103世も末というか
死んだら魂は肉体から抜け出していく、というのはありがちな話だが、成程、今がまさにその状況なのだな、と桐子は絶望のあまり泣きたくなった。しかし、体がない状態で涙は分泌されるものなのだろうか。現実逃避気味にそんな埒もないことを考えていると。
「大丈夫ですよ、死んでいませんから」
後ろから聞こえてきた女性の声に振り返る。ブラウンのサテンワンピースを優雅に着こなした女性がにこりと微笑んでいた。年のころは三十代後半くらいに見える。肩にかかる栗色の髪はゆるくウェーブしている。醸し出す雰囲気を一言で表すなら「おっとり」である。
初めて会う女性ではあるが、その姿を桐子は知っている。行方不明になった者を探すにあたっては、当然、対象の写真を確認した。
「夢咲希……さん」
「はい、初めまして、上原桐子さん」
そこにいたのは探し人、夢咲希であった。
桐子が希を知っているのは当然のこととして、ずっと眠らされていたという希はなぜ桐子を知っているのか。というか、なぜ今、彼女は普通に起きて喋っているのか。
「とりあえず、簡単に状況を説明します。上原さん、これは夢です」
「夢?」
「ええ。ここは夢の世界です。現実のあなたはそこで眠っています。私はあなたの意識を、私が支配する夢の世界にお招きしました。私の近くで眠ってる人なら、夢の中に呼べるんです。私、夢の世界では、割と何でもできちゃうんですよ。そういう異能を司る、《泡沫女神》の遺産を取り込んでいますから。人が遺産を使う時は、覚醒状態で、明確な意思がなければ使えないというのが原則ですが、《泡沫女神》は遺産の中でも数少ない、眠りながら使える……眠らなければ使えない代物です」
桐子は改めてあたりを見回す。桐子がいるのは、八畳ほどの部屋で、床も壁も無機質な灰色。小さな窓はあるが鉄格子が取り付けられているからおそらく嵌め殺しで、出入りには使えない。出入口となりそうな扉は一つだけついているが、まあ鍵がかかっているに違いない。明かりは天井からぶら下がる頼りない裸電球が一つきり。
つまり、狭苦しくて薄暗い部屋に、気を失った桐子が放り込まれて閉じ込められている、というのが現状だ。それを閉じ込められている張本人が俯瞰することになるのは予想外ではあるが。
それにしても、ここ最近拉致されてばかりだな、と桐子は自分の運の悪さ、間の悪さにうんざりする。今年は厄年だっただろうか。
「夢の世界っていうのは、現実の状況とリンクしているんですか」
「基本的にはそうです。だから私は眠りながらにして、現実世界で何が起きているかを把握することができます。ですが、あくまでも知ることができるというだけで、干渉はできません。あなたの体も、こんなに近くに見えていても、触れて、揺さぶって起こす、というようなことはできません。限りなく隣り合わせだけれど次元が違うというか……現実世界の上に重なった透明なセロファンの世界が、私の夢なんです」
「もしかして、だから私のことを知っていたんですか」
「その通りです。私はもう何年も、現実の世界では目を覚ましていませんが、騎士団の仲間たちのことはちゃんと知っています。夢の世界から盗み……いえ、覗き見しているのです」
言い直す意味があったかは不明だが、希は悪戯っぽく笑った。
「でも、現実世界とリンクしているのはあくまでベーシックな設定にすぎません。辛気臭い現実世界に嫌気が差したら、自由に『模様替え』できます。お客様にお茶の用意をすることもできちゃいます」
ぱちん、と希が指を鳴らす。瞬間、灰色の辛気臭い部屋は消え失せる。代わりに現れたのは、白い壁、花柄のカーペットが敷かれた床、ピンクのクロスがかけられた丸テーブルといった具合である。
これが、あらゆる遺産と適合する女王の力。夢咲希は《泡沫女神》の異能力を完璧に使いこなし、夢の世界を神の如くに支配している。そして支配した末にやってることが、お茶の準備。岸が女王をとんでもなくヤバい存在みたいに語るから、いったいどんな人が出てくるかと戦々恐々としていたが、とりあえず話は通じるし、友好的でマイペースな人物のようで、桐子はひとまず安心した。
ところで、桐子はふと思い出す。そういえば、この女性、岸の恋人だとか。岸は五十代くらいで、希は三十代くらいに見えるわけだが。
このカップル、いったい何歳差だ?
