第6話 沖田よ、匂いの元を斬れ
芹沢の言った『アレ』とは、浪士組本隊から残留組取りまとめの為に残る事になった、殿内義雄という男である。
この男、残留が決まってからというもの、明け六つ(午前六時頃)には俺達の寄宿していた八木家にやって来て、「おはようございます、本日も一日頑張りましょう」と俺達を起こして回る。
そしてその後門の辺りをウロウロし、俺達がどこかへ出かけようとすると「どこへ行くのか」と言っては根掘り葉掘り聞き、いちいち名前と行先を帳面に付けている。
もし殿内にとって正当な理由と思われない時には「ならぬ。今しばらくこちらにて待機せよ」と言って通してはくれない。
六つ半(午後七時頃)になると、「それではこれにて。また明日」と言って帰っていく。何をしているかというと、これだけである。
取りまとめと取り締まりを間違えてるんじゃないか。
また「こんなに融通の利かない人間は見た事がない」と思った程、頭がとてつもなく堅い人間だった。
浪士組本隊は混乱の中で江戸へ戻る事になり、そんな状況で「残る」と我を通した俺達のその後について考えている筈なんかなく、ただ体裁として殿内を残していったに過ぎないと思う。
だが当の殿内はまるで責任を一手に任されたような気分であり、いずれ本隊からしかるべき指令が届く筈で、それまではこの者達を統制し、待機していよう、と思っているようだ。
なれば幕府側から会津藩に処遇が委ねられた以上、それに従うのが筋だと思うのだが、たかだか浪士組から役を貰った程度であたかも幕臣にでもなったつもりか、「そのような話は幕府から正式にはそれがしの所に来てはいない」と相手にしなかった。
今回の会津本陣からの応召も「会津侯にヨロシク伝えてくれ」とだけ言って、全く来る気配はなかった。
殿内の上から目線の態度には八木家に寄宿する試衛館一派、また芹沢一派も同様に辟易していた。
京に残る俺達の立場や浪士組のこれからの話をいくら説明しても「君達浪士の一意見ではないか、幕府からの指示を待つ」と言って全く聞く耳を持たなかった。
元を糺せばてめえだって浪士じゃねえか。
兎にも角にも殿内がいる限りは『壬生浪士組』としての活動もままならず、奴をどうするか試衛館一派が集まって談判をした。
「何とか江戸へお帰り願う方法ってないもんかね。ほら『江戸から召還命令が下った』とかなんとか言ってさ」
菓子をパリポリと齧りながら、左之助が呟いた。
「無理だ。きっと殿内は取締役の誰かがやって来て、直接伝える事以外は信じないだろう。人伝や書状なんかも信用しない」
近藤さんも菓子に手を伸ばす。
「慌てて江戸へ帰るんだ、そんな奴の所に目を掛けて戻ってくる奴がどこにいるってんだよ。そんなの待ってる内に頭がどうにかなるんじゃねえのか」
「そんなタマには見えねえな。あんなしょうもない毎日送ってるのに、気落ちするどころか何だかイキイキしてやがる。ありゃあ、十年でも二十年でも待つぜ」
源さんも新八も話ながら菓子へと手をやる。
いやに菓子が人気だと思ったが、それもその筈、本日のおやつは北海道名産のホワイトチョコラングドシャ。
さっくりと香ばしく焼き上げた生地に道産ミルクをふんだんに使ったミルクチョコが挟まって、一口食べると上品な甘さが口いっぱいに…。
「…これは処分する」
全員が「エーッ」と叫んだ。
どっから持ってきたこんなもん。
お前らはかりんとうでもしがんでろ。
総司の顔を見るといたずらっぽく舌を出した。やはり総司か。
こいつの事だからこれ以外にもあるだろうと思い「後でお前の部屋に行くからな」というと世界が滅亡したかのような顔でがっかりした。
「何とか話をして、納得してもらう方法はないのかね?」
菓子を取り上げられ意気消沈した連中に代わって、山南さんが発言した。
しかしこの人は優しいというか、甘い。
「ありゃダメだ。話が全く通じねえ。天地開闢以来、あんな石頭いなかったんじゃねえか」
俺がそう言うと左之助と新八は口々に「そうだ、ありゃロボだ」「本当だロボっぽい」と言い出した。
「じゃあ逆に、こっちに取り込んじゃうとか?『一緒に京で頑張りましょう』とか何とか言って」
「平助、あいつがそんな話に乗ると思うか?それに万が一乗ってきたらどうするよ」
「あっ…」
