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38完全に足元見られてる

 桐子が何冊かの図書を見繕って、両手で抱えて三階に戻ろうとすると、視界の端に先刻の女性職員が目に入った。配架作業中のようで、書籍がたくさん積まれたワゴンを傍らに、踏み台に乗って書架の上段に本を戻している。

 そこに学生風の若い男性客が近づいていき、声を掛けた。

「職員さん、すみません。向こうに変なものがあって……ちょっと見に来てくれませんか」

 立ち聞きをするつもりではなかったのだが、不意にそんな言葉が耳に入ってしまい、桐子は足を止めた。男性客は奥の方を指差して職員を促す。女性職員は怪訝な顔をしながら客について歩き出す。

 二人が連れ立って歩いていくのを眺めていた桐子は、逡巡の後、抱えていた本をとりあえず適当な棚の上に置いておいて、彼らの跡をつけることにした。男性客が見つけたという不審物が気になる。もしかしたら遺産かもしれない、と思ったのだ。プライベートモードから一瞬で仕事モードに切り替えて、桐子はひっそりと後ろからついていく。およそ図書館という場所には不釣り合いの警戒心に満ちた顔で歩いていると、すれ違った男性職員に不審な顔をされてしまった。慌てて愛想笑いを浮かべ、通報しないでくださいと内心で祈りを捧げておく。

 男性職員の目から逃れるようにそそくさと歩いていき、数歩進んだところで、桐子は違和感を覚える。男性客を追う道すがら、男性職員とすれ違った。ということは、あの男性客は、位置関係的にいうと、女性職員に声を掛けるより先に、男性職員とすれ違うはずだ。普通、不審物の対処なら、男性に頼むものではないだろうか。近くに他に頼める人がいなかったのならともかく、近くにいた男性職員をスルーして、わざわざ女性に頼む理由があるだろうか。

 考えすぎならばいい。だが、もしもそこに意図的な何かがあるとしたら。微かな不安を覚え、桐子は足早に二人を追う。行きついた先は、フロアの一番奥、書架の陰に隠れた隅だった。

 最初に目に入ったのは、男の背中。その奥に、相対する女性職員がいた。男の顔は見えないが、女性の方は緊張した面持ちである。そっと近づいていくと、桐子に気づいた女性が慌てた様子で声を上げる。

「来ちゃ駄目よ!」

 その言葉で、男がはっと振り返って桐子の存在を認めた。男は右手に刃物を握りしめていた。

 男は忌々しそうに舌打ちすると、刃物の切っ先を桐子に向ける。

「いいか、騒ぐなよ。騒いだらどうなるか、解ってるだろうな」

 どうやらこの男は、騒いだら殺すとでも言って刃物で職員を脅していたようだ。白昼堂々、公共の場所で凶行に及ぶとは、節操のない犯罪者もいたものだ。

 思いがけず事件現場に遭遇してしまった。とりあえず、状況は読めた。

「騒いだらどうするつもりなのか、教えてもらえるかしら」

「何だと!」

 大人しくなるかと思えば生意気なことを抜かす少女に、男はかっと顔を赤くする。だが、その顔もすぐに青ざめることになる。桐子が右脚を振り上げ、男の握っていた刃物を蹴り落としたからである。

「……っ!」

 声もなく慄き目を白黒させる男に向かって、桐子は怜悧な目を向けて告げる。

「で、どうするつもりですって?」

 ひっ、と喉の奥で悲鳴のような声を上げると、男はすっかり震えあがり、戦意を失くしたように床にへたり込む。

「す、すいませんでした、勘弁してください!」

 男は驚くほどあっさりと土下座した。桐子の氷の目がよほど耐え難かったらしく、聞いてもいない言い訳をくどくどと並べ立て始めた。

「ごめんなさい、怪我させる気はなかったんです。ただ、俺、金に困ってて、駅前で会った男に、この職員さんの首飾りを取ってきたら十万払うって言われて、それで、魔が差して……」

「安っ! 驚くほど安い! 十万で雇われるなんて、完全に足元見られてるじゃない」

 どうやらこの男、金に困っているところに付け込まれていいように使われてしまったらしい。いい年の大人が今にも泣きそうな顔をして床に額をこすりつけるのが哀れになってきた。襲われたのが自分なら金的蹴り一発で見逃してやってもいいところだが、被害者は自分ではないので、戸惑い気味に男の土下座を目の当たりにする職員に桐子は尋ねる。

