16いつまでも溜息ついてないで
胃痛の絶えない感じの台本であっても、相手役にいけ好かない奴がキャスティングされていたとしても、やるからには全力でやる。友人と一緒に部活に入ったからには、本気でやっている人に失礼なことはできない、胸を張って自分は真剣にやっていると宣言できるようにしようと、桐子は決めていた。
幸い、四月の中旬以降、遺産に関する大きな問題は起きず、急な召集がかかることもなかった。比較的平和な日常が過ぎていき、部活動にもきっちり参加できていた。桐子の仕事が暇ということは高確率で万里の仕事も暇ということになり、万里もまた休まず部活に参加してきていたので、敵と顔を突き合わせている時間がやたらと長いという奇妙な状況になっていたのだが、学校にいる間は「敵」ではなく「ただの級友」という設定なので、まあいいだろう。
ともあれ、順調に平和な高校生活を送り、暦は早くも五月となった。五月といえばゴールデンウィーク。四月に慣れないクラス、慣れない部活、難しい授業などで緊張と疲労を溜めこんだ新一年生にとって、砂漠の中のオアシスみたいな連休が目前に迫っていた。もっとも、今年のカレンダーでは合間に平日が絶妙に挟まっているせいで、ちまちまとした連休が断続的にやってくるので、さほどゴールデン感はない。思い切って遠くに旅行するにしては、若干二の足を踏むような具合だ。
とはいえ、連休は連休。ここのところ仕事は緩やかだし、ゴールデンウィークはゆっくりできそうだ、と桐子は踏んでいた。
しかし、その天国を迎える前に、舟織一高生には地獄の関門が待ち構えていた――
「あー、やっぱり明日、天気いいみたいですね」
放課後の部室、スマホで天気予報を見ていたらしい弓香部長が心底残念そうに溜息をつく。天気がいいのに憂鬱そうにするというのは、なかなかないことだ。彼女の実家が農家で水不足で悩んでいるとかそういうことだろうか、と桐子が他人事のようにぼんやり考えていると、雪音が腹筋トレーニングを中断して同意を示した。
「私、テルテル坊主逆さに吊るしてたんですけど、駄目でした」
「俺も割と祈ってたんすけどねえ」
伊吹までそんなことを言う。何をそんなにみんなして雨乞いをしているのだろう、と不思議に思っていると、弓香が苦笑気味に言う。
「上原ちゃんは平然としてますね。上原ちゃんは体力があるから羨ましいです」
「そう、桐子って結構体力あるよね。ランニングでも、私はすぐにばてるのに全然息きらさないし」
演劇部では基礎体力作りのためにランニングをするが、桐子はそこそこ体力はある方なので、走った後に涼しい顔をしていて弓香や雪音に感心されることが多々あった。
しかし、それが天気の話とどうつながるかいまいち解らないで首を傾げていると、ペットボトルの水を一口呷ってから万里が勝手に解説する。
「平然としてるんじゃなくて、失念してるだけの顔ですよ、それ」
よく解らないものの、馬鹿にされているニュアンスを敏感に感じ取った桐子は万里を軽く睨む。
「どういう意味よ」
「明日、歩く会だってちゃんと解ってる?」
「……、えっ、嘘、明日!?」
一拍置いて万里の言葉の意味を理解して、桐子は愕然とする。何だ忘れてただけか、と弓香たちは声を揃えて笑うが、桐子は俄然笑い事ではなくなってきた。
歩く会とは、舟織一高で三年に一度行われるイベントで、隣の水嗚市にある山の中腹あたりにバスで強制連行された全校生徒が学校を目指して約二十キロの行程をひたすら歩くという会だ。雨天の場合、延期ではなく中止になるので、多くの生徒が雨乞いをしていたようだが、残念ながら明日はピーカンとのことである。
「まあ、次の日から連休になるからゆっくり休めるっていうのが武士の情けだけれど、それでも二十キロはねえ……」
「全然情けじゃないよ、疲れ果てちゃって、連休初日はバタンキューで潰れる確定じゃん」
雪音と伊吹は揃って溜息をつく。
「演劇部って、ノルマとかないっすよね」
伊吹が恐る恐るといった風に弓香に尋ねる。歩く会は、その名が冠するように、基本的に歩けばいいイベントなのだが、運動部などは、遅くてもいいからとにかく走れとか、何位以内ゴールとか、何時間以内ゴールなどのノルマを課すところが多いということらしい。
「特にノルマはないから安心していいですよ。活動内容に運動はあるけど、運動部じゃないですしね、うち。私も、ちょっとくらいのウォーキングやジョギングは好きですけど、ここまで長距離になっちゃうと正直苦手ですし」
「あー、よかったー」
「のんびり歩くのがいいですよね」
「でも、あんまりのんびりしすぎていると、車で巡回してる先生たちに『もっと早く』ってせっつかれるみたいですよ」
「車に乗ってる人に言われても釈然としないですよー」
苦笑しながら言っていた雪音は、ふと思いついたような顔になって、桐子に向き直る。
