征南将軍こうせいなんしょうぐんに任じ、徐晃(じょこう)と共に江陵(こうりょう)に駐屯させ、楽進(がくしん)襄陽(じょうよう)を守らせ、満寵(まんちょう)行奮威将軍(こうふんいしょうぐん)とし、両都市の間にある当陽(とうよう)に置いて、自身は北に帰還した。[武帝紀(ぶていき)曹仁(そうじん)伝、楽進(がくしん)伝、徐晃(じょうよう)伝、満寵(まんちょう)伝、呉主(ごしゅ)伝]


 曹仁(そうじん)満寵(まんちょう)の役職の前にある「行」の字は代行の意味で、仮に任命された役職である場合に頭につけられる。本来なら朝廷(ちょうてい)で正式な手続きを経て任命されるものだが、緊急事態のため出先の荊州(けいしゅう)での任命となったのでこの処置となっている。この二人はこの時点ではまだ将軍号を与えられていなかったので(曹仁(そうじん)議郎(ぎろう)満寵(まんちょう)汝南太守(じょなんたいしゅ))、代行ではあるが将軍として荊州(けいしゅう)の防衛を任せることとした。(なお、この時点で徐晃(じょこう)横野将軍(おうやしょうぐん)楽進(がくしん)折衝将軍(せっしょうしょうぐん)と、ともに将軍号持ち)


 また、曹操(そうそう)劉巴(りゅうは)(本編、リュウハ、102話より登場)を()し出して(じょう)に任命し、長沙郡(ちょうさぐん)零陵郡(れいりょうぐん)桂陽郡(けいようぐん)に帰順を呼びかけさせた。注に引く『零陵先賢伝れいりょうせんけんでん』によると、この時劉巴(りゅうは)は「荊州(けいしゅう)劉備(りゅうび)が支配しているので無理です」と言ったが、曹操(そうそう)は「もし、劉備(りゅうび)が攻めてきたら私が六軍を率いて助けにいくだろう」と答えた。[劉巴(りゅうは)伝]


 劉巴(りゅうは)荊州零陵郡けいしゅうれいりょうぐんの出身で、祖父や父も郡太守(ぐんたいしゅ)を務めた名家であり、彼自身も若い頃から有名であった。劉表(りゅうひょう)の招集には応じなかったが、曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)を平定すると、彼は曹操(そうそう)(つか)えた。初め曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)南部の帰順を既に実績のある桓階(かんかい)に命じたが、桓階(かんかい)劉巴(りゅうは)には及ばないとして辞退した。


 荊州(けいしゅう)平定時、曹操(そうそう)江陵(こうりょう)で留まり、そのまま東進して赤壁(せきへき)の戦いとなったので、江陵(こうりょう)以南へは足を踏み入れておらず、荊州(けいしゅう)南部へはほとんど何も出来てない状況だったのだろう。だから、曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)南部の名家の出身である劉巴(りゅうは)を派遣して帰順を(うなが)した。それは裏を返せばこの時点で荊州(けいしゅう)南部は決して曹操(そうそう)に従っていたわけではないことを意味している。


 また、赤壁(せきへき)と前後して孫権(そんけん)合肥(ごうひ)(“がっぴ”とも読む)へ侵攻している。孫権(そんけん)揚州(ようしゅう)で勢力を築いていたが、揚州(ようしゅう)全土が孫権(そんけん)領であったわけではなく、北部には曹操(そうそう)領となっている地域もあった。合肥(ごうひ)揚州(ようしゅう)曹操(そうそう)領に含まれる都市で、劉馥(りゅうふく)(本編、リュウフク、41話より名のみ登場)は曹操(そうそう)揚州刺史(ようしゅうしし)に任命されると、本来、揚州(ようしゅう)州治(しゅうち)(州庁所在地)であった寿春(じゅしゅん)は既に袁術(えんじゅつ)によって荒廃していたので、空城となっていた合肥(ごうひ)に新たな州の庁舎(ちょうしゃ)を置き、修復した。[武帝紀(ぶていき)劉馥(りゅうふく)伝、呉主(ごしゅ)伝]


 孫権(そんけん)揚州(ようしゅう)を完全に支配したいと考えていたのだろう。合肥(ごうひ)は修復を開始してまだ数年しか経っておらず、またこの年(208年)に劉複(りゅうふく)も亡くなってしまっていたので、この時とばかりに合肥(ごうひ)へと侵攻した。


