21準備しているときが一番楽しい
文化祭を週末に控えた六月の月曜日のことだった。
朝、急遽部室に集められた演劇部員たちは、このままでは準備が間に合わない、という衝撃の事実を知らされた。
舞台で演じる桐子たち四人の一年生は、放課後になるや、発声練習から始めて、台本の読み合わせを行い、実際に通し練習をしてと、なんとか本番までにはものになりそうな程度には、演技の方が仕上がりつつあった。四月から演劇に触れたところの初心者一年生にしてはまずまずの出来だろう、ここから本番までラストスパートだと、全員で意見は一致していた。
そんなとき、部長から一言告げられた。
「準備、間に合わないです」
演劇は、演技も重要だが、無論それだけで成立するわけではない。衣装やら小道具やら、諸々の準備が必要だ。今回の台本は卒業生が用意したオリジナルもので、演じるのは初めてなのだから、過去の道具を流用するにも限度があり、一から作るしかないものだってある。廃部寸前のところをなんとかギリギリ首の皮一枚繋がったレベルの弱小演劇部なので、予算は最低限しかもらえていない。その最低限の予算を駆使して諸々の用意をする必要があった。
当初部長は、「みんなは演技の練習に集中してください。道具は大事だけど、演技がぐだぐだじゃ話にならないんですから。他の準備は私が進めておきますね」と宣言した。それが一か月以上前のことだ。
それから部活で顔を合わせるたび、一年生たちは「流石に部長に全部押しつけるわけにはいかない」と、何度も手伝いを申し出た。しかし部長はその度にそれを固辞する。そして、部活中、弓香が忙しそうに作業をするような姿は一切見られなかった。演劇初心者四人組は「まったく忙しそうにしていないし、手伝いが必要だとも言われないから、成程、準備は部長一人でも大変ではないのだな」と錯覚してしまった。
そう、まさしく錯覚だったわけだ。実際には、弓香だけでは間に合わない。今まで何もしてこなかった下っ端部員が責められることではない。だが、それでも一言言わずにはおれない。
「もうちょっと早く気づかなかったんですか、その現実」
作業のノウハウなど知るはずもない下っ端部員は、やり方を教えてもらえず、手は間に合っていると言われ続け、手伝いたくても手伝いようがない状況だった。そして一週間前になっていきなり間に合わないときた。桐子は頭痛を感じた。これで相手がたとえば万里だったら容赦なくぶん殴っているところだ。
かくして、文化祭まで一週間を切った月曜日の始業前、演劇部は部室でテーブルを囲んで緊急ミーティングと相成った。
「いやあ、ごめんなさい、みんな」
と弓香は謝るが、表情にはさほど緊張感がなく、あっけらかんとしている。
「衣装とか小道具とか全然だから、これから一週間、演技と並行して、みんなには準備を手伝ってもらいます」
「それで、その、間に合うものなんですか」
伊吹が躊躇いがちに聞く。やれることはなんでもやるつもりだが、素人が寄り集まったところでスピードアップができるのだろうかと疑問なのだろう。桐子もそこは疑問だ。いくらなんでもあと一週間、放課後だけの時間で何とかできるのか。弓香の話では、準備はさっぱり進んでいないような様子だが。
「うん、ですから、延長申請を出します」
「延長申請?」
「そうです。文化祭直前の一週間だけは、準備のために部活の時間を延長して、夜九時まで学校に居残りできるんです。舟織一高名物の居残り準備です」
通常、舟織一高は十九時が完全下校時刻である。全国レベルのスパルタ運動部であっても例外なくこの時刻までには敷地外に撤退しなければならない決まりだ。だいたい二十分前には生徒たちが部活を切り上げて下校し、持ち回りで当番になっている教員が戸締りを確認して撤収する、というのが通例だ。
