41お待たせしました
桐子が舟織駅に戻って来たのは、午後四時を過ぎてからだった。バスを降りて、急いで図書館に向かおうとしたが、視界の端に捉えた桜泉女子大行きのバス停に、渋谷の姿を見つけて急ブレーキをかけた。一人でベンチに座ってバスを待っている様子の渋谷に、桐子は大股で近づいていく。
「先輩」
声を掛けると、渋谷は顔を上げて、安堵したような表情を浮かべた。
「上原さん」
「寮までご一緒します。寮まで行けば、セキュリティの厳しい大学構内にほいほいと侵入する奴はいないでしょうから」
「ありがとう」
「変な奴が近づいて来たり、しませんでしたか」
渋谷は今日一日のことを思い返しているのか、ちょっと考えるように一拍置いてから答える。
「大丈夫だったわ」
それを聞いて、桐子もひとまず安堵する。
バスを待つ間、桐子は指宿から聞いたことを渋谷に話した。
遺産を持つ者が異能者になるのは――適合率の壁を超えるのは、背伸びをしたり、いきなりまったく違う自分になったりすることではない。心の内から自然に湧き出る強い感情が必要だ。それはきっと、能力と向き合うことだったり、その能力で何を為すか考えることだったりということなのだろう。異能者になるというステップを、桐子自身は深く考えたことがなかったため、指宿の話はちょっとしたヒントになった。やはり困ったときは先達に教えを乞うものだ、と桐子は感慨深く思う。
「具体的なアドバイスになりそうなことは言えないんですけど」
「ううん、充分よ。特別なことじゃなくて、そのままの私を認めてもらえばいい、そういうことよね。それで、上原さんにお願いがあるのだけど」
「はい」
「上原さんさえよければ、明日も会えないかしら。人と話していたほうが、気持ちが整理できそうな気がするから」
「勿論です」
遺産を狙ってくる不埒な連中がまた湧いてこないとも限らない。渋谷の迷惑でないのならば、一緒にいられた方が桐子としても安心だ。
バスで大学まで向かい、寮まで見送ると、明日も迎えに来る約束をして、桐子は渋谷と別れた。
そして、また明日――などと悠長なことを言っている間に、しかし、事態は急転直下で悪化することになる。
渋谷と別れた後、桐子は再び騎士団のオフィスにとんぼ返りした。午後六時半から定例ミーティングの予定が入っていたのだ。
情報課からの報告をもとに、いつものようにいくつかのタスクが課員に振り分けられる。会議の中で、渋谷が持つ鍵の遺産の事案についても話がされたが、この事案については今後も桐子が対応するということで課長から承認が下りた。強引にでもさっさと回収せよなどという命令が出なかったことに、桐子は内心でひっそりと胸を撫で下ろす。とはいえ、あまり時間をかけられる案件ではない。時間をかけすぎれば、怪しまれるか、課長が「上原君には荷が重いのでは」などと見当違いな気を利かせて余計な手出しをしてくるかの二択しか未来がない。
迅速かつ穏便に事態を解決しなければと改めて決意し、ミーティングを終えてオフィスを出たのは、午後八時を回った頃だった。
そのタイミングを見計らったかのように、ウエストポーチの中でスマホが震えた。着信の相手は渋谷だった。厭な胸騒ぎがして、桐子はすぐに電話に出た。
「先輩?」
『上原さん……私、今っ、怪物に追われてて……どうすればいいのか……!』
取り乱した様子の渋谷の声を聞いて、桐子は事態が拙い方向に動き出したことを感じながらも、渋谷を安心させるように努めて冷静に告げた。
「――二十秒で駆けつけます」
★★★
午後八時、寮の部屋で夕食を終えた渋谷は、机の上に英語のテキストを広げていた。世の小中高生はだいたい夏休みに入っている時期ではあるが、桜泉女子大の夏休みは八月と九月であり、渋谷はまだ夏期休暇に入っていない。それどころか、週明けからは期末試験本番という時期だ。実は試験勉強でとても忙しい時期なのである。
しかし、テキストとノートを広げてシャーペンを手にしてみても、気持ちが昂ぶっているせいか、勉強に集中できない。今日一日で、色々とありすぎた。情報量が多すぎて頭はパンク寸前。危ない目にも遭った。とても、英語の長文を読める気分ではない。テキストを眺めてみても、視線はアルファベットの羅列を左から右へと上滑りしていくだけで、意味を全く掴めない。これは駄目だと、渋谷は溜息をついてテキストを思い切って閉じ、大きく伸びをした。