 これに対し曹操(そうそう)は、将軍の張喜(ちょうき)(本編、チョーキ、102話より登場)(張憙(ちょうき)とも書く)に千騎を率いさせ、途中の汝南(じょなん)で兵を補充させて、救援に赴かせようとしたが、疫病(えきびょう)により進行を止めてしまった。


 そこで合肥(ごうひ)の役人であった蒋済(しょうせい)(本編、ショーセイ、64話より登場)は、張喜(ちょうき)率いる救援軍四万がすぐ側まで来ていると、偽の情報を孫権(そんけん)(つか)ませた。孫権(そんけん)は既に合肥(ごうひ)を包囲して一月以上経っていたが、劉馥(りゅうふく)(のこ)した豊富な物資のおかげもあり、陥落(かんらく)できなかったこともあって、この情報を信じて撤退した。[蒋済(しょうせい)伝、劉馥(りゅうふく)伝]


 合肥(ごうひ)蒋済(しょうせい)の機転のおかげで事なきを得たが、合肥(ごうひ)への救援にせよ、荊州(けいしゅう)南部への対応にせよ、曹操(そうそう)の派遣した兵の少なさが目立つ。赤壁(せきへき)前夜、その総勢は数十万とも言われていた陣営とは思えない状況の変化である。


 これはまず第一に、主力であった曹操(そうそう)軍本隊が壊滅的打撃を(こうむ)ったためであろう。また、その多くが疫病(えきびょう)に感染していたのなら、帰還後に荊州(けいしゅう)に残っていた他の部隊にも感染した可能性も高く、荊州滞在(けいしゅうたいざい)軍全体に影響があったのではないか。


 さらに『蒋済(しょうせい)伝』によれば汝南(じょなん)(予州(よしゅう)に属す)を通過した張喜(ちょうき)軍にも疫病(えきびょう)が広まっており、この年の疫病(えきびょう)荊州(けいしゅう)で局所的に広まっていたものではなく、もっと広範囲に広まっていた可能性もある。劉備(りゅうび)軍・孫権(そんけん)軍に特に疫病(えきびょう)の記述が無いことから、この疫病(えきびょう)長江(ちょうこう)以北、荊州(けいしゅう)北部から予州(よしゅう)あたりで広まっていたのだろうか。曹操(そうそう)軍が広めてしまった可能性もあるが、とにかく曹操(そうそう)陣営ばかりが打撃を(こうむ)る形となった。


 次に各地の反乱への備えであろう。孫権(そんけん)反旗(はんき)(ひるがえ)し、曹操(そうそう)に勝利したことにより、官渡(かんと)の勝利以降、曹操(そうそう)一強と思われていた図式が崩れた。それに伴い各地で反乱が頻発(ひんぱつ)する可能性が高まり、それに備えて兵をある程度手元に置いておく必要性があった。そのため派遣する兵数が最低限に留まることとなった。実際に翌年には廬江郡(ろこうぐん)陳蘭(ちんらん)(本編、チンラン、55話より登場)らが孫権(そんけん)劉備(りゅうび)と組んで反乱を起こし、その後も太原(たいげん)商曜(しょうよう)(本編未登場)や関中(かんちゅう)軍閥(ぐんばつ)韓遂(かんすい)(本編未登場)や馬超(ばちょう)といった勢力を曹操(そうそう)は相手にしていくこととなる。


 曹操(そうそう)主力軍の壊滅と各地で起きる反乱のために曹操(そうそう)は兵力不足に悩まされることとなった。後に曹操(そうそう)は本隊を立て直すが、結局、天下を統一できなかったのであるから、この兵数不足は解決しなかったのではないだろうか。



 ◎その後の荊州(けいしゅう)


挿絵(By みてみん)



 さて、最後に曹操(そうそう)撤退後の荊州(けいしゅう)について簡単に解説しておこう。


 劉備(りゅうび)周瑜(しゅうゆ)の連合軍は南郡(なんぐん)に侵攻。曹仁(そうじん)()もる江陵(こうりょう)長江(ちょうこう)(はさ)み対陣する形となった。周瑜(しゅうゆ)江陵(こうりょう)を攻めるより先に甘寧(かんねい)夷陵(いりょう)へ派遣し、これを占領させた。この時、甘寧(かんねい)軍は千人にも満たなかったので、曹仁(そうじん)は五六千の兵を送り、これを包囲した。甘寧(かんねい)より救援要請がくると、周瑜(しゅうゆ)呂蒙(りょもう)の策を用いて凌統(りょうとう)に留守を任せ、自ら甘寧(かんねい)を救出し、そのまま長江(ちょうこう)を下って、北岸に陣取り、江陵(こうりょう)対峙(たいじ)した。[先主(せんしゅ)伝、周瑜(しゅうゆ)伝、呂蒙(りょもう)伝、甘寧(かんねい)伝、凌統(りょうとう)伝]