「警察、呼びましょうか?」

 女性職員は困った顔で言う。

「あの……あまり、大事にしたくないので。怪我はありませんでしたし」

 静かな図書館にぞろぞろと警察が踏み込んでくるようなことは避けたいのだろう。見ず知らずの男に襲われたとなると、おかしな噂が立たないとも限らない。被害者本人が警察沙汰にしたくないというなら、それでいいだろう。桐子の方も、正直に言えば、警察に事情聴取される事態はあまり好ましくない。

 桐子は男の免許証を強奪して身元をきっちり把握したあと、胸ぐらを掴んで「次におかしなことをしたら容赦はしない」と厳しく言い含める。対する職員の方は悪戯をした子供を咎めるような慈悲深い顔で、桐子とは対照的に優しく告げる。

「もう二度としないでくださいね」

 女性職員が温情判決を言い渡すと、男は何度も謝って、半泣きになりながら走り去って行った。

「助けてくださって、ありがとうございました」

 職員はまだ戸惑いを残しつつも、柔らかく微笑み頭を下げる。

「いえ。それより、あの男を使ってあなたを狙った奴がいるようです。何か心当たりがありませんか。首飾り、と言っていましたけれど、失礼ですが、何か高価なものをお持ちなんですか」

「高価……ではないんですけど、首飾りというのは、きっとこれのことですね。私のお守りですけど」

 女性は首にかかったチェーンを手繰って、ブラウスの下に隠れていた首飾りを取り出した。持ち手の部分に赤い石の嵌めこまれた鍵のモチーフの首飾りだった。

 近くにいただけでは何も感じなかったのだが、鍵が目に入った瞬間、桐子は微かに、ごく微かにだが、自分の「何となく第六感」が反応したのを感じた。

 たった今まで何も感じなかったのに――。桐子がひっそりと混乱しているとは露知らず、女性は綺麗な微笑みを浮かべた。

「私、渋谷真里菜といいます。この後、お昼休憩に入るんですけれど、ご一緒しませんか?」



 図書館の入口前で待っていると、十二時を二分ほど過ぎた頃、渋谷が小走りでやってきた。休憩は一時までなので、あまり遠くへ行けないということで、彼女がよく利用するという、図書館に隣接する四階建てビルの一階にあるカフェ「カラベル」に誘われた。

 席は半分ほどが埋まっていた。桐子たちは窓際のテーブル席に案内された。店主の趣味なのか、店内はいたるところに猫のインテリアが飾られている。猫柄のカレンダー、猫の置物、奥の席の客のティーカップは持ち手が猫の尻尾の形をしている。渋谷は、ディフォルメされた白猫が描かれたメニューを見ながらランチセットを注文したので、桐子もそれに倣った。

 ランチが運ばれてくるのを待つ間、渋谷は自分のことを教えてくれた。彼女は桜泉女子大の一年生で、図書館では週三勤務のアルバイトということだった。桐子が舟織一高の一年生だと告げると、渋谷は嬉しそうに笑った。彼女も舟織一高の出身らしい。渋谷と桐子は先輩後輩ということになる。万里と入学式の日にばったり出くわした時も思ったことであるが、世界は狭いものだと桐子は驚いた。

 やがてサンドイッチと飲み物のセットが運ばれてくる。店員が離れて行ったのを確認すると、桐子は本題に入る。

「『お守り』の話を聞いてもいいですか」

 時間もあまりないので桐子が単刀直入に問うと、渋谷は小さく頷き、慈しむように首飾りの鍵に触れ、その由来を語り出す。

「中学一年生の時、父と母と、家族三人で車で出かけた日に、交通事故に遭ったの。対向車線の車が飲酒運転だったみたいで、正面衝突。不幸中の幸いで、三人とも命は助かったのだけれど、その時の外傷のせいで、私は目が見えなくなってしまった」

 渋谷は柔らかい声と表情とは裏腹に壮絶な過去を語る。決して辛くないはずがない出来事を、しかし渋谷は、悲壮感や絶望感とは遠いところでそれを話す。彼女にとって既に「過去」になっているからなのだろうか。現に彼女は今、目が見えている。