「ね、桐子。一緒にのんびり歩きながらさ、台詞の練習しようよ」
「あ、それいいね」
文化祭公演まであと一か月ちょっと。少しでも台詞を覚えておきたい。それに、ただ歩いているだけだと疲れてしまうが、友達と一緒に楽しいことを考えていれば、少しは疲労を忘れられるだろう。桐子は一も二もなく賛成した。
すると、それを聞きつけた伊吹が割ってくる。
「いいな、俺も一緒に台詞やりに行っていいか?」
「勿論」
「やった。他の連中も、結構同じ部活同士で一緒に歩くっぽい雰囲気だったし、俺もそうしようっと。碓氷もいいか? やっぱ、主演がいないと始まらないよな!」
「え、あ、うん、大丈夫」
完全に他人事のように聞き流していた万里がそれを悟られないように慌てて同意した。その一瞬「いや桐子と一緒にとか勘弁してほしいし一人がいいんだけど、普通の高校生的社交性と協調性を思えばここは素直に同意する以外選択肢ないよな」と言いたげな葛藤が浮かんだのを桐子だけが気づいていた。
「あれ、でも、出発ってクラスごとに時間差だよね」
雪音が思い出したように言う。渋滞緩和のため、出発地の山の登山客用駐車場で降ろされた生徒たちは三年A組から順番に、様子を見ながら各クラス二分から五分ほどの時間差をつけてスタートをする。この中では伊吹だけD組なので、遅れて出発することになる。
「あ、そっか。じゃ、悪いんだけど待ってて……」
「頑張って追いついてきてね、五十嵐君」
「……お、おう」
笑顔でさらっと「走って来い」と要求する雪音は、意外とスパルタである。
★★★
テスト前に慌てて徹夜で勉強するのを「一夜漬け」という。では、歩く会前日に慌ててテルテル坊主を逆さに吊るすのは「一夜乞い」とでもいうのだろうか。そんな馬鹿馬鹿しいことを考えながら、桐子が得た教訓は「一夜漬けも一夜乞いも意味がない」ということだ。
五月二日は、天気予報通り晴れだった。楽しみにしているイベントなどでは、それまで週間予報では晴れのはずだったのに前日に急に予報が変わって雨になるなどという忌々しい事態がままあるというのに、こと歓迎していないイベントごととなると、予報は百発百中の精度を誇る。まったく、面白くない。
桐子はバスに揺られながら、雲一つなく広がる青空を窓越しに眺め、どんよりとした溜息をつく。隣の座席に座る雪音がそれを聞きつけて笑う。
「いつまでも溜息ついてないで現実見ようよ」
「溜息ついても生産性がないのは解っているんだけど」
「ここまできたら、やるしかないよ。ほら、向こう見てみなよ」
雪音が通路を挟んで斜め前に並んで座る女子二人を示す。二人とも製菓部に所属する生徒で、加藤千鶴と宮橋愛佳である。彼女たちはお菓子を作るのも食べるのも大好きで、入部してまだ一か月足らずだが、研究と試食の積み重ねにより既に体重が入学前より増加してしまったと笑いながら暴露していた。
「二十キロ歩いたら絶対痩せるよね」
「カロリー消費半端ないよね」
「終わったら自分へのご褒美で合法的にケーキ食べれるよね」
「三つ食べても帳尻が合う計算だよね」
二人で楽しそうに相談している。
「逞しいよね。私たちも見習って、歩き切れば痩せる! みたいな情熱をさ」
「雪音、痩せる必要ないじゃん」
もし体重が気になっているようなら、おそらく体重のうちのそこそこのシェアを誇りそうなその胸を少し分けてほしい、と桐子は羨望の眼差しを向ける。
「じゃあさ、一日中、合法的に演劇の練習ができると思って」
「うーん、まあ、確かに、そうだね」
ショルダーバッグの中には、お昼のお弁当と、スポーツドリンクと一緒に、台本を持ってきてある。最初のうちは前後が詰まっていてそれどころじゃないだろうが、少しして生徒たちのペースがばらけだし、車通りの少ない道に入ってしまえば、ときどき台本を見ながら歩いても問題はないだろう。聞いたところによると、他にも歩くのと同時進行で好きなことをして苦痛を軽減させようと考える生徒は多いようで、イヤホンで音楽を聞くくらいは序の口で、強者は読書やら携帯ゲームやらに勤しむつもりでいるらしい。
バスはスタート地点である水嗚市・鳴垣山中腹を目指し、くねくねと幾度も道を曲がりながら緩やかに坂を上って行く。やがて、自分たちと同じジャージを着た少年少女たちが歩道を一列になってぞろぞろと坂を下ってくるのとすれ違う。時間差で既に出発し始めた三年生のようだ。
この行列の後ろにやがて自分もつかなければならないわけだ。スタートの時は近づいている。どんどん憂鬱になってくる。桐子は重くなる気分をなんとか奮い立たせようとする。
雪音と一緒に演劇の練習をしながら歩けるというのはプラス要素だ。しかし、困ったことに万里までセットでついてきてしまったから、これはマイナス要素。プラスマイナスゼロで、結局歩く会という憂鬱イベントに対する意識は一切の補正なしで、開幕を余儀なくされた。




