52完全に詰んでるじゃないか
ぞくぞくと悪寒が背筋を這い上がり、万里は自分の置かれている状況がかなり危険なものであることを本能で感じ取っていた。抑え込まれた両腕から、体の力を抜き取られている。全身が弛緩し、奇妙な虚脱感がまとわりつく。指先くらいはかろうじて動くが、敵を押し退けることはとうていできそうにない。
単純かつ強力な異能の本質に気づけず術中に嵌ったのは完全に失敗だ。行平が自分の異能のことをやたらと饒舌に喋ったのは、エナジードレインという切り札から目を逸らすためのミスリードの意味もあったのだろう。まったく忌々しい。
「《死の抱擁》の異能からは、一度捕まれば逃げ出すことはできない。大人しくしていれば、君の力を吸い尽くすまでに一分とかからない」
「ぁ……ぁッ……」
誰が大人しくなどしているものかと頭では威勢のいいことを考えてみる。が、現実問題、体の方はろくに動かない。時間が経つにつれてますます力を奪われていく。
力ずくで敵を押しのけ逃げることができないなら、異能を使うしかない。手を動かせなくても、手の中に武器を呼び寄せることはできる。異能を使うためのエネルギーもおそらくまとめて吸われているだろうが、まだ、一度くらいなら、かろうじて使えるはずだと思いたい。ほぼほぼ希望的観測であるが。
とはいえ、得物を握れたところで、ナイフを振るったりも銃を照準したりの元気はない。無策に足掻いても無駄に消耗するだけで活路は見いだせない。かといってゆっくり対策を練る暇もない。迅速に確実な打開策を打ち出さなければ、行平の異能に蹂躙されるのを待つばかりだ。
少しずつ、思考する力さえも奪われていく。
そろそろ何とかしないと拙い。
早く、早く何か、方法を。
「さて、喋るくらいの力は残っているかな。最期に言いたいことがあれば聞いておこうか」
余裕ぶって侮るようなことを言う行平を精一杯睨みつけ、万里は掠れる声を絞り出す。
「……俺の、《武器庫》の中は……時間が止まっている」
「何?」
唐突な言葉に行平は首を傾げる。万里は構わず続けた。
「……刀は錆びないし、火薬は湿気ないし、ピンを抜いた手榴弾は爆発しないままだ」
行平は万里の言わんとすることを理解したようで目を見開いた。
《武器庫》の中に保管される武器の時間は停止している。そして《武器庫》から解放された瞬間に再び時間が動き出す。ピンを抜いた状態で手榴弾を《武器庫》に入れれば爆発しないままに保管可能だし、それを呼び出せば即座に爆発する。掌でエネルギーを吸収する行平の異能では、万里を押さえつけたままでは爆発の衝撃を吸い取ることはできない。ほぼゼロ距離で熱と破片の嵐に晒されることになる。
まともに体が動かせなくても、攻撃手段はある。無論、その方法では万里自身もただでは済まない。しかし、敵の異能に喰われるくらいなら、一緒に吹き飛んだ方がずっとマシだ――そんな確固たる敵意を言葉よりも雄弁に語るように、万里は狂気的な笑みを浮かべた。
――地獄に落ちろ。
万里は右手に手榴弾を召喚した。
それとほぼ同時、行平は反射的に飛び退いた。直後、手榴弾は万里の手の中で炸裂する。
ただし、炸裂と同時に溢れたのは行平が予期したであろう熱と爆風ではなく、目を灼く閃光だ。彼の異能は、スタンロッドの電撃を食らったことから解っていたように、想定していないものは吸収できない。
閃光に備えて目を閉じていた万里は、行平の呻き声が聞き取れたことで、どうやら作戦が功を奏したらしいことを把握した。爆発に備えて退避、あるいは吸収しようと構えていた行平は、想定外の閃光に視界を白く塗り潰されよろめいたのだ。
冷静に考えれば、嘘だと気づいただろう。だが、万里は敵に冷静に考える暇を与えてやらなかった。そして演劇部員の面目躍如、本気で自滅しかねないと思わせるほどの絶望感溢れる言動で行平を騙くらかした。
行平の手から逃れたことで、かろうじて体が動くようになった。殆ど体力は残されていないようだが、這って逃げるくらいなら、なんとかならないこともない。ふらつく体を起こし、窓際まで這い蹲って、壁に縋るようにしてどうにかこうにか立ち上がる。
這う這うの体で出口に向かって足を引きずって行くと、両目を手で覆った行平が愉快そうに笑い声を漏らした。
「すっかり騙された……本気で道連れにされると思ったよ」
「そのつもりだったが、途中で気が変わったんだ」
万里は投げやりに答え、行平を放置して部屋から逃げ出した。
階段の手摺に半ば倒れ込むようにして凭れかかり、震える手で鞄の携帯を探り当てる。行平に食らわせたのは単なる目くらましに過ぎない、稼げる時間はたかが知れている。これくらいで諦めてくれるほど、可愛らしい相手ではないだろう。弱り切った体で逃げ切れると考えるほど能天気ではない。