いい事を思いついたような口振りで提案した平助だったが、『殿内と暮らす京での日々』というのを想像して閉口した。
平助だけじゃない、その場にいた全員が殿内なんかと今後も付き合っていくのはご免だった。
「あの人、臭いんですよね」
全員が一番感じていた事を素直に平助が口に出した。
その通りあいつは臭い。
近付くと酸っぱい匂いが鼻を突き刺してくる。
汗まみれの襦袢を絞り、絞ったものを何十人分と集めて作った香水を身に纏っているかのような臭さだ。その時の匂いで八木家に奴がいるかどうか、分かる程臭かった。
本人はその事に全く気付いてない。
「じゃあもう、斬るか」
近藤さんがそう呟くと、斬るのも已む無し、といった雰囲気で大半が頷いた。
「待って下さい!彼が臭いのは確かにそうです。しかし、それを理由に斬るなんて事、おかしいと思いませんか?」
山南さんが苦言を呈した。
まあ山南さんの意見は尤もなんだが、これは一番の理由という訳じゃなくて、他にも理由があった上でのとどめの一撃みたいなもんだ。
一番ではない、と思う、気がする。
「山南さん、別に『臭いから斬る』って言ってるんじゃないんだよ。ただこのままじゃ容保公の仰せになられた、組織の編成もままならず、無駄な時間を過ごし続けるだけになっちまう。俺達が京で思うように動く為には、殿内は排除しなければならない」
なるべく穏便に、という山南さんの気持ちは分かる。はじめはそう済ませればいいと考えていたが、そうもいかない。俺達には時間がなかった。
「あまりうかうかしていると、芹沢が動く。奴に借りを作るのは、今後の事を考えると非常にまずい」
俺の一言に、試衛館一派の気持ちは固まったようだった。
山南さんも致し方ないといった風に、それ以上何も言わなかった。
殿内を斬る。これしか方法はない。
後は、いつ・どこで・誰が斬るかだ。
「じゃあ、誰がやる」
「…」
この時俺達試衛館一派の中で、実際に人を斬った事のある奴はいなかった。
いずれ取り締まりの対象となる不逞浪士と斬り合いになる事もあるだろう、遅いか早いかだけの違いだったが、誰もが踏ん切りがつかないのか手を挙げるのを躊躇っていた。
「それじゃあ、俺が…」
「僕がやります」
ならばいっそ俺がと思い声を出したが、被せるように総司が手を挙げた。
総司か。剣の腕前で言えば何の心配もなかったが、懸念する事は一つあった。
「総司、お前大丈夫なのか?ほら、前みたいな事になったりしたら」
「大丈夫ですよ。普段の稽古でもそんな事にはなってないでしょ。大丈夫です」
近藤さんもおそらく俺と同じ事を考えて声を掛けたが、心配いらないとばかりに総司は微笑んだ。
殿内は体格も良く、剣の腕も確かだという事だったので、念の為に策を講じて闇討ちする事になった。
その日、いつものように六つ半に「また明日」と言って帰る殿内に、近藤さんが「時局について色々とご教示頂きたい」と引き止めた。
普段そのような声が掛かる事はない殿内は嬉しかったのか、珍しく残って近藤さんに自分の思うところを話し出した。
入れ違いに出ていった総司を確認した俺も同席していたが、まあ今更聞かなくってもいいような、教本に乗っているかの如き話ばかりであった。
それを近藤さんは「成程」「勉強になります」と呆れもせずによく付き合ったものだ。
はじめ俺達は酒を飲ませてベロベロにしてしまおう、と考えていたが、どうやら下戸らしく、いくら酒を進めても手を付けなかった。
これはもしかすると、しくじるんじゃないか、と心配したが、半刻程経つと殿内は明らかに眠そうになり、船を漕ぎながら辛うじて喋っている状態になった。
いつもはもう寝ている時刻なのだろう。
てか、体内時計が正確すぎるな。
もう半刻喋らせてから、もう目の開いていない殿内を、近藤さんが送っていった。
俺達の算段では四条大橋を通る時に、待ち伏せした総司が殿内を斬る事になっていた。
中々帰ってこない二人に俺達は気を揉んだ。
俺達は話もせず黙って待っていが、俺は近藤さんの四代目宗家襲名の野試合の事を思い出していた。
あれは二年前、近藤さんが天然理心流四代目を襲名するに当たって、襲名披露の野試合を六所宮で行った。
まだ左之助と新八と平助は試衛館にいなかった頃だ。
七十名余りが紅白の軍に分かれ、相手の大将を倒した方が勝ち、という決まりで三本勝負だった。