不意に浮かんだ疑問だが、楽しそうに紅茶を淹れる希を見ていたら、とても訊ける流れではなかったので、桐子は胸の中にしまい込んだ。
夢の中だというのに、不思議なことに、桐子は紅茶の香りや味、温かさを感じた。感覚がリアルすぎて、夢であると言われなければ解らない。
「まあ、あくまでも夢ですので、目が覚めたらお腹は膨れていないんですけどね」
希は苦笑する。
「さて、あなたが眠っている間に、重要なことは話しておかないといけませんね。現状について、私が把握している限りのことをお教えします」
「現状……あなたは、自分が拉致されたことも、解っているんですね」
「はい。私の体は、この部屋……あなたが閉じ込められている部屋の、隣の部屋にあります。私は今まで麻酔薬の投与によって眠っていましたから、薬が切れた今、体はいつ目覚めてもおかしくない状態ではあります。……が、目を覚ますと話が面倒になるので、《泡沫女神》の異能を使って夢の世界に引きこもってます」
希を拉致した敵は、まさか希が自主的に眠りの世界に引きこもることが可能だとは思っていないだろう。
「そして上原さん、あなたもまた、今目を覚ますと、大変厄介なことになると思います」
「あなたは敵の目的が解っているんですか。私は、なぜ自分が連れてこられたのか解ってないんです」
女王である希を拉致し、実質的に大量の遺産を支配下に置いて、敵はそれで満足ではないのだろうか、というのが桐子の疑問である。
「敵組織は『傀儡屋』といいます。リーダーの吹田という男は洗脳能力を使います。彼の目的は女王を洗脳して自分の支配下に置くことです。そうすれば、彼が多くの遺産を自在に使いこなすことができるわけです」
自分で遺産を使いこなすのではなく、遺産を使いこなせる人間を手駒にする、というのが敵の発想というわけだ。確かに、遺産を大量に集めても、そのすべてに適合し、使いこなせるわけではない。だったら、完璧に使いこなせる人間を操ってしまったほうが、自分で頑張って遺産を使うよりも、効率的で合理的だ。
「そして問題となるのは、いつまで女王を支配しておけるかということです。ご存じの通り、私はもう余命幾許もない身です。吹田としては、折角苦労して女王を支配しても、消費期限が間近に迫っていたのでは面白くないわけです。そこで彼は考えました。すぐに壊れることが解っている女王など、とっとと壊してしまい、次に生まれた二代目の女王を支配してしまえば、このさき何十年も利用できるだろう、と」
「それって、つまり――」
「彼らの計画では、私はこの後、殺されます」
自分が殺されるということを――桐子ですら、察しはしたが言葉にするのが憚られた最悪の想定を、希当人は淡々と述べた。躊躇っている猶予はないということなのか、希は厳しい表情で続ける。
「上原さん、あなたは目を覚ましたら、吹田によって洗脳されてしまうでしょう。そして私は殺され、私から吐き出されたすべての遺産は、高い適合率を持つあなたに引き寄せられ、取り込まれる……そうして生まれる二代目の女王を、吹田は手に入れることになるのです」
希は誘拐された身でありながら、敵の計画を殆ど把握していた。敵は、まさか希が眠りながらにして、夢の世界から盗み聞きしているとは露とも思わず、眠り続ける彼女の傍で計画を饒舌に話していたのだという。
「幸い、吹田の遺産《迷宮時計》は、それを見た者にしか効きません。眠っている間は洗脳されません。とはいえ、私自身は自由に引きこもれても、お招きした人をいつまでも引き留めることはさすがに難しいので、あなたが目を覚ますまでの時間の猶予は、さほどないかもしれません」
希の予想では、目を覚ませば《迷宮時計》の洗脳能力の餌食となり、希から桐子へ、女王の役目の引継ぎをする準備が整えば、その時点で希の殺害が実行されてしまう。
「その吹田という男は今、隣の部屋であなたを見張っているんですか」
「そのようです。私、曲がりなりにも現女王なので、少しは警戒されているみたいですね、自分が目を離している隙に目を覚ましてイレギュラーを起こされたら困ると思っているのでしょう。手順としては、厄介そうな私をまず異能で無力化し、次に上原さんを無力化する。上原さんは、とりあえず毒の影響ですぐには動けないはずだからと、ひとまず雑に放っておかれているわけです」
確かに雑にほっぽり出されていたな、と桐子は先ほど自分で見た己の体を思い返す。拘束はされていたし、部屋に鍵はかかっていたのだろうが、中に見張りはいなかった。
桐子が受けた毒は、ほんの少し掠めただけにもかかわらず、意識を混濁させるものだった。なかなか目を覚まさないのも道理だし、起きたところで、すぐさま元気に動けるとも思えないから、しばらくは朦朧としたままになるだろう。
「敵は、吹田の他にもいるんですか」
「はい。吹田の洗脳で手駒にされている遺産保持者や、お金で雇われた兵が何人かいて、この場所に辿り着けないよう陽動や足止めに出ているようですが……差し当たって問題になるのは『傀儡屋』の正規メンバーです。吹田の他には二人、梶谷紬という女性と、佐伯公彦という男性です」
梶谷は桐子を拉致した忌々しい女だ。佐伯という男は、会ったことがない。
「梶谷はどうやら植物を操るようですね。佐伯は、離れた空間を繋げて、瞬間移動のようなことができます。私が誘拐されるとき、痕跡を残さずに逃亡できたのはこの異能を上手く使ったからですね」
たいていの異能は、万全の状態であれば、敵が動くより先に音速で先制して片付けられるのだが、いかんせん桐子は万全とは程遠い状態である。しかもそのうち一人は瞬間移動ときた。音速機動と瞬間移動は、さてどちらが速いのだろうか。音速といっても、桐子は常に音速で動いているわけではないので、まあまあ分が悪い。一人でどうにかできる相手ではない。仲間が必要だ。
仲間が首尾よくこの場所を見つけてくれるかは、正直微妙なところだ。騎士団の本部では永倉たちが情報収集に徹していたようだが、結局、希の捜索においては芳しい結果が出なかった。傀儡屋の連中は希を誘拐するにあたって、よほど周到に準備をし、間違っても自分たちの計画に邪魔が入ることのないよう、完璧に逃走してみせたようだ。瞬間移動の能力者がいるのなら、完璧な逃走・潜伏も、容易かっただろう。
この状況で期待できる仲間というと……。
難しい状況に、桐子は憂鬱な溜息をつく。
「上原さん、なんだか、とても不本意そうな顔をしていますね」
希の指摘に桐子は肩を竦める。確かに彼女の言う通り、桐子はとても不本意で、不満で、心底苦々しい顔をしていた。
「ここを見つけてくれるとしたら、きっとあの性悪男なんでしょうね……あんな奴が頼りだなんて、世も末というか、ええ、かなり不本意です」