渋谷は今日出会った二人の少年少女のことを考える。
上原桐子と碓氷万里。万里曰く、二人は敵同士だという。
桐子は、鍵を他の誰にも渡さないためには異能者になる道しかないという。対する万里の方は、何やら物騒な選択肢を迫ってきた。
桐子とは会ったばかりではあるものの、彼女はいくつも言葉を重ねてくれて、真剣に自分のことを考えてくれているのだと、渋谷は感じていた。対して、突然現れた少年・万里の方は、信用に足る人物なのだろうか。それを判断するには、かわした言葉が少なすぎる。第一印象は胡散臭い。とはいえ、彼もまた、危機にさらされた渋谷を守ってくれた。それが仮に遺産目当ての打算だったとしても、凶器を振りかざしてきた強引な連中とは違うということだけは言える。
遺産を奪われるか自分から差し出すかの二択だと万里は告げた。仮に渋谷が提示された選択肢からどちらかを選んだとして、万里は約束をきちんと守る紳士的な人間だろうか。
渋谷は正直なところ、迷っていた。どちらかといえば、天秤は桐子の方に傾いている。ゆえに、明日また桐子と会う約束をした。桐子が言うように、異能者になるというのは悪くない選択肢だと思っている。しかし、そう簡単に上手くいくとも限らないと思うのも事実で、更には万里のことも一概に怪しい奴とも言い切れず、彼の言うことも一理あるのではないかとも思わなくもないのだ。
敵同士だという彼らは、渋谷の遺産に対して全く別のアプローチをかけてくる。とりあえず、渋谷を傷つける意思はなさそうだが、遺産をどうするかの考えは割れている。敵同士だというのだから、当然と言えば当然だろうが。ゆえに、万里には桐子の提案のことを告げなかったし、桐子には万里と会ったことを相談できなかった。
桐子には申し訳ないことをした、と渋谷は少し悔いている。バス停で再び会った桐子は渋谷の身を案じてくれた。渋谷は、時計に暗器を仕込んで襲ってきた女のことを桐子に話せなかった。それを話せば、助けてくれた万里のことも話さざるを得ない。だから襲われたこと自体を黙っていることにした。心配してくれた相手に対して、随分と勝手なことだとは思う。しかし、敵同士であるらしい彼らの情報を互いに流すことは抵抗があったのだ。まあ、万里の方には、桐子が接触してきていることが既にバレてしまっているが。
さて、これからどうするべきか。渋谷は目を閉じて考える。きっと、時間的な余裕はそれほど長くないだろう。決断は早い方がいい。
その時、部屋のドアがノックされた。こんな遅い時間に誰だろうと首を傾げる。渋谷は、試験前の時期に訪ねてきそうな何人かの同級生の顔を想像し、返事をしながら小走りに三和土まで下り、まずは覗き穴で外を確認をした。
「……っ、ひ!」
覗き穴の向こうに、予想だにしなかった姿を認め、渋谷は掠れた悲鳴を上げて扉から飛び退いた。薄い扉を隔てた先に立っていたのは、一つ目をぎょろりと見開いた白い頭――とうてい人間とは思えない姿だった。
つるりとした卵のような頭部に目玉が一つだけついている。化け物としか形容できない姿に、渋谷は動揺のあまり三和土の段差に踵を躓かせてバランスを崩して尻餅をついてしまう。心臓がばくばくと煩く跳ねていた。
何かの悪戯だろうか。渋谷はごくりと息を呑み扉をじっと睨む。今見たものは化け物などではなく、ただの人形か何かで、友達が悪戯で驚かせてきただけで、今に「驚いた?」なんて笑いながら言ってくれたらいいのにと、渋谷は現実的で救いのある想像をする。しかし、渋谷の想像を容易く裏切るように、ドン、と扉を乱暴に叩く音が響いて、心臓は更にどきりと激しく脈打った。
渋谷は慌てて施錠を確認する。幸い、遅い時間ゆえに、扉には鍵をかけてあった。正体不明の一つ目の怪物は、入ってこれないはずだ。このまま息を殺していれば、あの化け物は去ってくれるだろうかと、渋谷は祈るような気持ちで様子を窺う。
しかし、祈りはあっさりと打ち砕かれる――扉の下の隙間、紙が一枚ぎりぎり通り抜けられるかというくらいの薄い隙間から、白いものが侵入してきた。薄く平たいリボンのような形状の、謎の白いものが、手を伸ばすようにどんどんと部屋の中に入り込んできて、内側のロックを勝手に外してしまった。