 夷陵(いりょう)江陵(こうりょう)から隣の益州(えきしゅう)に通ずるルート上にある都市だ。益州(えきしゅう)劉璋(りゅうしょう)曹操(そうそう)へ援軍を派遣した件はすでに書いたが、『呂蒙(りょもう)伝』によるとこの時、益州(えきしゅう)の将の襲粛(しゅうしゅく)(本編、シュウシュク、102話より登場)が部隊を率いて周瑜(しゅうゆ)軍に帰順している。おそらく、曹操(そうそう)の敗北を知って攻められる前にさっさと白旗(しろはた)を上げたのだろう。そして、この投降によりおそらく夷陵(いりょう)が空白地帯となり、急ぎ周瑜(しゅうゆ)は占領したのだろう。


 また、時を前後して、劉備(りゅうび)より「張飛(ちょうひ)と千人の兵を預けるので、代わりに二千の兵を貸してほしい。それで夏水(かすい)を通って曹仁(そうじん)の退路を断とう」と提案され、周瑜(しゅうゆ)はこれに乗った。劉備(りゅうび)関羽(かんう)を北進させ、曹仁(そうじん)の退路を断たせた。曹仁(そうじん)楽進(がくしん)徐晃(じょこう)満寵(まんちょう)らを()り、関羽(かんう)を撃退した。[楽進(がくしん)伝、徐晃(じょこう)伝、李通(りつう)伝、周瑜(しゅうゆ)伝]


 関羽(かんう)の動きについてだが、『徐晃(じょこう)伝』では徐晃(じょこう)満寵(まんちょう)漢津(かんしん)で撃退したといい、『楽進(がくしん)伝』では襄陽(じょうよう)楽進(がくしん)関羽(かんう)蘇非(そひ)(本編、ソヒ、77話より登場)らを攻撃して敗走させたという。『徐晃(じょこう)伝』の記述は長坂(ちょうはん)の戦いの時の話の可能性もあるが、『李通(りつう)伝』によればこの後、李通(りつう)(本編、リツウ、41話より登場)が曹仁(そうじん)の救援に赴いた時になおも関羽(かんう)は北道に陣取っていたとあるので、徐晃(じょこう)楽進(がくしん)李通(りつう)の攻撃が同時期でないのなら、徐晃(じょこう)楽進(がくしん)らは結局、関羽(かんう)を撤退させるまでの打撃を与えられなかったのではないか。関羽(かんう)蘇非(そひ)(人物不明。あるいは元黄祖(こうそ)配下の蘇飛(そひ)(本編、ソヒ、77話より登場)と同一人物か関係者であろうか)の部隊は敵中孤立無援(こりつむえん)の状況でかなり(ねば)っていたといえる。


 周瑜(しゅうゆ)軍と曹仁(そうじん)軍は正面より開戦となった。途中、周瑜(しゅうゆ)の左の鎖骨(さこつ)流矢(ながれや)が命中し、重症を負う場面もあったが、周瑜(しゅうゆ)軍が優勢であった。周瑜(しゅうゆ)劉備(りゅうび)軍に包囲され、北道も関羽(かんう)に断たれた曹仁(そうじん)のために、汝南太守(じょなんたいしゅ)李通(りつう)が軍を率いて救援に赴いた。馬から降りて(さく)を壊し、包囲陣に突入した。李通(りつう)は戦いつつ前進し、曹仁(そうじん)軍を救い出した。一年以上続いた攻防戦を制し周瑜(しゅうゆ)江陵(こうりょう)を占領すると、孫権(そんけん)は彼を南郡太守(なんぐんたいしゅ)偏将軍(へんしょうぐん)とし、江陵(こうりょう)に引き続き駐屯させた。[李通(りつう)伝、呉主(ごしゅ)伝、周瑜(しゅうゆ)伝]