紅組には試衛館組を中心とした軍で、俺と山南さんがいた。
白組は多摩・日野の門下生で構成され、大将は俺の義兄・佐藤彦五郎だった。
近藤さんは総大将という名の検分役で参加せず、総司と源さんも近藤さんに付き従ってどちらの軍にも入っていなかった。
試合、というよりは祭りに近かったこの野試合、中々に楽しいものだった。
一人ひとりが額に小さな杯を括り付け、それを割られると『討死』であり、やった方もやられた方も笑顔で賑やかな試合であった。
一本目は白組の勝利、二本目は紅組の勝利で、決着は三本目に委ねられた。
この時近藤さんと一緒に検分していた総司だったが、楽しそうに剣を振るう俺達の姿をみてウズウズしてきたのか、近藤さんに「僕も出たい」と言って紅組に加わる事になった。
もとより剣に天賦の才を見せていた総司がこちらに加わるというので、紅組は「この勝負もらった」とほくそ笑んだ。
しかし、運命の三本目は思わぬ展開を見せる。
乱戦となり俺は大将を守るのに必死だったが、総司はちょうど中心付近で囲まれていたようだ。
その内義兄率いる白組が勢いを増してこちらへ押し寄せてきたので、一人入ったぐらいではどうにもならないか、と考えながら山南さんと乾坤一擲向こうの本陣に奇襲をかけるか、と話していた。
その時、乱戦の輪の中から人のものと思われないような雄叫びが聞こえてきた。
「グギャギャギャギャッ!!」
その瞬間、四人程が宙に向かって吹き飛んだ。
「何だ?」
全員の動きが止まった。
俺は騒動の中心を遠目から見た。
そこには総司が立っていた。
しかしいつもの温厚そうな表情ではなく、人が変わったような、まるで牙でも生えているかのような表情で一人立っていた。
「ギケリャリャリャリャリャリャッ!!」
耳をつんざくような声を叫び、総司は次々と白組の連中を斬った。
いや、吹き飛ばしていった。
凄まじい速度で敵陣へ突っ込む総司に、近付いた白組の連中は一人また一人と宙に舞いあがった。
よく見ると、どうも近くに寄った紅組の奴まで吹き飛ばしている。
仲間の紅組の連中も、傍から見ている見物客も最初の間こそ「総司、すげえな」と喝采して囃し立てたが、あまりにも現実離れした光景に一同少しずつ言葉少なになり、ついには黙ってしまった。
総司の勢いは止まらず、とうとう白組大将まで吹っ飛ばした。
「きゃうっ」と義兄が大の男が出す筈のない声で放物線を描いた。
ともあれ紅組の勝利という事で、一応鬨の声を上げようという事になった。
「「エイ、エイ、オ…」」
「ガギョギョギョギャギャギャギャギャッ!!」
気付くと総司がこちらの方を向いて叫んでいる。まさか。
「ゲガギャギャギョギャギャギャギャッ!!」
今度はこちらへ総司が突進してきた。
紅組の奴らが「ぶへえ」「あふぉあ」とかいいながら左右に弾けていく。
近付く総司の顔は、目が血走り、顔も真っ赤で、まるで鬼のような風体だった。
こんな総司は見た事がなかった。
身の危険を感じつつも急な事にどうしていいか分からず、その場を動けなかった。
身体全部で剣を振り上げて目の前のものを弾き飛ばす様は、さながら猛獣のようで、総司の後ろには食い散らかされたように倒れた男しかいなかった。
「おい、総――」
三間程近くまで来たところで総司に声を掛けたはずだったが、知らない間に空を飛び、程なく地面と接吻した。
その後の記憶はない。
総司は山南さんや紅組の大将も薙ぎ倒し、更には近藤さん達、見物客までも一人残らず吹き飛ばしてしまった。
「イテテテテテ…」
意識が戻って身体を起こすと、そこは立っている者は一人もおらず、死屍累々の有様であった。
気が付いた時に一瞬、今まで何をやっていたのか分からなくなっていた。
さっきの出来事は、現実に起こった事だったのだろうか。
総司はというと、ど真ん中で大の字になって倒れていた。
吹き飛んだ衝撃で痛む身体を引き摺りながら総司の下へ向かうと、明らかに様子がおかしかった。
「おい、総司!総司!」
総司は先程の赤黒く「鬼か」と思った顔から一変、血の気が失せて真っ青だった。
脂汗を掻いて、苦しそうにブルブルと震えていた。
何度呼んでも反応しない。
人を集めてすぐに連れて帰った。
野試合は滅茶苦茶になってしまったが、その事に文句を付ける者は誰一人いなかった。