「父も怪我のせいですぐには仕事ができなかったから、しばらくの間、祖父母の家で静養することになったの。私も突然のことでショックだったし、見えない生活に慣れる必要があったから、学校を休むことになって、祖父母の家で過ごしていたわ。それで、事故から半年くらい経った頃かしら、祖父がたまたま出先の露店で見かけて、この首飾りを買ってきてくれたの。ちょっとおしゃれで、この鍵についている赤い石もきらきらしていて綺麗でしょう。似合うと思うから、って祖父がくれたの」

 そして何気なく、自分で見ることは叶わないけれど、渋谷は首飾りを身に着けた。その瞬間、彼女の世界は変わった。闇に閉ざされていたはずの渋谷の視界に光を注いだ。

「不思議なこともあるものだ、神様がくれた奇跡なんだ……みんな、そんな風に言って、私の目がまた見えるようになったことを喜んだわ。本当は、この鍵がいったい何なのかとか、いろいろと考えるべきだったのかもしれないけれど、その頃はただ嬉しくて、深いことは考えないで、ただ奇跡だと思っていたの。だから、これは私にとって神様がくれた奇跡で、お守りみたいなもの。それからずっと肌身離さず着けているの」

「その首飾りは、遺産と呼ばれる、超常の力を持った宝具です。この世界には、そういう不思議なものがあちこちに散らばっています。中には危険なものや、悪用されたら大変なものもあります。私は、そうならないように散らばった遺産を回収する仕事をしています」

「そんな大変なものだったなんて思わなかったわ……誰かが欲しがるようなものだとは、考えていなかった」

 渋谷は、彼女自身にのみ価値のある奇跡であり、遺産という他者が欲するものだとまでは思っていなかった。しかし、実際にはそうではない。視力を失った渋谷が、所持するだけで視力を回復させた、それだけでも十分に遺産の持つ能力の強さが窺える。そして、今は渋谷にその意図がないゆえに発揮されていないだけだろうが、その気になれば、もっと別のものが――本来なら見えるはずのないものまで見えるというような超常の能力を顕す可能性も充分に秘めている。

 桐子は、実際に鍵を目にするまで、遺産の気配に気づかなかった。遺産の活動があまり活発でない状態だからだ。つまり、彼女の遺産はまだちっとも本領を発揮していない。ほんの少しだけ力の片鱗を示しているに過ぎない。ごく僅かにしか稼働していない状態でも視力を回復させることができる、というのも勿論驚くべきことだが、もしも遺産の力が全開にされたらいったい何が見えるかと考えると――不埒な男が可憐な女性を襲ってまで手に入れようと考える、それだけの価値がこの鍵にはあるというわけだ。

「もしかして今までも、危ない目に遭ったことがあるんじゃないんですか」

「実は……直接襲われたのは今日が初めてだけど、最近、買い物なんかで外に出ると、視線を感じたり、誰かにつけられているような気がしていたの。思えば、それも誰かが私の鍵を狙っていたのかもしれないわ。たぶん、この前、新聞に載っちゃったから」

 聞けば、つい最近、市立図書館が地方新聞に、小さくではあるが紹介され、職員の写真も掲載されたのだという。思い返せば、奇妙なことが起き始めたのはそれ以降のことだと、渋谷は言う。遺産を狙う輩がその新聞を見て、目を付けたのだろう。扱いが小さかったからまだよかったものの、テレビに映って全国ネットで放映などされていたらとんでもなかったと、桐子は肝を冷やす。

「また誰かが、狙ってくるのかしら」

「残念ですが、その可能性が高いです」

「今日はたまたま、上原さんに助けてもらえたけれど、いつも無事でいられるとは限らないわ。もしかしたら、周りの友達を巻き込んでしまうかもしれない……そうなる前に、鍵を手放した方がいいのかしら」

「そんな!」

 渋谷の方は落ち着いているのに、なぜか桐子の方が焦ってつい大きな声を出してしまった。それから、今いる場所を思い出して声を潜める。

「だって、手放したらまた、目が見えなくなっちゃうじゃないですか」

「それはそうだけれど、目が見えなくて困っている人は他にもたくさんいるわ。その人たちは、遺産なんてものに頼っていないでしょう。周りの人を危ない目に遭わせてまで私だけ奇跡に頼るのは、ちょっとずるい気がするもの」