 汝南郡(じょなんぐん)江陵(こうりょう)のある南郡(なんぐん)の北に位置し、隣(南陽郡(なんようぐん))の隣の郡である。この時の李通(りつう)の活躍は諸将第一と『正史』でも賞賛されているが、李通(りつう)は帰り道の途中、病気にかかり亡くなってしまう。戦場での傷が元か、荊州(けいしゅう)疫病(えきびょう)かは不明である。


 そしてこの撤退により、江陵(こうりょう)周瑜(しゅうゆ)と占領するところとなり、孫権(そんけん)周瑜(しゅうゆ)南郡太守(なんぐんたいしゅ)とした。なお、この時点でまだ襄陽(じょうよう)(元々こちらも南郡(なんぐん)所属の都市)等の都市は占領できていないが、曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)平定時に襄陽(じょうよう)を含む北の都市を南郡(なんぐん)から分割して襄陽郡(じょうようぐん)を新たに設けている。なので、襄陽(じょうよう)はまだ曹操(そうそう)領だが、南郡(なんぐん)の占領は完了したといえる。


 一方、劉備(りゅうび)長江(ちょうこう)南岸の油江口(ゆこうこう)公安(こうあん)と改称し、ここを拠点とした。劉琦(りゅうき)荊州刺史(けいしゅうしし)とし、荊州(けいしゅう)南部四郡の征討に赴き、武陵太守(ぶりょうたいしゅ)金旋(きんせん)(本編、キンセン、91話より登場)、長沙太守(ちょうさたいしゅ)韓玄(かんげん)(本編、カンゲン、91話より登場)、桂陽太守(けいようたいしゅ)趙範(ちょうはん)(本編、チョウハン、91話より登場)、零陵太守(れいりょうたいしゅ)劉度(りゅうたく)(本編、リュウタク、91話より登場)らを全て降伏させた。曹操(そうそう)より南部の帰順の役を命じられていた劉巴(りゅうは)は、劉備(りゅうび)がこれらの郡を平定し、曹操(そうそう)の元に帰れなくなったため、遠く交州(こうしゅう)へと逃れた。[先主(せんしゅ)伝、劉巴(りゅうは)伝]


 油江口(ゆこうこう)江陵(こうりょう)長江(ちょうこう)(はさ)んですぐ南側に位置し、長江(ちょうこう)油水(ゆすい)の合流地点あたり。劉備(りゅうび)はここを公安(こうあん)と改め、本拠地として荊州四郡を平定した。


 この征討された四郡の太守(たいしゅ)については記録が少なく、劉表(りゅうひょう)が任命したのか、曹操(そうそう)が任命したのかはっきりしない。唯一まとまった経歴がわかるのは武陵太守(ぶりょうたいしゅ)金旋(きんせん)で、『三輔決録注(さんぽけつろくちゅう)』によると、金旋(きんせん)京兆(けいちょう)(司隸(しれい)に属す)の人。黄門郎(こうもんろう)漢陽太守(かんようたいしゅ)を歴任し、中央に召喚され、議郎(ぎろう)となり、昇進して中郎将(ちゅうろうしょう)となり、武陵太守(ぶりょうたいしゅ)を兼ねたが、劉備(りゅうび)に攻撃され死亡したとある。これによれば中央で活躍していた人物であることがわかる。なお、『正史』では降伏しているが、こちらでは戦死している。金旋(きんせん)のその後の記録はなく、どちらが正しいかわからない。


 また、『黄忠(こうちゅう)伝』によると、曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)を平定すると、元劉表(りゅうひょう)の将であった黄忠(こうちゅう)(本編、コーチュー、66話より登場)を仮に裨将軍(ひしょうぐん)とし、長沙太守(ちょうさたいしゅ)韓玄(かんげん)の統制下においたとある。黄忠(こうちゅう)劉表(りゅうひょう)時代から長沙(ちょうさ)に駐屯していたが、長沙太守(ちょうさたいしゅ)の配下ではなかった。それを曹操(そうそう)長沙太守(ちょうさたいしゅ)の管轄に組み込んでいるのだから、韓玄(かんげん)曹操(そうそう)側の人間といえる。