こういうときは素直に救援を呼ぶに限る。すぐに駆けつけてくれるような暇かつ頼りになる仲間を脳内検索して、トップに挙がってきたのは輝だった。ふだんは輝や琴美が危険な目に遭わないようにと率先して動いているというのに、自分が窮地に陥って逆に助けを求めるとは情けない話だ。
自嘲気味に溜息をつきつつ、端末を操作して輝に連絡を取ろうとする。が、その寸前に、自分の手元に陰が落ちてきたのに気づき、はっと顔を上げる。
目の前に男が立っていた。まさか、行平がもう復活して来たというのか。いくらなんでも早すぎる。そう考えてよくよく見ると、そこにいたのは行平ではない、別の男だった。ひょろりと背の高い男で、白衣を着て黒縁眼鏡をかけた姿は理知的な風貌に見えるが、目には品のない嘲笑の色が浮かんでいて、仮にこの男が科学者だとしたら、頭に「マッド」がつくに違いないと思わせられる。
突然現れた存在に、万里が虚をつかれているうちに、白衣の男の右手が素早く薙ぎ払うように動いた。男は正確無比に万里の手の中の通信端末を叩き落す。端末は手摺の隙間を通り抜けて下に落ちて行く。壊れにくい仕様になってはいたはずだが、そうはいっても限度があり、階下からは無情にもあからさまに壊れた音がした。
最悪だ。これでは助けを呼べないではないか。とりあえず生きて帰れたら、端末が破壊されたときに自動で仲間にSOSを通知してくれるような便利機能を付けようと、万里は心に決めた。だが、とりあえず今は先の話ではなく、現在の窮地をどうにかする方策の方が重要だ。
うんざりした気分で、万里はさりげなく一歩後退り、男から距離を取る。人の頼みの綱である連絡手段をあっさり破壊した男は、どう考えても敵である。助けを求めようとしたこの状況で、更なる敵。最低の展開だった。
「逃げられるとでも思ったのか?」
「……行平の仲間か」
「僕は宍塚春樹。お察しの通り、破壊庁の所属だが、行平の仲間ではなく、上司だ。序列は間違えないでもらいたいね」
プライドの高そうな顔をした男は、プライドの高そうなことを不機嫌そうな調子で言う。
「使えない部下に任せておいたら、案の定、この様だ。わざわざ出向いて正解だった。あいつは異能力こそ便利だが、変態的な性癖を持っていて、強い異能者を見つけると、戦いに愉悦を見出し、徹底的に敵を叩き潰した上で遺産を破壊する、それだけしか頭になくなるらしい。遺産を破壊するのはもちろん重要だが、物事には順番というものがある」
ふっと唇に残虐そうな笑みをこびりつかせて宍塚は続ける。
「ブラックリスト入りの標的は無論排除する必要があるが、君は特別だ。救済社が保有する遺産を破壊しつくせば、僕たち破壊庁の仕事は半分片が付いたようなもの。救済社の少年、遺産の保管場所を吐いてもらおうか? ああ勿論、素直に話したくないならそれでもいい、それなら愉しい拷問の時間だ」
冗談じゃない。万里は宍塚の話の先がだいたい読めていたので、拷問の「ご」の字が飛び出した時点で逃亡を図った。ふらつく体で階段を上がっていく。
出口は下にしかないのだから上に逃げても仕方がないのだが、下る方は宍塚が塞いでいるのだからどうしようもない。その場しのぎのつもりで、とにかく今この瞬間に捕まるまい、その先は後から考えようと問題を先送りにして、必死の思いで上へ進む。
宍塚は慌てて追っては来なかった。どうせこの先に逃げ場はなく、所詮は袋の鼠だと解っているから、相手は余裕の対応だ。万里の方は、もう全く余裕がない。退路を断たれ、通信手段も断たれ、疲労困憊。絶望的な状況に眩暈がする。
「くそっ、こんなんで、どうしろってんだ! 完全に詰んでるじゃないか!」
乱れに乱れた呼吸で、見苦しいほどによろめきながら階段を這い上がると、目の前に扉が現れる。それ以外に道はなく、万里は己の体で扉を押しあけて奥へ倒れ込む。
屋上に出た。ぎらぎらとした夏の日差しが殺人光線みたいに感じられてうんざりする。緑色の塗料がところどころ剥げたフェンスは胸の高さくらいまである。それを乗り越えて地上に下りる元気は、今の万里にはない。
ゆっくりと足音が近づいてくる。足音が大きく鮮明になるにつれて、それよりも激しいペースで鼓動が警告を発する。今すぐ逃げろと脳が叫ぶ。だが、どこへ、どうやって? 冷たい汗が背中を流れた。
残った力を総動員しても、異能はあと一回使えるかどうかといったところ。その上、武器があったとしても満足に扱えそうもない。そして敵は二人に増えた。戦うより逃げるべきだが、退路もない。助けを呼べれば一番いいが、連絡手段は壊されたし、だいたい今SOSを出したところで、敵がほんの数メートルの距離を詰めるまでの間に駆けつけてくれる超速の救援部隊など存在しない――
と、そこまで考えて、万里ははっと閃いた。
先刻壊されたのは、救済社の仲間の連絡先の入った業務用の通信端末。万里はもう一台、プライベート用の端末を持っていて、それはまだ無事だ。
そして、その端末には、呼べば十秒で駆けつけてくれそうな音速戦士、上原桐子の連絡先が入っている。




