いじめなんて、100%いじめる方が絶対に悪いに決まってる・・・のかなぁ?
いやまあ結果だけを見ればそうだし、理不尽ないじめもあるだろう。
けれど、そもそもいじめというのは人の争いの一部なんだ。片方が絶対悪とかはありえない。
そしていじめの根幹は基本多数派対少数派なんだ。三人寄れば派閥が出来るっていうだろう?もう人の性なんだ。日本だけじゃなく、世界中でいつでもどこでも、大なり小なり起こっている。良いも悪いもない。
もちろん、知的、身体的障碍者をいじめるような奴は最低だし罰すればいいと思う。
けど、子供というのは残酷だ。いや大人の中でも理解を持って、身障者に接しているかというと、どうかなと感じる。
人は異物を排除する。特に子供は建前とか社会的立場や、生活がかかっている訳ではないから、全く容赦がない。
そんな所に平等を謳って、身障者を放り込んでも上手くいくはずがない。その様な行為は第三者のエゴであり、博愛や理解を強要しても反発を招くだけで、要らぬいじめを誘発してしまうのではないか。
もし、いじめが発生してしまった場合、その原因は不用意に一緒にしてしまった第三者に責任があるのではないか?そもそも一緒にしなければ、その軋轢は生まれなかったはずだからだ。
暴論ではあると思う。社会に適応して貰いたい、社会の皆に理解して欲しいという親の気持ちもわかる。
だが、矢面に立つのは身障者なのだ。腫れ物を扱うように当たり障りなく基本は相手にしない。心の中で嫌悪して無視する。そんな状態が身障者にとって良い環境と言えるのか。理解が得られると思うのか。逆方向に理解を深めてどうすると言うのか。
理解を示す者に呼びかけて、ボランティアして貰い、少しづつ輪を広げていった方がいいのではないかと思う。
いじめ原因は様々で一概には言えない。目つきが気に食わないとか些細なものから、いじめっ子が性格が悪かったとか、妬み嫉みでというのもあるだろう。
でも、いじめのほとんどのものは一過性の台風みたいなものであり、通り過ぎれば元に戻る。いじめた方が反省したかな?とか可哀想だなという気持ちが湧いて許すからだ。また、いじめられっ子が謝って仲直りする場合もある。
これによって性格や態度が矯正されて大人になっていく。これは必要な儀式であり、一種の通過儀礼なのだ。
ただ長期に渡る場合もあって、これは当事者間の感情や立場に起因する。
悪質でエスカレートするいじめに対しては当事者で解決するのはほぼ不可能で、劇的な環境の変化や、外部の親や教師、警察などに頼るしかない。これはもう本当にどうしようもない。相手は人として見ていない、便利な道具くらいにしか思ってない。唯々諾々と従っても改善しない。泥沼だ。でも報復が恐いから何も出来ない。
そして精神的ないじめに関しては立証も難しく、親や教師などに相談すれば一時的な改善はするかも知れないが、根本的な解決には至らない。彼ら親や教師は常に一緒にいる訳でも何でもなく友達でもないからだ。そしてそれは事態をより悪化させる要因と成り得る場合もある。
というか、皆それをわかっているから表面に出にくい訳で、そのせいで拗れてしまい、最悪の結果を招いてしまう場合もある。
ではいじめを受けた場合はどうすればいいのか?一番良いのは即、和解することだが、お互いの感情や立場が邪魔をして難しい事もある。かといって距離を置いて嵐が過ぎ去るのを待っても、その状態が固定化されてしまう場合もある。
固定化してしまうと、それが当たり前の状態となってしまい、いじめ側や周りも何故こんな事になってしまったのか?訳が分からなくなり、その状態を改善しようと思っても相当の勇気が要るようになる。だから見て見ぬふりをしてしまう。もちろん当事者の態度が改まらない場合や、悪意があって続けている場合もある。
そもそも容姿や性格が悪いからといって必ずしもいじめられるとは限らない。
それは動けるデブであったり、顔面不自由でも人を笑わせる要素があったり、運動は出来ないが頭が良いとか。性格に多少難があっても力やコミュ力があったり、人を惹きつけたり、付け入る隙を与えない何かがあるから。
でも、いじめを受けるほとんどの人はその様なものはない。もしくは見つけられてない。そして自分を変えられない。
忠言耳に逆らう。自分を客観的に見るのはとても難しく、人の批判は受け入れがたい。
素直に他人の意見に耳を傾ける人というのは中々いない。誰しも自分の考え方があり、他人とは全く違うからだ。
人と違う事に配慮せず、意見が批判に。批判が罵倒に変わった延長上にあるのがいじめである。
例えば、ある所でこんな意見が合った。
「100%いじめる方が絶対に悪いに決まってる。何故なら彼らは家庭環境が悪いからいじめに走る」とか、「DQNだから」とか、「遺伝子に欠陥がある」とか「被害者の気持ちが分からない馬鹿」とかね。
その様な憶測での個人的中傷は、もういじめに近いのではないだろうか。後はその意見に共感する人がいるか、いないかによって多人数対少数のいじめの構造が出来上がる。
とんだお笑い種だ。彼らは絶対悪だと信じて、他の否定的な意見を批判する為に、自らいじめ側に回り100%でない事を証明しているのだ。もう訳がわからないよ・・・・・・
ところで最近あった埼玉の仁王立ち女子高生を知っているだろうか。いじめによる原因かはわからないが、そういうのを見聞きするたびに切ない気持ちになる。
学校で無視されたり罵倒されたりするのは、悲しいし辛いし惨めで、周りの何もかもが悪意に満ちて見えるだろう。自分の居場所を見つけられなくて、とても不安で寂しく、押し潰されそうな気持ちになるだろう。焦燥感にかられてもういっそ、と思っているかも知れない。
その気持ちはわかる。私もいじめられた事があるからだ。窓の外を見ながら「爆弾でも落ちてみんな吹き飛ばないかな」とかリアルで妄想してしまう、今思えば、ちょっと危ない状態だった。
だが相手を直接どうこうとか自分がいなくなればとは思わなかった。例えるなら私はリトアカのアッコみたいな単純な性格だった。懲りずに他グループに話しかけたり、公園に行ってみたり、釣りしてるおじさんに話しかけたりしていた。そのおじさんからタナゴを貰って、世話して気分を紛らわせたりした。そんな事をしている内になんとなく自分に足りないものを察した。それからは一呼吸置いて発言したり、ズカズカと相手に踏み込まないよう心がけた。それが功を奏したか、いじめられることはなくなった。
でもそんな事は出来ないよと思う人もいるだろう。
だがちょっと待って欲しい。いじめ如きで人生を投げ出してしまうくらいなら、ちょっとだけ勇気を持って外に自分の居場所を探してみてはどうだろうか?
もちろん居場所を変えても君自身は変わってない。またいじめは起こりうる事だ。だがそこで気の合う仲間と出会うことが出来るかもしれない。見つけられなくても自分を見つめ直したり、自信につながる何かを見つけられるかもしれない。
そんなに都合よくいくわけがない。そうかも知れない。でもいじめの相手が悪いんだと、暗い穴に向かって叫んでも何も変わらないし、誰も助けてはくれない。周りが変わらないなら自分を変えていくしかない。
自分自身が変われば周りの見る目も変化する。居場所が出来たり自分に自身が持てれば、心に余裕が生まれて雰囲気も変わる。
その変化によって君のいじめが終わる事を願って。
駄文をお読み頂きありがとうございます。
怪しい日本語は笑って流して頂ければ幸いです。