110最初から決まっていた
慎重に慎重を重ね、策を積み重ね、苦労して、ようやくゴールが見えた瞬間、ぽっと出の奴に計画を台無しにされたら、まあブチ切れるのも解らなくはない。それをやられたのが自分だったら、普通にキレるだろうな、と万里は思う。
緻密に並べられたドミノを、あと一ピースのところで崩されてしまった吹田の精神状態は常軌を逸してしまった。その瞬間、元々人を狂わせる力を持っていて、ひび割れて壊れかけた《迷宮時計》が、ぴったりはまってしまった。
冷静に考えれば、壊れたと思っていた遺産が復活して、なんなら期せずして異能者になってパワーアップすらしているわけだから、吹田の計画はリカバリが利く段階なのだろうけれど、そもそも今の吹田には「冷静に考える」ということがまずできないのだろう。
まったく面倒な奴を敵に回してしまったものだ。そしてそれを、よりによって自分が何とかするしかない。
「……けど、そのためとはいえ、随分と無茶なことをさせられたもんだよ。桐子め、あとで覚えてろよ」
万里は溜息交じりに文句を言うが、返事ができる状態ではないので桐子は何も言わなかった。
作戦会議を終えて部屋を出て、後ろ手に扉を閉める。廊下を左右見渡すが、今のところ敵襲の気配はない。順当に考えれば吹田は大人しく階段を使って下りてくるだろう。敵に、ビルを飛び降りる脚力はない。こちらが逃げるつもりがないと解っているだろうから、焦りもしないで悠然と歩いてくる姿が目に浮かぶ。敵が余裕をこいているおかげで、こちらは作戦を立てる猶予があったわけだが、とはいえ、思い浮かべたら腹が立ってきたので、万里は憚ることなく舌打ちした。
「まあ仕方ないよね。俺が好きで首突っ込んだんだし、桐子は一人蹴飛ばしてノルマクリアしてるし、俺が一番元気だし、俺がやるのが筋だよね。だけど一番厄介で気持ち悪い奴ひいちゃったよ、俺絶対くじ運無い」
ぶちぶちと文句を言いながら廊下を歩いていき、ビル中央の階段の前に立つ。
こつ、こつと規則的な足音が下りてくる。どうやら敵のおでましのようだ。
音で、敵の居場所には見当がつく。タイミングを計る。こちらからは敵が見え、敵からはまだ自分に狙いが定まらない、そんな一瞬のタイミング、動き出すのはその時だ。
こつん、こつん、と足音はすぐそこまで迫っている。
心臓が脈打つ音が煩い。気持ちは急くけれど、まだ、今じゃない。このタイミングを間違えると、たぶん初手で詰んで死ぬ。
近づいてくる、足音。
やがて、踊り場に吹田の姿が微かに視界に入った。
吹田が方向を変えて万里を視界に捉えようとした、その刹那に。
「《神速撃》」
一歩を踏み出す。その一歩が、異能力によって常軌を逸して加速される。
数メートル先に立っていた吹田を視界に収めていた万里は、次の刹那には、目の前にただの壁しか見えていない。吹田の気配は斜め後ろにある。
絶対やらかすとは思っていたけれど、案の定、勢い余って敵を通り過ぎた。敵の目の前に着地して異能を発動される前に顎を下から打ち上げるのがベストだと思っていたのに、失敗した。
「だから無茶だって言ったんだよ俺は!」
桐子への苦情を叫びながら万里は敵を振り返る。加速しながら回転して、敵の背中に回し蹴りを。衝撃で吹田の体が浮き上がり、階段を転げ落ちていく。
埃を巻き上げながら階段下まで落下した吹田は、よろめきながらも起き上がろうとする。顔を上げる、その前に、万里は再び加速。距離を詰め、吹田の頭を上から踏みつける。
「ぅぐッ!」
敵は濁った呻き声をあげる。
実際やってみてよくよく解ったことだが、桐子の素晴らしいところは、この暴れ馬のような能力をたいへん適切に加減していることであろう。万里は今、若干、加減を間違えて、踏み潰された吹田は顔面を床に打ち付けた拍子に、たぶん歯の二、三本は折った気がする。
それでも吹田はしぶとくまだ動こうとしていた。
床を這ったまま、吹田は右手で得物を閃かせる。銀色に鋭く光ったのはアイスピック。見ないままで万里の足を狙う。
凶器が突き立てられる寸前に、万里は飛び退き踊り場まで退避する。
吹田が立ち上がり、アイスピックを擲つ。鋭利な凶器は、しかし虚しく空を切り、壁にぶつかって床に落ちる。高速で打ち出されたアイスピックだが、それでもその速度は当然《神速撃》より劣る。凶器が自分に辿り着く前に、万里は既に駆け出し、敵の視線をくぐり抜け、懐に深く潜り込む。
死角となる足元に気配を感じただろう、吹田がはっと見下ろしてくる。
逃げるでも攻撃するでもなく、ただただ反射的に、そこに迫ったものを視認しようとする。その瞬間に、万里は掌に小さな筒状の得物を召喚し、ボタンを押す。