「嘘っ!」
渋谷が叫ぶのと同時に、鍵が開けられたドアは勢い良く開け放たれた。渋谷は身を翻す。かろうじて机の上に置いてあったスマホだけを引っ掴み、部屋の窓に手を掛ける。扉は正体不明の化け物が塞いでいる。退路は窓しかなかった。
震える手でクレセント錠を回して窓を開け放つ。窓の外は、かろうじて洗濯物を出せるくらいの、ベランダともいえないような僅かなスペースがあり、柵は腰より少し高いくらいだ。越えられない高さではない。幸いにして、渋谷の部屋は寮の一階だった。
柵に手をついて体を持ち上げ、向こう側へと乗り越える。土のひやりとした感触が伝わってくる。靴を履いている暇は当然なかった。肩越しに振り返ると、白い化け物はぎこちなく鈍い動きながらも、渋谷を追いかけてくる様子だった。渋谷はとにかく捕まるまいとあてもなく走った。
息を切らしながら、渋谷は何とか持ち出せたスマホを操作する。警察に言ってもどうにかなるとは思えない。逡巡した挙句に、渋谷は桐子に連絡を取った。この異常事態に対処可能で、かつ信頼できる相手として、まっさきに思い浮かんだのが桐子だった。
『先輩?』
電話に出るや、桐子は何かを察したのだろうか、怪訝そうな声を上げた。
「上原さん……私、今っ、怪物に追われてて……どうすればいいのか……!」
突然そんなことを言っても、桐子は泡を食うことはなく、ただ一言告げた。
『――二十秒で駆けつけます。先輩、いまどこですか』
「寮の部屋から逃げ出して、構内を走っているわ」
『そのまま走ってください。すぐ行きます、それまで止まらないで、逃げきってください』
止まった瞬間捕まるのは目に見えている。渋谷は暗闇の中を全力疾走する。
学生寮が建つ一帯を抜けると、校舎のあるエリアまでは間に森林地帯を挟む。豊かな自然に囲まれて勉学に励むため、桜泉女子大学は各所に森林があるが、夜中にライトもなしに走るには、不気味の上に物騒な場所だ。
しかし、それ以上に不気味なのは後ろから追いかけてくる白い怪物である。奇妙な一つ目の頭部の下には細長い両腕と両足が付属していて、五体あるといえばあるのだが、手足はおよそ関節があるとは思えない動きをしており、どちらかといえば軟体動物に近いように見える。つるつるの上にくねくねした両足でどうやって地面を蹴っているのか、あるいは滑走しているのかもしれないが、とにかく怪物は一定のスピードで渋谷を追跡してくる。
幸いにして、外見は化け物だが走るスピードは化け物ではない。引き離せない代わりに距離が縮まることもない。どうにかこのまま逃げ切れるだろうかと、僅かな希望を持って渋谷はひた走る。
だが、後方の追っ手を気にしながら走っていた渋谷は、前方に視線を戻した瞬間に絶句し、足を止めざるを得なくなった。前方では白い化け物の大群が行く手を塞いでいた。
ここまで逃げて来られたのではない、追い込まれたのだ。逃げ場を失くし、渋谷は立ち尽くす。
「――取引と行こう」
唐突な声は、怪物の集団の奥から聞こえてきたようだった。パチン、と指を鳴らす合図によって、道を塞いでいた軍勢が左右に別れ、その奥に男が見えた。一応人間だが、明らかに味方ではない人間だ。月光が浮かび上がらせた男の姿は、三十代くらいの中肉中背で、灰色の作業服姿をしている。黙って立っていれば勤勉な労働者に見えなくもないが、第一声の物騒な調子ですべてが台無しだ。
男は単刀直入に告げる。
「大人しく鍵を渡せ。抵抗するなら、無事では済まないぞ」
「この白い化け物は何なの。あなたが操っているの」
「その通り。《贋作騎士》の遺産の力だ」
ついに超常の力で強硬な手段に出てくる人間が現れたのだ。図書館で刃物で襲ってきた男も、仕込み針で襲おうとしてきた女も恐ろしかったが、それよりも異質で異常で凶悪だ。
どうすればいいのか。渋谷は首から提げた鍵を震える手で握りしめる。
「さあ、大人しく――」
男が再び言いかける。
――瞬間、上空から隕石が落ちてきた。
否、隕石と錯覚したそれは――土煙を上げ、地鳴りのような音を響かせ渋谷の前に落下してきたのは、桐子だった。
渋谷の驚愕と作業服男の苛立ち、交錯する視線の間に立つ桐子は、乱れたスカートを直して告げる。
「お待たせしました、先輩」
有言実行、ジャスト二十秒だった。