 これらから考えて、おそらくこの四人の太守(たいしゅ)曹操(そうそう)が任命した可能性が高いのではないだろうか。


 なお、『演義(えんぎ)』ではこの四郡の攻略を関羽(かんう)張飛(ちょうひ)趙雲(ちょううん)にそれぞれ活躍の場を設け、かなり脚色を加えて描写している。黄忠(こうちゅう)韓玄(かんげん)の指揮下にいたのは前述したが、魏延(ぎえん)もその指揮下にいたのは『演義(えんぎ)』の創作である。また、趙範(ちょうはん)(あによめ)趙雲(ちょううん)に嫁がせようとし、拒否されたことは『趙雲(ちょううん)伝』の注に引く『趙雲(ちょううん)別伝』に見える。その他、邢道栄(けいどうえい)(本編未登場)等の四太守(たいしゅ)の配下や関羽(かんう)黄忠(こうちゅう)の一騎打ち等は『演義(えんぎ)』の創作となる。


 赤壁(せきへき)の戦いでどうしても出番が減る関羽(かんう)張飛(ちょうひ)趙雲(ちょううん)に活躍の場を設け、黄忠(こうちゅう)との一騎打ち等見所も多い『演義(えんぎ)』の四郡攻略だが、創作部分の多さと既に五章がかなり長くなっていたことから本編では大幅にカットした。気になる方は『演義(えんぎ)』やそれを元にした小説・漫画等を読んで確認してほしい。


 さて、この四郡攻略により、ついに劉備(りゅうび)は領土を得て、傭兵(ようへい)のような立場から群雄の仲間入りを()たした。後に三国志の一国となる基盤を得たのである。


 この後、荊州(けいしゅう)の領有を巡っては劉備(りゅうび)孫権(そんけん)の間で大いに()めることとなるが、次章に及ぶ話であるので、今回の『歴史解説 赤壁(せきへき)の戦い』はここまでとしたい。



 ◎まとめ



 今回は208年に起きた赤壁(せきへき)の戦いとその前後について解説した。


 三国志最大の戦いとも言われるこの戦いだが、実際に見ていくとそこまで大規模な戦いではなかったように思う。だが、その歴史的意義は大きい。


 まず、曹操(そうそう)側から見たこの戦いの損失だが、何よりも曹操(そうそう)の天下統一事業の破綻(はたん)が挙げられる。


 官渡(かんと)の戦いに勝利し、袁氏(えんし)を滅ぼした曹操(そうそう)は、事実上の一強状態となり、他の勢力は恭順(きょうじゅん)の意を示した。後はかつての袁氏(えんし)の同盟者である劉表(りゅうひょう)劉備(りゅうび)を倒せば反対勢力はほぼ一掃されるはずであった。


 その劉表(りゅうひょう)も亡くなり、残る劉備(りゅうび)は優れた指揮官といえども寡勢(かせい)で、曹操(そうそう)の勝利は一目瞭然(いちもくりょうぜん)であった。しかし、そこに孫権(そんけん)反旗(はんき)(ひるがえ)し、そして曹操(そうそう)に勝ってしまった。これにより今まで曹操に恭順していた他勢力にも反抗の気運が高まり、更には劉備(りゅうび)孫権(そんけん)も倒しきれず、結局、曹操(そうそう)の代での天下統一は頓挫(とんざ)してしまった。


 この後の曹操(そうそう)は、魏公(ぎこう)、そして魏王(ぎおう)とその地位を上げていくこととなるが、この敗戦で権威を大きく損ない、さらに天下統一からの皇帝即位という軍事的な手順を行うのが難しくなったため、政治的な手順で権威を(おぎな)い、皇帝への道筋をつける必要が生じたためというのも理由の一つだろう。


 次に孫権(そんけん)の場合だが、こちらは孫権(そんけん)の権威の確立が挙げられる。


 これまで見てきたように、これ以前の江東(こうとう)孫氏(そんし)政権は孫賁(そんほん)孫輔(そんほ)らが強い発言権を有し、孫権(そんほん)の力は決して強いものではなかった。孫権(そんけん)はこの戦いを利用し、クーデターにも近い形で孫賁(そんほん)孫輔(そんほ)を政権中枢(ちゅうすう)の座から失脚させた。


 この後、孫権(そんけん)は三国の一国である()を建国していくこととなるが、この孫賁(そんほん)孫輔(そんほ)の排除は自立していく上で()けては通れないことであった。孫権(そんけん)はこの戦いの勝利により、軍事的な功績・権威に加えて、権力の確立に成功し、()建国の第一歩を踏み出すこととなった。


