40言わんこっちゃない
渋谷は周囲にさっと視線を走らせる。駅前のバスターミナルには、いざというときは大声を上げれば聞こえるくらいの範囲には人がいる。桜泉女子大方面に向かうバス停には渋谷の後には客が続かないが、別の方面に向かうバスの待合所には列ができていて、並ぶ人の視界には入っているはずだ。大丈夫、と渋谷は自分に言い聞かせる。今すぐどうこうという危機的な状況ではないだろう。
ベンチに腰掛ける万里は、とりあえず両手には何も持っていない。荷物は財布とスマホを入れたらそれだけでいっぱいになりそうな小さなボディバッグが一つだけ。その中に刃物が入っているとは考えにくいし、入っていたとしても、バッグの中から取り出すには時間がかかるはずだと、渋谷は冷静に分析する。
――無論、万里の場合、手ぶらであっても油断ならない異能を持っているのだが、そんなことを渋谷は知る由もない。
渋谷がひととおり観察してきたことに気づいたようで、万里は小さく苦笑する。
「そんなに警戒しなくても平気だって」
「警戒もするわ。奪われるか差し出すかなんて、どちらにしてもあなたが鍵を手に入れることになっている二択なんて、おかしいと思わないの」
「じゃあ訊くけど、鍵を手放さずに、この先どうするつもり? 自分で言うのもなんだけど、俺は割と紳士的な方だ。けれど、紳士的じゃない奴は、そう、たとえば、こんなに人目のある状況でも構わず襲って鍵を奪う」
「言われなくても解っているわ。そういう、紳士的じゃない人に襲われるのは経験済みよ」
「つまり、このままその鍵を持っていたら、そういうおかしな奴らが湧いてくるし、自分は勿論、周りも危ない。そこで、さっきの提案というわけだ。俺に任せてみない? 悪いようにはしない」
今すぐ逃げるか、大声で誰かに助けを求めるべきだろうか。渋谷は逡巡する。と、バス停に足音が近づいてくる。振り返ると、スーツの女性が、腕時計で時間を気にするような様子で早足でやってくるところだった。
助けを求めようか、否、下手なことをすれば無関係な女性まで危ないかもしれないから、「この少年は危ない人です」と言って二人で一緒に逃げようか。そんなことを迷っていると、万里がベンチから立ち上がって渋谷の方へ近づいてきた。いざ追い詰められると咄嗟に声は出ないものだ。渋谷は緊張でただ身を竦ませた。だが、予想に反して万里は渋谷をスルーし、こちらに近づいてくる女性の前に立つ。
「ほら、言わんこっちゃない」
何を言っているのか渋谷が理解するより早く、万里は女性の腹に素早く拳を捻じ込んだ。女性は身体的な衝撃で目を見開き、渋谷は精神的な衝撃で瞠目する。あまりに早業すぎて、おそらく離れたところにいてこちらにたいした注意を払っていなかった群衆は、何が起きたか気づかなかっただろう。
女性は呻きながら蹲る。まさか殴られたせいだとは、肝心の瞬間を見ていなかった人々は思いもよらないだろうから、女性がたまたま体調を崩したくらいにしか思われていないだろう。万里は自分でやっておきながら、白々しくも、あたかも介抱でもするようなふりをして傍らにしゃがみこみ、女性の耳元で何か囁く。よほどえげつないことを吹き込まれたらしく、女性はみるみるうちに青ざめて弾かれたように飛び上がる。じりじりと後退りして、やがて踵を返して一散に走り去っていった。
ぐんぐん遠ざかって行く女性の背中に、万里は呑気にひらひらを手を振る。
「いったい何なの」
状況が理解できない渋谷は説明を求める。
「これ、何だか解る?」
万里は質問に質問で返しながら、右手に持ったものを掲げて見せる。彼が示すのは腕時計だ。女性物の細いベルトの腕時計は、渋谷の記憶が確かであれば、先刻の女性がつけていたものだ。その時計で時間を確認しながら歩いてくるシーンが回想される。
「今の人から盗ったの?」
「そう。よく見てみな、この時計、おかしいだろう」
そう促されて、じっと時計を観察してみると、針が十二時で止まっているのが解った。壊れているのだろうか。あの女性は、壊れた時計を見ていたということか。
渋谷が不審に思って首を傾げると、万里は面白がるような表情で時計の竜頭を指で弾いた。と、文字盤の十二の位置の真上あたりから、細い針のようなものが突き出した。
「横を通り過ぎる時に、よろけたフリして接近して、針を刺すつもりだったみたいだな。試す気はないけど、たぶん毒が塗ってある」
毒、という物騒な言葉に、心臓がきゅっと緊張する。そんなまさかと信じられない気分で、渋谷がまじまじと時計を凝視すると、万里の手の中からぱっと時計が消えてなくなった。手品みたいな消失を目の当たりにして、渋谷は目を瞬かせる。
「あの人が怪しい人だって、最初から気づいていたの? 針の止まった時計をしていたから」
「まあね」
渋谷の位置からでも、時計をつけていることまでは解っても、文字盤がどうなっているかまでは見えなかった。それを、渋谷より離れた場所に座っていながら気づくのだから、万里の観察眼が優れていることは推して知れる。
「解っただろう。鍵を持っていることが知れ渡っている以上、このままじゃ、何度でも狙われることになる。それを回避するためには――――」
万里はどこからともなく手帳とペンを取り出した。手品じみた出現にひととおり驚いているうちに、万里はメモ帳にさらさらと何かを書きつけ、ページを破って渋谷に差し出した。