敵が視ることで異能を発動するなら、視力を奪う。《武器庫》から呼び出した催涙スプレーは、吹田の顔面に直撃した。カプサイシンを主成分とする薬品を顔にぶちまけられるとどうなるかというと、うっかり唐辛子を触った後の手で目を擦ってしまった時の何倍もの悲劇的なことになる。
視界に入ったらNGの奴の目を潰すためにまず目の前に行く、という無茶な話も、《神速撃》の異能があればこのとおりである。
立て続けの攻撃に激昂し、しっかり目を見開いていた時に喰らったら、もう文字通り目も当てられない。吹田は怒りと激痛とで獣のように吠え、両手で顔を覆ってよろめき、耐え切れないというように膝をつく。
そうすると丁度、吹田の頭がいい位置にある。無防備な側頭部に膝蹴りを捻じ込んでやれば、吹田の体は廊下を跳ねていった。
異能を発動させる隙を与えない高速連撃。
吹田は未だ瞼を開けられないまま床に這いつくばっている。すぐには立ち上がってこれないはず……と思いたい。一方の万里の方は、連続で慣れない異能を使ったせいか、早くも息が上がってきている。思えば、異能を使うためのエネルギーと体力とは別電源であり、桐子は《神速撃》の本家であると同時にアホみたいなスタミナを持っているから平然と跳んだり蹴ったり走ったりを続けてやっているが、万里では同じようにいくわけがない。高速で延々と走り回り続けるなどというのは本来なら専門外で、《神速撃》を手に入れたからといっていきなり桐子の真似などしたら息が上がるに決まっている。
吹田も倒れて動きを止めたが、万里の方も動きが鈍ってきた。というか、こんなに体力を消耗するまで蹴りまくっているのに、なぜ吹田はまだ落ちないのか。万里なら桐子に一発蹴り飛ばされただけでも立つ気が無くなるのに、吹田はタフにもほどがある。
「けど……流石に、もう一回蹴ったら終わりにしてもいいんだろうな」
吹田の目は潰した。《迷宮時計》の異能はしばらくは使用不能だ。となれば、こちらは焦ることなく、力を集中させて渾身の一撃をくれてやれる。
次で決める。右脚に力を集束させ、狙うのは敵の下顎部。
一歩を踏み出す――その瞬間に。
「【動くな】」
濁った声が万里の体を貫いた。
「……っぁ?」
聞いてやる義理のない命令に、しかし万里の体は従順に従い、刹那の後に敵を蹴り飛ばそうと備えていた体はぴたりと動きを止めてしまう。
今更ながら万里のふんわりしすぎてあまりアテにならないレーダーが反応している。もう嫌な予感しかしない。
「【跪け】」
次いで発せられた言葉の意味を理解するや、膝からかくりと力が抜け、言われるがままに床に片膝をつく。万里は信じられない気分で瞠目する。
吹田はくつくつと笑いながらゆっくりと立ち上がる。まだ目潰しは効いているようだが、見えずとも、狭い直線の通路ゆえに、万里の居所はだいたい解るようで、よたよたと近づいてくる。右手にはナイフを握りしめて。
「言葉で動けなくしてから洗脳する、あるいは、洗脳を封じたと思わせたところで言葉で操る。どちらのやり方でも構わないが、いずれにしろ、《迷宮時計》と、言葉で他者を支配する遺産《猛毒の言霊》は、二つ一緒に使うのが正しいんだよ」
「お、前……」
こいつは――二重保持者だったのか。
だいたい洗脳の遺産だけでもタチが悪いのに、言霊の遺産まで持っているなんて話は聞いていない。視覚からだけでなく聴覚からも攻めて、徹底的に他者を操ろうとする、性格の悪さが滲み出ている戦い方だ。というか、その両方をそこそこ使いこなせるというのは、まあまあズルいんじゃないだろうか。
吹田は切り札を二枚持っていた。しかも、二枚目を使う機会は何度かあったはずなのに、確実にこちらを嵌めるためにここぞというときまで温存していた。言霊はおそらく、最後まで聞かせなければ発動しない。だから吹田は遺産発動のタイミングを計った。高速機動の異能を使い始めた万里に確実に言葉を浴びせられる好機をじっと待っていた。万里が疲労で足を止めるとき、目潰しで《迷宮時計》の発動はないと踏んで僅かな隙を見せるとき、それをずっと狙っていたのだ。
吹田はくつくつと嘲笑う。
「最初からお前に勝ち目などなかったんだよ。他者を操る二つの遺産を持つ私が最強だ。貴様は随分と必死に跳ねていたようだが、無駄なことだ」
普通なら一発でKOになってもいいはずの《神速撃》の連撃に耐えられた吹田司。それが単なる精神論とか、たまたま頑丈だったとか以外に理由があるとすれば。
「……《迷宮時計》を使用した自己暗示か」
「ご名答。私は自分自身に対して異能を行使し、痛みを忘れることで何度でも立ち上がる。泥臭い蹴り合いなどしても、貴様が先に力尽きることは、最初から決まっていた」