 最後に劉備(りゅうび)だが、彼は念願の領土を得ることが出来たのが最大の利益であろう。


 劉表(りゅうひょう)時代、劉備(りゅうび)新野城(しんやじょう)樊城(はんじょう)に駐屯してはいたが、その領土を与えられたわけではなかった。傭兵(ようへい)のような扱いであり、それは袁紹(えんしょう)劉表(りゅうひょう)のような群雄の元にいなければ活動もままならない状況であった。徐州(じょしゅう)以来の領土を持つことで劉備(りゅうび)はようやく群雄として並び立つことができた。後に彼も三国の内の一国を建国することとなるが、それもこの元手があったからこそ得ることができた。


 こうして三勢力の事情を見ていくと、曹操(そうそう)は天下統一が不可能となり、孫権(そんけん)劉備(りゅうび)は勢力を拡大することに成功した。まさにこの赤壁(せきへき)の戦いはそれまでの後漢(ごかん)の群雄割拠の時代を終わりを告げ、来たるべき三国時代の始まりとなった戦いと言えるだろう。



〔参考文献〕


・書籍

陳寿著 今鷹真・井波律子・小南一郎訳 『正史三国志』(全八巻) 筑摩書房 1993年

范曄撰 李賢等注 『後漢書』(全六巻) 中華書局出版 1965年

目加田誠訳注 『新釈漢文大系 世説新語』(全三巻) 明治書院 1975年

譚其驤主編 『中国歴史地図集 第二冊(秦・西漢・東漢時期)』 地図出版社 1982年

宮川尚志 『諸葛孔明(新装版)』 光風社 1988年

中国綜合地図出版編 『中国綜合地図集』 中国綜合地図出版社 1990年

篠田耕一 『三国志軍事ガイド』 紀元社 1993年

沈伯俊・譚良嘯編著 立間祥介・岡崎由美・土屋文子編訳 『三国志演義大事典』 潮出版社 1996年

郭沫若主編 『中国史稿地図集』 中国地図出版社 1996年

竹田晃訳 『文選(文章篇) 中』 明治書院 1998年

来村多加史他 『歴史群像グラフィック戦史シリーズ 戦略戦術兵器事典 中国編』 学研 2000年

渡邉義浩 『「三国志」の政治と思想 史実の英雄たち』 講談社 2012年

幾喜三月 『献帝の見た日食 後漢末から晋統一までの71の日蝕一覧』 楽史舎 2015年

長田康宏 『三国志群雄太守県令勢力図(上)』 長田康宏 2018年

東光書店 『三国志地図』 東光書店 2019年


・論文

上田早苗 「後漢末期の襄陽の豪族」 『東洋史学』(28号) 1970年

石井仁 「漢末州牧考」 『秋大史学』(38号) 1992年

石井仁 「富春孫氏考ー孫呉宗室の出自をめぐって」 『駒沢史学』(70号) 2008年

満田剛 「孫策・周瑜の「断金」の交わりの歴史的背景 : 孫氏と周氏・袁氏・朱氏」 『東洋哲学研究所紀要』(28号) 2012年

石井仁 「赤壁研究序説ー「江漢五赤壁」とその周辺」 『駒沢史学』(80号) 2013年



・サイト

資治通鑑 維基文庫

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E8%B3%87%E6%B2%BB%E9%80%9A%E9%91%91

三国志、全文検索 http://www.seisaku.bz/sangokushi.html

全三国文

https://zh.m.wikisource.org/zh-hans/%E5%85%A8%E4%B8%89%E5%9C%8B%E6%96%87

後漢紀

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E5%BE%8C%E6%BC%A2%E7%B4%80

襄陽記

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水経注

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E6%B0%B4%E7%B6%93%E6%B3%A8?uselang=ja

太平御覧

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%BE%A1%E8%A6%BD

太平寰宇記

https://zh.m.wikisource.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E5%AF%B0%E5%AE%87%E8%A8%98

東洋文庫水経注図データベース

https://static.toyobunko-lab.jp/suikeichuzu/

むじん書院

http://www.project-imagine.org/mujins/

季漢書

http://blog.livedoor.jp/jominian/

てぃーえすのメモ帳

https://t-s.hatenablog.com/

思いて学ばざれば

https://mujin.hatenadiary.jp/

いつか書きたい『三国志』

http://3guozhi.net/

もっと知りたい!三国志

https://three-kingdoms.net

歴華泉

http://rekishiizumi.web.fc2.com/

呉書見聞

http://gosyokenbun.com/

[三国志]孫権が権力を掌握する過程について

https://togetter.com/li/662812

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