25あなたの仕事が遅いせいで
前回のあらすじ:夜の学校ではだいたい事件が起こる
舟織一高の生徒数は約千人。弓香から聞いていた話では、例年そのうちのだいたい三分の一くらいの生徒が夜の校舎に残るという。つまり、三百人前後の生徒が校舎にいると考えていい。時間が経つにつれて感染は拡大する。三百人もの生徒に校舎をうろつかれては元凶の遺産に近づこうにも近づけない。
「タイミング的には今が一番だろう。一部の生徒は一時的に難を逃れて特別棟や部室棟の方に逃げ込む。逃げてる奴がいるうちは、それを追う側もいい具合に散ってるはずだ。これが全員捕まって、一般棟に戻ってこられると近づけなくなる」
「解ったわ。私が先行して生徒を引きつける。あなたは後から来て、生徒の波が引けたころに中三階に到達して」
「本当に一人で全員引きつけられるのか」
「挟まれて身動きできなくなりそうになったら、申し訳ないけれど何人か元気そうな男子諸君には寝ててもらいます」
「解った。なるべく早く片をつける」
「じゃあ、また後で」
桐子は万里と別れ、自習室を飛び出す。
《神速撃》を発動。瞬時に廊下を駆け抜け、一気に連絡廊下前まで辿り着く。左右を見回すと、物音に気付いたのか、特別棟にある教室で獲物を探していたらしき生徒が何人か釣られて出てきた。
「さあ、私はここよ。ついてきなさい」
言葉を理解しているかどうかは怪しいが、生徒たちは桐子の姿を認め、緩慢な動きで近づいてきた。追いつかせず、かつ引き離しすぎず、すべての生徒を適度な距離で引きつけていく必要がある。確実に釣れていることを確認すると、桐子は廊下を曲がって生徒ホールへ。
ホールの真ん中まで行くと、一般棟の方からも何人かの生徒が歩いてきてしまう。早速挟まれた。
「こちらに来られると困るのよ」
だが桐子は焦らず、両側の生徒たちとの距離を慎重に計る。疎らにやってくる生徒の波、その切れ間を探し、タイミングを見計らう。
一般棟側からの生徒の流入が、一時的に切れる。最初に引きつれて来た方の生徒たちは、もうぎりぎりまで近づいてきていた。そのタイミングで、桐子は跳躍する。
単なる高校生の可愛らしいジャンプではない。渋滞気味の生徒たちの頭上を軽々と超える大跳躍だ。やるべきことを理解し、進むべき方向が決まっているなら、冷静に、障害物はいつも通り飛び越えていく。
生徒たちはいっせいに桐子を振り返る。挟み撃ちにしていた生徒の群れが一つに合流し、追跡を再開してくる。ここまでは順調、全員釣れている。
桐子はそのまま生徒たちを引き連れてホールを抜け、西側に折れて廊下を進み、突き当りで西階段を上がっていく。途中、何人かが疎らに上から下りてきて桐子に襲いかかろうとする。だが、それを跳躍で躱し、手すりの上に危なげなく着地する。万里が言うところの「NPC理論」の行動パターンはなんとなく読めてきた。彼らは正規の通路を通るだけで、間違っても階段の手すりの上などという、道といえない道は通らない。そこは桐子だけが通れる道だ。
さあ、全員追ってこい。生徒たちの澱んだ瞳に自分という餌をちらつかせ、桐子は階段を駆け上がる。万里が中三階を安全に捜索するには、渋滞してきた群衆を確実に引きつけ、できるだけ遠くまで進む必要がある。三階で釣り上げた生徒を引き連れたまま最上階へ上がり、四階廊下に到達する。教室の中に残っていた生徒が桐子の姿を捉えて外に出てくる。呆れるくらいにまだまだ増えてくる。
「もう少し……時間を稼がないと……」
更に先へ進もうとする桐子だが、一年D組の教室の前あたりまで差し掛かったところで、前後の教室からも何人か溢れてきて迫ってくるのを察知する。
包囲されてきたようだ、と桐子は息を呑む。だが、ここで捕まるわけにはいかない。まだ万里からの合図がない。だいたい、桐子が自我を失い「追う側」などになってしまったら、万里みたいにトロトロ走る奴など一秒で捕まえる自信がある。桐子が追いかける側になる鬼ごっこは普通にクソゲー状態だと自分でも解っているので、その事態だけは避けなければならない。
問題解決のためには、多少の攻撃もやむを得ない。桐子は警棒を構え、前後の敵との距離を慎重に確認する。人数ばかりは多いが、彼らがその数の利を生かして連携してくることはない。間合いに入った者から順にてんでに襲いかかってくるだけだ。なら、近づいてきた順に一人ずつ対処していけば、理屈の上では一人でもなんとかできるはずだ。たいして広くもない廊下では、そんなに何人もは一度に襲いかかってはこれまい。
最初に後ろから両手を広げ近づいてくる男子生徒、それを躱して後ろに回り込み、背中を足蹴にする。軽く蹴飛ばしただけで少年はふらふらとよろけ、前方の集団に雪崩れ込んで、何人かを巻き込んで倒れた。
巻き添えを免れた女子生徒が桐子を掴もうと右手を伸ばしてくる。青白い顔の少女が無言で襲撃してくる様子に鬼気迫るものを感じる。少女の手を警棒で軽く払い除けてバランスを崩してやる。なるべくなら怪我をさせないように、警棒で「叩く」というよりは「受け流す」感覚で、襲撃者の少女を遠ざける。