洗脳の異能は肉体的ダメージを受けること解除されてしまう。ゆえに吹田は攻撃を受けるたびにすぐさま異能を使い、何度でも繰り返し、それまでに受けた痛みを忘れ、リセットした。傷が無くなるわけでも癒えるわけでもない、ただ感じなくするだけ、死なない限り立ち上がり続けるための、狂気的な異能の使い方だ。
視界を奪われた吹田は、その使い方も今やできないようになっており、通常通りの痛みを感じているはずだが、万里の動きを封じた以上、もはやそのアドバンテージも不要といったところだ。見えずとも、多少動きが緩慢であっても、大人しく命令に従うしかない万里の反撃など、受けようはずもない。
一歩、吹田が近づいてくる。
「さて、こうして貴様が蹲っている間、私は視力が戻るのをのんびり待っても構わないわけだが、それでは面白くない」
さらに一歩、彼我の距離は十メートル程度。
「受けた痛みと屈辱は百倍にして返さなければならない。見えなくとも、動かない標的を甚振るくらいは容易いわけだからな」
ゆっくりと、しかし止まることなく近づいてくる。今や、ナイフを振り下ろせば届く距離に。
「ナイフで切り刻んで躰を壊すのが先か、それとも私の視力が戻って心を壊すのが先か。どちらになるか賭けでもするか?」
醜悪な異能者は目を閉じたまま嗤う。
「貴様の絶望している顔を拝めないのだけが、実に残念だよ」
敵にすぐ鼻先まで迫られていながら、万里の体は立ち上がることを拒否していた。言霊に縛られた体は膝をついたまま、両手は痺れたように震えている。武器を喚べても握れない。仮に握れても照準する前に【武器を捨てろ】と命じられればそれまでだ。
言葉よりも――音よりも速く戦えない限り、敵の異能は突破できない。
結局のところ、吹田司に唯一勝てるとしたら、音速姫以外にはいなかったのだと、思い知らされる結果だ。彼女をみすみす手負いにさせてしまったのは万里の失態だ。
付け焼刃で《神速撃》を手に入れても所詮は真似事にしかならない。あくまでも、碓氷万里は《神速撃》ではなく《奇術師の武器庫》の異能者なのだ。
――だから、最後くらいは自分らしくやってやろうじゃないか。
「あいにくだが……絶望してる暇なんてないんでね」
こういうヤバい時、万里はたいてい笑っている。
★★★
万里の言う「名案」を聞いて、桐子は当然に渋い顔をした。
「ここまで来たらもう一蓮托生だろう?」
「それはそうかもしれないけど、ねぇ。一応確認だけど、それ、試したことある?」
「ない」
「でしょうね」
堂々と断言したら桐子が深々と溜息をついた。
「まあ、試したことのないリスキーなことをするのは、私もつい今しがたやったところなのであまり文句も言えないけれど」
「そうそう、お互い様。今なら多少の無理難題でも、君は断れない立場なわけで」
桐子はなおも不満そうにした。まったく何がそんなに気に入らないのか。
「大丈夫だろ、間違いなく傷は悪化しないし、ご要望通り、ちゃんと目の前に敵の顔面を用意しておくから、君は景気よく蹴り飛ばしてくれるだけでOK。そういうわけだから、黙って待機しててくれる? 《武器庫》の中で」
★★★
刹那、万里の右手を介して、《武器庫》の異界から解き放たれた最終兵器――音速姫こと上原桐子は、計画通り目の前にあった吹田司の顔面に渾身の飛び膝蹴りをぶち込んだ。
武器を自在に異界に出し入れできる異能《奇術師の武器庫》には、万里が今までに収集したあらゆる武器が収められている。《武器庫》に武器を仕舞う条件は、万里が占有する武器に直接手を触れること。手では持てないような大きく重いものであっても、触れれば異能が使える。そのうち何かと役に立ちそうな猛獣を一頭飼っておきたいとも思っている。
さて、猛獣を――生物を《武器庫》に入れられるのなら、人間だって隠せるのではないか、という考えは、さほど飛躍のし過ぎでもないだろう。占有を条件とする以上、本人の同意は勿論必要だろうが、桐子が首を縦に振れば割といけてしまうのでは、と万里は楽観的に考えた。今まで試したことはなかったが、勢いでやってみたらできてしまった。そもそも異能力がどこまでのことをできてしまうかは適合率次第なところがあるから、その気になれば割と応用は利くものだ。
とはいえ、《武器庫》に人を隠したままの状態で万里が死んだら、中にいた人間がどうなってしまうのか、こればかりは万里にも解らなかった。無事に出てこれるのかどうか全く未知数でありながら、万里と桐子は賭けに出た。史上最悪に不確定要素がある策に、桐子は命を預けた。無論、初めはかなり渋っていたが、最終的に彼女は「そうはいうけど、どうせあなたはそうそう死なないでしょ」という雑な信頼を根拠にした。
「そういうわけだから、俺たちが勝つのは最初から決まっていたっていうか……って、もしかして、もう聞こえてない?」
本家本元《神速撃》の一撃を喰らった吹田司は、当然のように何も言わずにダウンしていた。