それからなんと総司はひと月も寝込んだ。
幾人かの医者にも見てもらったが、どういう状況か分かる医者はいなかった。
唯一人、名の知れた漢方医が総司を見た時に「何させたか分からんが、身体の精気が出切ってるよ。命に係わる」と言った。
グッと空気の重くなったようなものを感じた。
俺達は総司の容態をずっと心配していた。
総司は天然理心流の光だった。
十歳の時に内弟子として試衛館に入門して以来、メキメキと剣の腕を上げ、声変わりをする頃には敵う大人がいなくなった。
周斎先生も「これは天才だ」と特に目を掛け、十代で塾頭にまでなって、よそへ出しても恥ずかしくない、試衛館自慢の剣士だった。
近藤さんも「総司程、剣に愛された男はいない」と常日頃から言っており、もし後継ぎが出来なければ、総司に五代目を、と考えた程だった。
剣だけではなく、人からも愛される男だった。
大人になっても低いままの背丈に、人懐っこい笑顔、天然理心流の門人にとって総司は、みんなの可愛い弟だった。
野試合で総司の豹変に驚き、吹き飛ばされた連中も、恨み言一つ言わず、ただ総司の身を心配してくれていた。
だから俺と近藤さんは「もし元気になったなら、剣が持てなくなっても、一生面倒を見ていこう」と誓い合った。
ひと月経って、総司は床から起き上がった。
俺達は自分の事のように喜んだ。
病み上がりは「本当に生きているんだろうか」という位に痩せこけてしまっていたが、二月、三月と経つ内に顔にも精気が戻り、前の総司と変わらない程になった。
野試合当日の事を聞くと、「覚えてない」と言った。
何故ああなったのか、ああなってる時の事、全て記憶にないとの事だった。
無意識にあのような事をしてしまう、というのだから、俺達はその後の総司の様子を注意して見ていた。
しかしこんにちまで、総司のあの姿を見る事はなく、平穏無事に暮らしてきた。
あの総司はとてつもない強さ、人間離れした強さではあったが、敵味方の区別もなくなって尚且つ命を縮めるような真似、出来るなら二度と見たくはない。
…あれから幾度も稽古をしたり、竹刀を振るう機会はあったが、大丈夫だった。
しかし、人を斬るような、命のやり取りという極限状態ならあるいは。
近藤さんと総司を待つ間、俺は気が気でなかった。
殿内殺害の是非よりも、総司が心配だった。
「ただいまー」
想像以上に気の抜けた総司の声が聞こえ、俺達は玄関先へと向かった。
総司は血だらけだったが、けろっとした顔で「湯浴みがしたいな。どなたかお湯を沸かしてくれませんか」と言った。
どうやら殿内の返り血が付いただけで、総司は全くの無傷だったようだ。
同行した近藤さんに目をやると、心配ないとばかりに頷いて見せた。
俺の杞憂に終わってよかった。
総司が湯浴みをしている間に、顛末を近藤さんから聞いた。
半分寝ている状態で歩いていた殿内は、何とも呆気なく総司の突きに喉を貫かれて絶命した。
声も上げず、夢見心地のまま死んでいったのであろう。
臭いとはいえ、俺達の為に死んだようなものだ。
いくら臭いとはいえ、可哀想な事をした、と一瞬思った。
ともあれ、俺達が壬生浪士組として再出発するに当たっての障害は取り除かれた。
殿内の件は、総司が人を一人斬った、という事だけではなかった。
臭いが、罪もない人を斬ったのだ。
もう後戻りの出来ない道へと、俺達は足を踏み入れたのだ。
洗っても中々落ちない総司の服の染みを見て、俺は武者震いをした。ここからだ。
総司はこの後しばらく、どうも俺達を下に見るようになっていた。
人を斬った、というのが自信に繋がったのか、まるで童貞を仲間より先に捨てた奴が偉そうにしているかのようだった。
事ある毎に誰かが何か言えば「へえ。で、○○さんは人を斬った事あるんですか?」と憎たらしい顔をして言ってくる。
俺もはじめは「本当は罪悪感の中、強がって言ってるんじゃないか」とか考えたが、あんまり言うもんだからどうでも良くなった。
「へえ。で、土方さんは人を斬った事あるんですか?」
「光栄に思え。お前を最初の一人にしてやる」
刀を抜きかけると、総司は顔色を変えて逃げ出した。
それ以降、総司がその言葉を俺に使う事はなくなった。
ストックはここまでなので、続きは書き上がり次第、随時出します