次から次へと襲いかかってくる生徒たち。だが、動きは緩慢だ。桐子は断続的な攻撃を的確に捌いていく。
だが――捌き続けるにも限度がある。手心を加えているせいで、敵側は倒れても割と簡単に立ちあがってくる。近づいてくる者全員の動きに注意を払い、休む間もなく、相手を気遣いながら攻撃をいなしていくのは、かなり神経を使うし、普通に戦うよりも疲労の蓄積が早いように感じられる。もうだいぶ息が上がってきている。どれくらいの時間そうしているだろうか。時間の経過も、桐子には解らなくなってきている。
万里は遺産に辿り着いた頃だろうか。合図はまだか。まさか囮の仕事が十分でなく、万里の方に生徒が向かっていて――などということにはなっていないだろうか。
桐子は、自分が感染してしまうことが厄介なことを自覚しているが、同様に万里が敵側に堕ちることもかなり面倒だと考えている。そんな最悪の事態だけは勘弁してくれと半ば祈りながら合図を待つ。
疲労と焦燥で、精神的な余裕が少しずつ擦り減っていくようだった。
「万里……まだなの……? 早く……!」
息を乱しながら、懇願するような言葉が思わず口をついて出た――その時。
生徒たちの動きがぴたりと静止した。
次いで、糸が切れたように、一人、また一人と生徒たちが倒れていく。ばたばたと折り重なるように廊下に倒れる生徒たち、その体に浮かんでいた奇妙な模様が、薄れていく。
異能が解除されたのだろうか。桐子は汗で頬に張りついた髪を払い除け、一気に沈静化していく生徒たちを見回す。
呼吸を整えながら様子を窺っていると、倒れた生徒たちを避けながら歩いてくる人影を認める――万里だった。
「何とかなったっぽい?」
あまり機嫌のよくなさそうな顔で、万里は桐子の方に向かいながら問う。何があったのか、桐子は何となく察した。
「さては、女子の方だったのね」
「残念ながら」
万里が盛大に溜息をつく。
「誰の仕業か知らないけれど、仕掛ける場所にはもう少し気を遣えって話だよ」
「回収する側に気を遣ってくれるわけないでしょう」
「絶対犯人、女だろ、しかも陰険な」
雑な推測を披露しながら、万里は左手を差し出す。握っていた手を広げると、ハンカチに包まれた状態で、水晶のようなものの割れた残骸が現れた。透明な石の破片には、ところどころ、生徒たちの体に顕れていたものと同じ模様が描かれている。
「壊したのね」
「解除の方法が解らなくて、仕方ないから割った。まあ、いいだろ、こんなバイオテロじみた異常状態感染の遺産なんて使い道もないし、たぶんうちのボスも欲しがらないよ」
万里はうんざりしたように言う。桐子としても、別にこんな気味の悪い能力は必要ないから、破壊されたことについては特に文句はない。しかし、少し引っかかる。
遺産には相性があり、力を使いこなすためにはある程度の適合率が必要だ。だが、能力を解除するくらいなら、多少相性が悪くてもだいたいは可能なはずだ。遺産が当初の使用者の手を離れて放置されていたのだとしたら尚更、別の人間がその能力を把握しており、遺産に近づいて解除の意思を持っていれば、発動中の異能のキャンセルくらいはできるだろうに。
「桐子?」
難しい顔をしていたのが解ったのだろう、万里が訝しげに名前を呼ぶ。
「何かあったのか」
「何か? それは、思いのほかあなたの仕事が遅いせいでとても疲れたとか、言いたいことはいろいろあるのだけれど……」
「いや、そういう文句はいいから」
「ちょっとだけ、気になって……でも、たぶん考えすぎね。それより、この後どう事態を誤魔化すかのほうが重要ね」
科学部が謎の実験をしたせいで漏れたガスによって集団幻覚を見たことにでもしておこうか、と桐子は適当な設定を考える。なんにしても、倒れた生徒たちをこのまま放置しておくわけにはいかない。順番に叩き起こしていくしかないな、と桐子は憂鬱な気分で溜息をつく。
「片っ端から叩き起こすしかないわ。万里、そっちお願いね。私、向こうからやるから」
「ええ? 二人だけで全員起こすの? 何人いると思ってるのさ」
万里は露骨に厭そうな声を出すが、苦情は無視し、さっさとやれと視線で指示する。この疲労困憊の状態で、半分も請け負ってやろうというのだから、寧ろ感謝してほしいくらいだと桐子は憤然とする。
手近なところから起こしていこうと、後方で倒れている女子生徒の傍らに跪く。手を伸ばした――その瞬間、倒れていた少女がカッと目を見開いた。
「っ!」
明らかに異常な目の覚まし方に、桐子は小さく息を呑み反射的に飛び退いた。
「万里、まだ終わってない!」
警戒を促すように振り返り叫ぶ。万里はすぐさま臨戦態勢を取り、まずは集団から距離を取ろうとする。だが、それが叶わず、万里は愕然と目を瞠る。
倒れていた生徒たちの体にはいつの間にか黒い模様が再び浮かび上がっている。いくつもの黒い手がわらわらと群がり、万里を文字通り足止めしようと、彼の両足を鷲掴みにした。