それが、文化祭直前の一週間だけは、準備のために二十一時まで学校に居座ることができる。居残り準備を希望する団体は、居残りを希望する生徒の氏名と作業終了予定時刻を事前に申し出る仕組みになっている。これが延長申請である。
生徒たちが文化祭のために一丸となって準備を進めることにより結束を深めることができると思われるので特別に部活の延長を許可する、というのが学校側の主張だ。とはいえ生徒の方はそこまで真剣に殊勝なことを考えてはおらず、夜の校舎という稀なシチュエーションでわいわい騒ぎながら楽しく準備して、本祭前のお祭り騒ぎができればいいくらいに考えている。
「実を言うと、演劇部は伝統的に、普通にやれば準備なんか余裕で間に合うのに、居残りで準備をしたいがためにわざと準備を遅らせて延長申請するって慣例がありまして……」
「つまり……伝統に則って居残りするために、わざわざ準備をサボってたってことですか」
雪音が若干呆れた風に要約すると、弓香は悪びれもせずに大きく頷いた。部室が溜息に包まれた。
「まあ、イベントごとって準備しているときが一番楽しいっていうのもあるから、解らないでもないけれど……」
「あ、みんなそんなに心配しないでください、みんなで居残りすればきっちり文化祭までには間に合うように計算してサボりましたから」
計算してサボるという新しい概念を妙に自信満々に披露する弓香が可笑しくて、桐子は思わず苦笑する。
隣の雪音が振り返って、少し不安げな表情を見せる。
「みんなでやれば間に合う作業量ってことか……全員参加できることが前提になってるけど、桐子は大丈夫? バイトの方」
「大丈夫、割と人手は足りてる職場だし。文化祭があることは言ってあるから、融通してもらえると思うの。それに、夜の学校で準備するって、ちょっと面白そうでわくわくするものね」
「ああ、上原ちゃん、よく解ってますね! おやつは持ち込み自由ですよ!」
弓香が感激した風に叫ぶ。伊吹が「バナナはおやつに入るんですかね」と謎の議論を部長と始めたので、その間に桐子は満面の笑みで万里に問う。
「万里も、居残り大丈夫よね?」
笑みの内側には「こっちがごく普通の生徒らしく流れに乗って仕事より部活を優先させているんだから、そっちも抜け駆けはなしだからね」という牽制を潜ませている。おそらくそれに気づいたのであろう万里は、同じく満面の笑みを浮かべ、しかしその裏に「誰がそんなせこいことするかアホ」くらい考えていそうな調子で返す。
「ああ、勿論。うちのバイト先はホワイト企業だから」
やってることはブラックじゃないか、というツッコミは、雪音たちの手前、なんとか堪えた。
「じゃあ、早速今日から延長申請出しますからね。あ、でも、用事がある時は無理しなくて大丈夫ですから、そこは遠慮せずに言ってください。それと、参加してくれた人には、伝統に則り部長の私がお夕飯に『Hungry Cheese』のピザを御馳走します」
よっしゃあ、と伊吹が歓声を上げてガッツポーズを決めていた。
実のところ、本気で準備が間に合わなくて切羽詰まって延長申請を出す団体というのはほとんどないらしい。出展団体は「計画的に余裕を持って進める派」と「計画的にサボる派」に分かれるようで、文化祭前だからといって羽目を外しすぎずいつもどおり学業も忘れずにこなそうと考えるような冷静なメンバーが多い団体は前もってコツコツと準備を進めるので、延長するまでもなく通常の活動時間ですべてを終わらせる。一方、夜の教室で合法的に友達とわいわい騒ぎながら準備でも特別な思い出を共有したいと考えるようなノリのいいメンバーが多い団体だと、あえて延長申請できるように準備を詰めずにおいておく。演劇部は後者である。そして、そういう部活はそんなにないだろうと踏んでいた桐子だが、予想に反してノリのいい部活はかなり多かったようだ。