「そうはいっても、先輩の遺産を狙っている連中はろくでもない私欲のために遺産を手に入れようとする奴らですよ。そんな奴らにくれてやることはないです」

「だったら、あなたが回収すればいいわ。それが上原さんの仕事なのでしょう」

 桐子はうっと言葉に詰まる。確かに桐子の仕事は遺産を回収することだ。本来なら桐子の方から、遺産の回収を申し出なければならないところだ。しかし、渋谷の方から言われるまで、その当然とも言うべき選択肢が頭の中になかった。

 桐子は自分で自分の考えに驚いてしまった。どうやら、自分は渋谷から遺産を奪いたくないと思っているらしい。

「私は……その鍵を先輩に持っていてほしいと思ってます」

 渋谷は不思議そうに首を傾げる。

「その鍵は、先輩に必要なものでしょう」

「でも、不公平じゃないかしら。私には必要かもしれないけれど、他にも必要としている人はいくらでもいるわ。私はたまたま手に入れただけ」

「たまたまでもいいじゃないですか。神様なんてどうせ不公平で不平等なんですから。たまの気まぐれで奇跡をくれたんですから、ありがたく受け取っておけばいいんです。奇跡は一つしか受け取れなくて、それを必要としている人が、『自分だけじゃ悪いから』なんて遠慮しあってたら、誰も受け取る人がいなくて勿体ないですもの。そこに横取りする奴なんかが出てきたら目も当てられないです。だったら、たまたまでも、選ばれた人が受け取って、選んでもらった分、他の人よりほんの少し頑張ればそれでいい……って考えるのは、駄目ですか」

 桐子はいつになく必死で説得していた。いつもは問答無用で遺産を回収する側の人間であるのに、今回に限っては、彼女が遺産を手放すようなことになったらきっと後悔するだろうと感じていた。渋谷が戸惑ったように目を瞬かせるので、知らず知らずのうちに自分の声が大きくなっていたことに気づいた。

 つい熱くなってしまった気持ちを再び鎮めるために、桐子はそっと息をつく。

「ええと……先輩と同じような人を、私は知っています。その人は病気で両足が動かなくて車椅子の生活をしていました」

 まるで言い訳するみたいに、桐子は語り出す。いきなり何をと思われても仕方がないが、渋谷は黙って聞いてくれた。

「その人は偶然、遺産を手に入れて、動かなかった足が動くようになりました。そしてその遺産は、ただ足が動くだけでなく、人間離れした脚力を齎すもので、常識を覆すほどに速く走り、高く跳ぶ力を与えました。その人は、自分がその力を手に入れたことに『意味』を求めて、他の人よりも少しだけ、頑張って生きることにしました。遺産を守るための戦いに加わることにしたんです」

「その人って、もしかして……」

 何かを察して口を開きかけた渋谷に曖昧に笑ってみせて、桐子は続ける。

「私は仕事柄、遺産をロクでもないことに使う連中をしょっちゅう見ます。うんざりするくらい、みんな私欲にまみれて、人を傷つけることを厭わない奴らです。だから、遺産を正しく使ってくれる人がいるなら、その人には大事にしてほしいんです。こんなこと言ったら、本当は会社には怒られちゃうかもしれませんけれど、できるなら、その鍵は先輩に持っていてほしい……もし先輩がそれに罪悪感があるなら、少しだけ他の人よりも頑張ってくれませんか。少しだけでいいんです……たとえば、その目で泣いている人を見つけて、励ましてあげるだけでもいいんです」

 こんな話を誰かにするのは、もしかしたら初めてかもしれない。会ったばかりの渋谷に、身の上話にも似たことを語り聞かせたのは、彼女にシンパシーを感じているからだろう。

 渋谷は桐子の言葉を噛みしめるように目を閉じる。

「そうね……この鍵は、塞ぎ込んでいた私に祖父が贈ってくれたもの。私をずっと支えてくれたお守りだもの、できることなら手放したくないわ。けれど実際問題、狙う人が現れた。ずっと逃げ続けることが私にできるかしら」

「逃げる必要はありません。逃げなくても、誰にもその鍵を奪われないようにする方法があります」

 鍵として、使用者から分離可能な道具として所持しているから狙われる。ならば、解決のための方針は決まっている。

「異能者になれば誰もその鍵を奪えません」

 保持者から異能者へ進化する。遺産を他者に奪われないようにするためのシンプルな方法だ。

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