「その気になったら連絡して」
一方的に押し付けられたメモには万里の連絡先が書かれている。言いたいことを言うだけ言うと、万里はひとまずそれで気が済んだようで、満足げな表情を浮かべて去って行った。
問答無用で鍵を奪うくらいできそうなものだが、そういう素振りは一切見せないところは、自分で言うだけあって、紳士的かもしれない。もっとも、そういうことを自分で言うのが胡散臭いとも言えるのだが。
バス停のゴミ箱に捨てることもできたのだが、どうにもそうする気にはなれず、渋谷は戸惑いつつもメモをスカートのポケットに仕舞った。
★★★
遺産を蒐集する数々の組織の中では群を抜いて、目録のページ数を多く所有している騎士団であるが、運悪くと言うべきか、渋谷の持つ鍵についての記載はなかった。その「ない」というのを確認するだけで随分と時間がかかってしまい、徒労に終わった桐子はぐんなりと溜息をついた。
壁の時計を見ると、午後の三時を回ったところだった。渋谷はまだ勤務中のはずだ。館内でもなるべく一人にならないようにと言ってあるし、何かあったらすぐに連絡するように連絡先を教えてある。一度襲撃に失敗している以上、黒幕が再び勤務中に同じ手で襲ってくる可能性は低いだろうが――
「あら、仕事熱心ね」
不意に後ろから声を掛けられ、桐子は椅子ごとくるりと振り返る。同じ課の先輩である指宿双葉がオフィスに入って来たところだった。
指宿は桐子より五つ年上で、入団十年目のエリート異能者である。ふだんの言動は大人びているが、身長が低いことと童顔がコンプレックスで未成年に間違えられると大人げなく怒る。しかし、ボブカットの髪型と、女子高生を彷彿とさせるようなプリーツスカートやニットカーディガンなどをよく着ているせいで、初対面の人間に成人女性であると理解してもらえることは殆どないらしい。
その幼いような見た目からは想像がつかないくらい仕事ぶりは優秀で、これまでに幾人もの異能者と渡り合い、数々の遺産を持ち帰り、彼女の歩いたあとには死屍累々が――などと、課長の永倉が言っていたことがある。課長が若干話を盛っている感はあるが、指宿が尊敬すべき先輩であることは間違いのない事実である。
「指宿先輩、お疲れ様です」
「お疲れ様。遺産の情報?」
「偶然、遺産の保持者に会ったんです。ただ、一般人だったので、今は対策中です」
「一般人か。蹴って解決する輩が相手より、気を遣うわね」
「先輩はどうしていますか、何も知らない人がたまたま遺産を持っている場合」
「うーん、お金で解決?」
手っ取り早く、そしてたいていの場合で通用しそうな答えをさらりと用意する。それから指宿は軽く笑って補足する。
「とはいえ、そんなにいつもいつもお金で解決できるほど、予算が潤沢ではないけれどね」
ほいほいお金で取引しちゃ駄目よ、と指宿は桐子に釘をさす。もっとも、お金がいくらあったとしても、渋谷にとって鍵は金に換えられる類のものではないので、解決法にならないのだが。
指宿の姿を見たらふと思いついたことがあり、桐子は尋ねる。
「……先輩って、小学生の頃から異能者で、騎士団で働いてますよね。切欠って何だったんですか」
「藪から棒にどうしたの」
「なんとなく、気になりまして」
「騎士団に入ったのは、異能に目覚めて、すぐに騎士団からスカウトが来て、組織の方針が性に合ってると思ったからよ。異能者になったのは、偶然も大きいのだけど」
指宿は近くの椅子を引っ張ってきて桐子の隣に座る。
「友達と一緒に学校から帰る途中に、野良犬に出くわしたの。すごく大きな犬でね、私は平均よりも体が小さい方だったから、いっそう大きく感じたわ。友達の方も震えて、足が竦んで、逃げるに逃げれない状況だった。それで、野良犬がものすごい勢いで飛び掛かってきて……私は咄嗟に、友達を守らないとって思って、彼女を庇って前に出た。私はもう、犬に噛み千切られちゃうんじゃないかと思ってびくびくしたわ」
だが、実際にはそうはならなかった。噛み千切られるどころか、指宿は傷一つ負わず、痛みさえ感じなかった。逆に、犬は大きく吹っ飛ばされてアスファルトでのたうった。
指宿がその身に宿した遺産は《鏡の盾》という。攻撃を跳ね返す盾を操る力を持っている。その異能が、危機的瞬間に奇跡的に発動したらしい。
「遺産がどこから湧いて出てきたのかは解らないわ。元々遺産って、神出鬼没で、気まぐれに人の前に現れるから、どこから来たのかって考えても、あんまり意味がないのよね。ともかく、この遺産は私を気に入ってくれたみたい。異能者になりたいと思っていたわけじゃないし、異能なんて知りもしなかったけれど、私と《盾》は波長が合ったみたい。だから、成り行きみたいなものよ。ただ、それから私は特に背伸びをしたわけじゃないけれど、少しずつ異能を使いこなせるようになっていったから、要は自然体がいいってことなのよね」
「自然体」
「そう。強い感情がトリガーになるのは確かだけれど、その感情を意図して作ろうとしても駄目なのよ。内から湧き出る強い感情に、遺産は適合するの。……とまあ、そういう感じで私は異能者になったわけだけど、これ、何かの役に立つの?」
「あ、いえ。そういうんじゃなくて、ただ不意に気になっただけといいますか……じゃあ、私、ちょっと出てきますね」
曖昧に誤魔化して、桐子はそそくさとオフィスを飛び出した。