元々、四十もの部活があり、他の高校に比べれば母数が大きいからというのもあるだろうが、二十くらいの団体は延長申請をする。更に、クラスごとの出し物についても居残りで準備可能となっているため、最後の文化祭を前にして一週間前から盛り上がりを見せる三年生のクラスは延長申請を出すところが多いらしい。
そんな事前情報を弓香から仕入れた上で、桐子はその日の昼休み、申請書類を提出するために特別棟二階の生徒会室を目指した。申請の〆切は当日昼までで、延長申請は生徒会が取りまとめた上で当直の教員に申し送りをするようになっている。
生徒会室の前には順番待ちの列ができていた。事前情報があったので、納得の行列だ。桐子は最後尾について順番を待つ。教室から一人出てくると次の一人が入っていき、一人につきだいたい三分程度かかるようだった。
やがて順番が巡ってきて、桐子はノックして生徒会室に入る。ごく普通の生徒である桐子は今まで生徒会室などとは無縁だったため初めて入ったのだが、生徒会役員とはいえ一介の高校生が使うにしては備品がやけに豪奢な部屋だな、というのが第一印象だった。
部屋にいたのは、窓を背にした黒檀のデスクで書類を整理する生徒会長一人だった。一度見たら忘れることのできない美貌と刀を佩いているという強烈すぎる特徴を持つ、舟織一高で一番のカリスマ、帯刀深雪である。本人はやたらと「タイトウ」と呼ばせたがる。
「帯刀会長、演劇部の延長申請をお願いします」
記入してきた書類を提出すると、長い睫毛を揺らして帯刀が瞬きをし、まじまじと書類を見つめる。
「演劇部……今年の演劇部は、人数は少ないながらも面白いメンバーが揃っているようだ」
申請書類には演劇部五人の氏名が記載されている。だが、名前を見ただけで「面白いメンバー」だと断言できるほど、帯刀は生徒のことを知っているというのか。たまたま演劇部に知った名前が多いということか、それとも生徒全員のことを覚えているという意味なのか。計りかねて桐子が反応に困っていると、「ああ、失礼」と帯刀はくすりと笑う。
「種明かしをすると、私は全校生徒の顔と名前を覚えている。目立った功績があればそれも含めて」
「それはたとえば、運動部の大会で優勝した人とか、ですか」
「それも勿論。あとは試験の順位とか。君と碓氷君は、最初の試験でワンツーフィニッシュを決めていただろう? その二人が仲良く揃って演劇部か」
実は全く仲良くはないのだが、生徒会長とはいえ流石にそこまでは知らないだろうな、と桐子はひっそりと思う。
「先生方は試験の成績をいろいろな方面から分析していて、たとえば所属部活ごとの平均点数なんかも出しているわけだけど、君たち二人のおかげで演劇部は一気に成績優秀部に認定だね」
とりあえず、帯刀が生徒のことを知りすぎているということはよく解った。これが生徒会長に求められるカリスマ性という奴なのだろうか。否、桐子がいた中学の生徒会長はここまでレベルの高い人ではなかった。高校生というだけで中学生徒会と求められる標準レベルがそこまで大きく跳ね上がるということもあるまいから、これは単に帯刀が他の生徒会長とは次元の違う生き物だということだろう。帯刀の実力の片鱗を見せられて桐子は戦慄を覚えた。
帯刀は書類に不備がないことを確認すると承認印を押した。
「申請は受理した。演劇部の延長については私から今日の当直の神栖先生に申し送りしておく。全ての団体に注意していることだが、羽目は外しすぎないこと。火気厳禁。帰る時は原状復帰すること。放課後になったら割り当て表を取りに来てくれ。以上」
「ありがとうございます」
申請は問題なく受理され、桐子は一礼して踵を返す。
「――くれぐれも、気をつけて」
教室を出て扉を閉めるぎりぎりのところで滑り出してきた帯刀の言葉に桐子は首を傾げる。ただ、わざわざ中に戻って問いただすことでもないので、そのまま扉を閉めた。




